6話 戦闘
門を抜けた瞬間、街の音が一枚、剥がれ落ちた。
露店の呼び声も、金属を打つ音も、遠くのざわめきも、背中側に置いていかれる。代わりに耳に入るのは、車輪が土を噛む音と、風が草を撫でる音だけだ。空気が軽い。湿り気も、まだ薄い。
「ここからが森か?」
カイルが言う。
「正確には、森の入口だ」
俺は前を見たまま答える。
「安心するには早いが、慌てる必要もない」
レイヴァルト近郊の森は“管理されている”と呼ばれている。つまり、冒険者ギルドが定期的に討伐を回し、街道沿いは掃除されている。魔物が出ないわけじゃない。ただ、出ても増えにくい。
“浅いところは安全”――よくある言い回しだが、正確にはこうだ。
浅いところは、危険が「分かりやすい」。
草が踏まれている。木が間引かれている。見通しがある。逃げ道もある。人の匂いも濃い。魔物にとっては住みにくい。だから、よほど腹を空かせた個体か、知能の低い連中しか寄りつかない。
今日の相手はゴブリン。
知能が低く、群れる。弱いが、油断した人間を殺す程度の力はある。浅い森にいるのはだいたい、はぐれか、増え損ねだ。
「森の中に入ったら、喋るな」
俺が言うと、カイルは短く頷いた。
「了解」
余計な質問はない。こういうところが傭兵上がりらしい。命令待ちをしないし、命令に逆らうわけでもない。必要なだけ受け取って、必要なだけ動く。
森へ入る。
木々の影が濃くなる。地面は土と落ち葉。踏むと柔らかい音がする。湿り気が増し、匂いが変わる。土と苔と、腐りかけた葉の匂いだ。鳥の声はあるが、街道よりは少ない。人の気配が薄い場所ほど、音が減る。
「……浅いな」
カイルが小声で言った。
「浅いというより、削られてる」
俺は視線を動かしながら答える。
「間引きが入ってる。見通しがあるだろ」
確かに、木と木の間が広い。枝も低い位置が刈られている。これなら、低い位置から飛びかかってくる獣は避けやすい。逆に言えば、こういう場所で襲われるとしたら、狙いはだいたい人間だ。魔物の側が“人を狩りに来ている”。
道沿いには、細い杭がいくつも立っている。ギルドの印だ。討伐済み、巡回済み。これがある限り、森は「完全な野」にはならない。
だが、森は森だ。
杭が立っていようが、入った瞬間に人間はよそ者になる。
俺は足を止め、指で前を示した。
「ここから先は、俺は口を出さない」
「分かった」
「好きにやれ」
「了解」
カイルが一歩前に出る。
足音が変わる。軽くなる。体重の乗せ方が、狩りに近い。
俺は、少し後ろに下がった。
口を出さないと言った以上、出すのはおかしい。俺の役目は観察だ。値段をつける役目だ。戦場の役目じゃない。
――しばらく歩く。
浅い森は、退屈だ。
危険がないからじゃない。危険の種類が少ないからだ。こういう場所で一番多いのは、気が抜けた瞬間の事故だ。足を取られ、手を怪我し、血の匂いで何かを呼ぶ。派手じゃないが、確実に死ぬ。
カイルは慎重に進む。無駄な動きが少ない。木の陰、足元、風向き。全部見ている。たまに立ち止まり、耳を澄ませる。訓練の動きだ。
「……いる」
カイルが、ほとんど息だけで言った。
俺も気づいていた。前方の茂みが、不自然に揺れた。風じゃない。揺れが一点に集中している。何かが潜んでいる。
ゴブリンは、基本的に下手だ。
隠れるのも、待つのも、上手くない。だが、上手くないからこそ油断すると刺される。
カイルは一歩だけ横にずれた。
茂みの前に一直線で立たない。これだけで、奇襲の成功率は落ちる。
次の瞬間、茂みが破れた。
緑がかった皮膚。痩せた手足。粗末な短剣。ゴブリンだ。二体。いや、三体目が後ろにいる。浅い森にしては数が多い。小さな群れの残りか。
「ギィッ!」
叫び声は、威嚇というより合図だった。
三体が一斉に動く。正面、左、右。囲む気だ。
カイルは、動かない。
動かないが、止まってもいない。重心が沈み、次の一歩がいつでも出る姿勢だ。
最初に突っ込んだのは正面の一体。
短剣を振り上げ、勢いだけで跳びかかってくる。
カイルは半歩下がり、剣を抜いた。
抜く動きが無駄に大きくない。鞘走りの音すら小さい。
刃が一閃。
ゴブリンの腕が落ちる。
遅れて、胴が崩れた。
「……速いな」
俺は心の中でだけ言った。
次に来た左の一体は、仲間の死体を踏み越えてくる。恐怖が薄い。知能が低いからだ。
カイルは踏み込む。
剣を振るというより、突く。
喉の奥を貫き、抜く。
右から来た最後の一体は、一瞬だけ躊躇した。逃げるか、刺すか迷った。迷う程度の知能はある。
カイルは迷わせない。
剣先を向け、低い声で言った。
「来るなら来い」
ゴブリンは、来た。
結果は同じだった。
三体が倒れるまで、時間はほとんどかかっていない。
息も乱れていない。肩で呼吸もしていない。軽い運動をした程度だ。
「終わりだ」
カイルが言った。
「ゴブリンは増える」
俺は歩き出しながら言う。
「近くに巣があるかもしれない」
「浅いのに?」
「浅いからこそある。掃除の隙間に潜る」
カイルは頷き、周囲を見る。
死体をそのままにするか、証拠を持ち帰るか。依頼内容次第だ。今回は討伐数の確認だけでいい。耳を取る。
彼が手早く処理をしている間、俺は周囲を見た。
――森が、静かすぎる。
妙だった。浅い森にしては、静かすぎる。
風はある。葉も揺れている。だが、それだけだ。
鳥の声がしない。小動物の気配も薄い。
こういう静けさは、危険が「近い」時に出る。
魔物がいる時か、人が走り回った後か。
どちらにせよ、何かが森の空気を削っている。
カイルも気づいたらしく、歩幅を落とした。
俺は何も言わない。
言う必要がない。
森は、入る前よりも奥へ続いているように見えた。
実際に奥へ進んだわけじゃない。
ただ、戻るには少し遠くなっただけだ。
さて。
ここから先は、予定通りにはいかない。




