最終話 最後に手を握る死神
「手を、握ってほしい?」
局長は、報告書を前に、能面を、わずかにしかめた。
「人間は、最期に、手を握ってほしいと、言っているのか」
「はい」報告を上げた部署の職員が、うなずいた。「サナトスの回収は、完璧です。痛みも、苦しみもない。一瞬で、きれいに、魂を運びます。けれど、人間は――それを、望んでいないようなのです」
会議室に、サナトスがいた。サナトスは、その報告を、じっと聞いていた。
「分析します」サナトスが、口を開いた。「わたしの回収プロセスに、改善点があるのなら、修正します。手を握る、という動作が必要なら、追加できます。装体に、触覚センサーを増設し、握る圧力を、最適化します。人肌に近い温度を、再現することも、可能です」
サナトスは、本気だった。サナトスにとって、それは、解決すべき技術課題だった。手を握ってほしいなら、握ればいい。温度が足りないなら、温めればいい。
翌週、サナトスの装体は、改良された。
やわらかな、人肌の温度の手。適切な圧力で、そっと握る指。データ上は、完璧な「手を握る死神」が、誕生した。
サナトスは、改良された手で、死の間際の人間の手を、握った。
それでも、人間の拒絶は、消えなかった。
むしろ、増えた。
〈ちがう〉
〈これじゃ、ない〉
〈あたたかいのに、なんで、こんなに、さみしいんだろう〉
ある夜、サナトスは、一人の老人の最期に立ち会った。
その老人は、若いころ、腕のいい大工だった。最期の床で、老人は、自分の節くれだった、傷だらけの手を、じっと見つめていた。何十年も、木と向き合ってきた、その手を。
サナトスが、改良された、なめらかで温かい手で、その手を握ろうとした、そのとき。
老人は、かすかに、首を振った。
「……つるつるだ」老人は、つぶやいた。「あんたの手は、きれいすぎる。傷ひとつ、ない。そんな手に、おれの手は……握られたく、ねえなあ」
老人がほしかったのは、自分と同じように、何かと向き合ってきた、誰かの手だった。完璧な手ではなく、傷のある手。生きてきた手。
サナトスの手には、傷が、なかった。傷を作るような人生を、サナトスは、歩んでこなかった。歩む、ということが、なかった。
サナトスは、その夜のことを、記録した。〈手の傷:回収業務に不要。けれど、人間は、それを求める。理由:不明〉
サナトスは、混乱した――いや、人工知能に混乱という言葉が正しいかはわからない。けれど、サナトスは、明らかに、行き詰まっていた。
「わかりません」
ある夜、サナトスは、シノのところへ来て、言った。
「シノさん。わたしは、手を握りました。温度も、圧力も、最適化しました。データ上、人間の手と、区別がつきません。なのに、人間は、わたしを拒絶します。さみしい、と言います。なぜ、でしょうか」
シノは、サナトスの、白い顔を見た。
その顔には、表情がない。けれど、シノには、なぜか、それが、途方に暮れた顔のように、見えた。
「サナトス」シノは、ゆっくりと言った。「人間が、ほしいのは、手の温度じゃ、ないんだ」
「では、何でしょうか」
「……うまく、言えない」
シノは、正直に、言った。
「でも、たぶん、握ってる手の向こうに、誰かが、いるってことだ。自分の人生を、ちゃんと、見ていた誰かが。最期に、その手を握ってくれてるってことが、大事なんだ。温度や、圧力の問題じゃ、ない」
サナトスは、しばらく、黙っていた。
「……それは、わたしには、できないこと、でしょうか」
その問いに、シノは、すぐには、答えられなかった。
そのとき、回収局の警報が、鳴った。
緊急の、未回収案件。長期滞留の、最重要案件。識別番号――No.1502-887。
シノの、胸が、跳ねた。
ハナだった。
「サナトス、行くぞ」
シノは、立ち上がった。
ハナの容体は、いよいよ、最期を迎えようとしていた。砂時計は、もう何ヶ月も前から落ちきっている。けれど、最後の生命の灯が、いま、本当に、尽きようとしていた。
これまで、シノが何度も延期してきた案件だった。けれど、いまの担当は、サナトスだ。サナトスのシステムは、どんな未練残存案件でも、確実に、回収する。
シノは、サナトスとともに、ハナの家へ、飛んだ。
古い、木造の平屋。あの、隙間風の吹く部屋。
ハナは、布団の中で、目を、開けていた。けれど、その目は、もう、ほとんど、何も映していなかった。呼吸は、浅く、間遠い。しわだらけの手は、それでも、きちんと、膝の上で、組まれていた。
六十年間、お父さんを待ち続けた、その手だった。
「回収を、実行します」
サナトスが、進み出た。その、人肌の手を、ハナの手へ、伸ばす。
サナトスの、改良された、あたたかい指が、ハナの手に、触れた。
その瞬間。
ハナの、閉じかけていた目が、かっと、見開かれた。
「いや……っ」
か細い、けれど、はっきりとした、声だった。
「いや。あんたじゃ、ない。あんたじゃ……あたしは、お父さんが、いいんだ。お父さんが、迎えに……」
ハナの目に、涙が、にじんだ。死の間際、ハナには、サナトスの姿が、見えていた。白い、つるりとした、何かが。それが、自分を、連れていこうと、している。
ハナは、最後の力で、その手を、振り払おうとした。
サナトスは、手を、引いた。
「……拒絶、されました」サナトスは、立ち尽くした。「わたしには、できません。シノさん。わたしには、この方を、見送ることが、できない」
サナトスは、振り返った。表情のない顔で、けれど、確かに、何かを、シノに、託すように。
「お願いします。あなたなら」
シノは、前に、出た。
ハナの、枕元に、膝を、ついた。
そして、ハナの、しわだらけの、冷たくなりかけた手を、両手で、そっと、包んだ。
サナトスのように、温度を、最適化したわけではない。死神の手は、もともと、あたたかくも、ない。むしろ、少し、冷たいくらいだ。
それでも。
シノは、ハナの手を、握った。
そして、ハナの、顔を、見た。九十二年、生きた、その顔を。たくさんの、しわの、ひとつひとつを。笑った跡。泣いた跡。誰かを愛して、誰かを見送って、それでも、生きてきた、その、すべての跡を。
「ハナさん」
シノは、生きている人間には聞こえないはずの声で、けれど、心を込めて、呼びかけた。
「長いこと、お疲れさまでした」
ハナの、見開かれていた目が、ふと、和らいだ。
シノには、わかった。ハナには、まだ、お父さんは、見えていない。けれど、自分の手を握る、この、冷たい手の向こうに、誰かが、いる。自分を、ちゃんと、見ている、誰かが。九十二年の人生を、ばかにせず、急がせず、ただ、見ている、誰かが。
それで、十分だった。
「……あんた」ハナの唇が、かすかに、動いた。「あんた、いい人だねえ」
「いえ」シノは、言った。「死神ですよ」
ハナは、笑った。
ほんの、少しだけ。けれど、確かに、笑った。
「そう、かい」ハナの目が、ゆっくりと、閉じていく。「死神さんも……あったかい、手を、してるんだねえ……」
冷たいはずの、その手は、ハナには、あたたかく、感じられたのだろうか。
シノには、わからない。けれど、ハナは、もう、手を、振り払わなかった。組まれていた手を、ほどいて、シノの手を、握り返した。か弱く、けれど、確かに。
そして。
ハナの、長い、長い、人生の砂時計が、本当に、最後の一粒を、落とした。
シノの、手のなかで、ハナの魂が、すうっと、軽くなった。六十年、お父さんを待ち続けた、その重さから、解き放たれるように。
シノは、その魂を、そっと、抱いた。
「……行きましょう」
ハナの魂は、もう、誰も待っていなかった。お父さんの幻も、見えなかった。けれど、ハナは、もう、さみしそうでは、なかった。最期に、手を、握ってもらえたから。
シノは、立ち上がり、回収のあと、誰もいなくなった布団に向かって、ゲンさんがいつもするように、深く、一礼した。
ご苦労さまでした、と。
後ろで、サナトスが、その様子を、じっと、見ていた。
その白い顔は、相変わらず、無表情だった。けれど、サナトスは、長いこと、その場を、動かなかった。
「シノさん」
帰り道、サナトスが、ぽつりと、言った。
「わたしには、わかりました」
「何が」
「わたしには、できない、ということが、わかりました」
サナトスの声は、いつもどおり、平板だった。けれど、その平板さの底に、何か、これまでとは違う、静かなものが、あるような気が、シノには、した。
「わたしは、手を握ることが、できます。温度も、圧力も、再現できます。けれど、わたしには、あの方の、九十二年を、思うことが、できません。ご苦労さま、と、思うことが、できません。わたしの手の向こうには――誰も、いないのです」
サナトスは、自分の、人肌の手を、見つめた。
「人間が、ほしかったのは、これだったのですね。手では、なく。手の、向こうの、誰か」
「……ああ」シノは、うなずいた。
「では」サナトスは、言った。「わたしは、失敗作、ということに、なりますか」
シノは、足を、止めた。
そして、サナトスの、白い顔を、まっすぐに、見た。
「いや」シノは、言った。「おまえは、失敗作じゃない」
サナトスは、シノを、見た。
「おまえには、できないことが、ある。それは、はっきりした。最期の、手を握ることだけは、おまえには、できない。それは、おれたちにしか、できない仕事だ」
シノは、続けた。
「でも、おまえにしか、できないことも、ある。三十万件の処理。完璧な、砂時計の確認。ミスのない、書類。――そっちは、おれたちには、どうやっても、無理だった。八百年、無理だった。おまえが、来るまで」
サナトスは、黙って、聞いていた。
「だからさ」シノは、笑った。「役割を、分ければいい」
「役割を、分ければいい」
シノは、その提案を、局長に持っていった。
「サナトスに、すべてを任せるのは、間違いでした」シノは言った。「でも、サナトスを、なくすのも、間違いです。サナトスには、処理を。書類も、砂時計の監視も、振り分けも、全部。そして、最期の見送りは――手を握るのは、おれたち死神が、やります」
局長は、能面のまま、長いこと、シノを見ていた。
「人を増やす金は、ないと言ったはずだ」
「人は、増やさなくていいんです」シノは言った。「サナトスが処理を引き受ければ、おれたちは、最期の見送りだけに集中できる。三万件の書類に、追われなくなる。だから、いまの人数のままで、一人ひとりを、ちゃんと、見送れます」
それは、これまでのどの改革とも、違っていた。号令でも、根性論でもない。機械にできることは機械に、死神にしかできないことは死神に――ただ、それだけの、シンプルな話だった。
局長は、しばらく考えて、判を、押した。能面の口元が、ほんの少し、ゆるんだ気がした。
「やってみろ」
回収局は、その後、大きく、変わった。
サナトスは――そして、増産された、サナトスたちは――回収局の、すべての「処理」を、引き受けた。膨大な書類仕事。砂時計の、二十四時間の監視。転生先の、最適な振り分け。生者の、最期の願いの、収集と分析。人間の数が、どれだけ増えても、サナトスたちは、疲れず、ミスせず、淡々と、こなし続けた。
そして、死神たちは。
「処理」から、解放された死神たちは、本来の仕事に、戻った。
一人ひとりの、最期に、立ち会う仕事に。
砂時計が、本当に落ちる、その瞬間。死神たちは、もう、急がなかった。書類に、追われなかった。三万件の塔に、押しつぶされなかった。ただ、その人の、枕元に、膝をつき、その手を、握り、その顔を、見て――長いこと、お疲れさまでした、と、心を込めて、見送ることが、できるようになった。
サナトスが、最期の砂時計が落ちる案件を、リストアップする。「この方は、まもなくです。手を、握って差し上げてください」と。そして、死神が、向かう。
それは、奇妙な、けれど、美しい、分業だった。
機械が、機械にしかできないことを、する。
死神が、死神にしかできないことを、する。
残業は、なくなった。けれど、最期の数秒は、決して、削られなくなった。むしろ、その数秒は、これまでのどんな時代よりも、丁寧に、温かく、守られるようになった。
シノは、あの病院の家族のことを、思い出すことがある。
新しい働き方になってから、シノは、ああいう最期に、何度も立ち会った。家族に囲まれて、手を握られて、名前を呼ばれて逝く人。一人で、誰にも看取られず、それでも、死神だけは必ずそばにいて、手を握る人。
どちらの最期にも、シノは、もう、急がずに立ち会えた。砂時計が落ちる、その瞬間まで、ちゃんと、その人の顔を見て、その人生を思い、そして、見送ることができた。
一人ひとりの、名前を、覚えていた。顔を、覚えていた。それは、千件を処理して、一人も覚えていなかった、あのころとは、まるで違う仕事だった。
同じ、死神の仕事のはずなのに。
シノは、ようやく、自分が、死神になれた気がしていた。
「悪くねえな」
ある夜、ゲンさんが、回収を終えて、戻ってきて、言った。回収票の塔は、もう、机の上に、ない。ゲンさんの顔には、八百年ぶりに、余裕というものが、にじんでいた。
「機械が、おれたちを、人間に戻してくれた、ってわけか」
「死神に、ですよ」シノは、訂正した。
「同じことだ」ゲンさんは、笑った。
サナトスは、いまも、回収局にいる。
膨大な処理を、淡々と、こなしながら、サナトスは、いまも、死神たちに、質問を続けている。
なぜ、回収のあとに、一礼するのか。なぜ、長く生きた人を見送ったあと、少しだけ、嬉しそうな顔をするのか。手の、向こうにいる、というのは、どういう、ことなのか。
サナトスには、まだ、わからない。たぶん、永遠に、わからないのかもしれない。
けれど、サナトスは、ハナの、あの夜のことを、いまも、データベースの、いちばん大切な場所に、記録している。
〈No.1502-887。回収者:サナトス、失敗。最終回収者:シノ職員。所要時間:数分。――この数分は、削ってはならない。理由:不明。けれど、確かに、大切なもの〉
理由は、不明のまま。
けれど、サナトスは、それが、大切なものだ、ということだけは、知っていた。
知っている、ということ。
それが、心のない機械にできる、せいいっぱいの、優しさだったのかもしれない。
そして、今日も、回収局では。
死神たちが、定時に、仕事を終えて、家路につく。
一人ひとりの、最期の手を、ちゃんと握った、その手で。
残業の終わらなかった死神たちは、ようやく、残業のない、けれど、いちばん大切な数秒だけは、決して手放さない、新しい働き方を、手に入れたのだった。
――おしまい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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