90 雨音
机の上に置いた白い携帯を、セスナは先ほどからずっと睨んでいた。
雨が降っていた。窓の外から雨音が、夜の気配と共にしめやかに忍び込んで来る。
ぽつぽつと軒打つ水音を聞きながら、机の上に置いた携帯をまるで親の仇か何かのように睨み続ける。
口実とはいえ他の男とデートするのだから、事前にちゃんと和馬に話すべきだと思う。里美は早速、セスナが怜士と出かける許可を柊也に取り付けてくれたのだ。
セスナはてっきりお花の講習会の手伝いをセスナに頼みたいとか、そんな嘘を里美がつくのだと思っていた。しかし里美は、「二人で映画に行きたいそうなので、行かせてやってください」と、ストレートに切り出したらしい。
もっとも、映画に行くということ事体が嘘な訳だが、里美はそれが嘘だとは知らない。怜士は里美に、「セスナと映画に行きたいから、飛鳥井に外出許可を取ってくれ」と頼んだそうだから。
先刻の夕食の席でセスナは柊也に、田之倉の次男とつき合っているのかと訊かれた。
セスナは、「そんなことありません」と、思わず力いっぱい否定したのだが、柊也は「まあ良い」と、セスナの言葉を信じたのかそうでないのかわからない、曖昧な答え方をした。
柊也の頭の中で、セスナの嫁ぎ先の候補リストの一番上に田之倉の名がある。今の日本経済は、浮沈が激しい。会社を営んでいる家より、田之倉のような伝統芸能を生業としている家の方が基盤が強固なものだ。
亡き妻に託された大切な妹を嫁がせた矢先に倒産されでもしたらたまらない。その点、田之倉流が倒産することはまずないだろう。
田之倉の長男は、後妻である里美の連れ子だそうだからどうかと思っていたが、次男ならば田之倉の血をしっかりと継いでいる。その上、長男には田之倉流を継ぐ意志がなく、次期宗主は次男の怜士だという。
飛鳥井は田之倉と長いつき合いでもあるし、セスナも中学の時から田之倉家に花の稽古で通っているのだから気心が知れているだろう。
そこまで考えた時、柊也の脳裏には四月にあった田之倉流の展示会でセスナが受付を手伝った時の光景がよみがえった。柊也は展示会が終わる頃にセスナを迎えに行った訳だが、あの時、セスナの隣に立っていた大柄な男が確か田之倉家の次男だ。
あの時セスナは怜士と親しげに話をしていた、柊也には決して向けないくつろいだ表情だった。
あの男だったら、セスナを幸せにしてくれるかもしれぬ。
柊也は、セスナの嫁ぎ先を裕福さだけで決めるつもりはなかった。セスナが幸せになる条件として財力はもちろん欠かせないが、それよりもセスナを愛し、大切にしてくれる男にしか嫁がせるつもりはない。
その点、田之倉怜士は条件が揃っていた。
旧家、田之倉家の息子にして華道、田之倉流を継ぐ者であり、しかも柊也の目が節穴でなければセスナに惚れている。と言うより、色恋にいささか疎い柊也にさえ勘付かれる程、怜士はわかりやすいのだ。
怜士の気持ちに気づいていないのは、当のセスナくらいのものだろう。
まだまだ子供で、嫁ぐ日などずっと先のことだと柊也は思っていた。けれど、セスナは次の春には高校を卒業し、四年後には大学も卒業する。
勤めに出すつもりはない。大学を卒業したら、しばらくは家で花嫁修業をさせた後、しかるべき家に嫁にやるつもりでいる。そうなると、五年くらい後にはセスナは柊也の手元から飛び立って行くことになる。
五年なんて、瞬く間だ。今から交際をはじめても早過ぎるということはないだろう。
言い知れぬ寂しさが柊也の胸を過ぎったが、そんなものはセスナの幸せの前では塵ほどの重さもない。
今から節度のある交際をして、然るべき時が来れば結納を交わす。そして、セスナが大学を卒業した後には嫁にやる。
それで美空から託された大切な荷を柊也は、ようやく肩から下ろすことが出来るのだ。
「あまり遅くならぬように」
それだけ、柊也は言った。あまりにすんなりと許可を貰えて、セスナの方がうろたえてしまった程だった。しかし下手なことを言って、せっかく出た許可を取り消されたら大変だと、セスナはただ頷くだけに留めた。
口を開けば、何か余計なことを言ってしまいそうだ。また重ねてしまった嘘を心の中で何度も謝りながら、それでもセスナはぎゅっと口を閉ざしていた。どうしても憧れのデザイナーに会いたかったのだ。
しかし、兄には嘘をつけても、恋人には嘘をつく訳にはいかない。
きちんと本当のことを話して、わかってもらうしかない。
だけど、何と言えばいいのだろう?
次の土曜日に、セスナは和馬ではない男と出かけるという事実に違いはない。
怜士は、セスナを小堀町にある『polka dots』の本店まで送り届けて、セスナが憧れのデザイナーと会っている間は一人で映画を観ることになっている。二人で映画に行った証拠としてパンフレットを購入して、それからセスナを迎えに来て、映画の内容は帰りに怜士がセスナに教える手筈だ。
そこまでしなくともとセスナは言ったが、怜士は譲らなかった。セスナの願いは絶対に俺が叶えてやると、拳を固く握った。
つまりこの計画では、行きと帰りだけセスナは怜士と一緒ということになる。それがデートかと言えば、もちろん違うだろう。それでも、和馬にだけは本当のことを話さなければならない。
セスナは、机の上に置いた白い携帯をじっと睨んでいた。
何と言えばいいだろうか。どんな風に言っても和馬が怒りそうな気がするのは、気のせいなのだろうか。
俺に何でも言えと、和馬はよく言う。
それはそのまま、俺に頼れと言っているようなもので。
どうして俺に相談しなかったと、怒らせてしまいそうだ。彼女が自分ではない他の男に頼ったなんて、和馬でなくても怒るだろう。
怜士が田之倉家の息子だからこそ立てられた計画なのだが、だったら一介の町医者の息子じゃ力不足かということになる。しかし実際、『学校で同じクラスの阿部和馬くんと一緒に映画に行きたい』 なんて言っても柊也が許可する筈ないことは、考えてみるまでもなくわかる。
これは、怜士だからこそ立てられた計画だ。和馬では無理だった。
雨が軒を打つ音が聞こえていた、ぽつぽつと。ぽつぽつと。
セスナは、携帯にそっと手を伸ばした。だけど掴むことなく、すぐに引っ込める。
何と言えばいいだろうか、それでなくても最近はぎくしゃくしているのに。別に喧嘩している訳ではない、そうではないのだけれど。
携帯を手に持ち、アドレス帳を呼び出して登録してある和馬のナンバーにかけるだけだ。
それだけで繋がるのに、セスナはどうしても携帯を手に取ることが出来ない。
怒らせる、絶対に怒らせてしまう。そんなことはないと思うけれどもしかしたら、これが決定的な亀裂にならない保証はどこにもない。
恐かった……セスナは、和馬に本当のことを言うのが恐かったのだ。
言わなければならないと思う、だけどもしかしたら。
セスナは携帯に手を伸ばし、すぐに引っ込めるのを何度も繰り返した。窓の外から軒を打つ雨音がずっと聞こえていた。




