89 いつか花ひらく
綺麗なオレンジ色の液体で満たされたグラスを前に手帳を繰る涼華に、真央はくすくすと笑った。相変らずねぇ、などと声をかけても、涼華は手帳を繰る手を止めずに顔をあげようともしない。
真央の前に置かれているのは、金を溶かしたような色のカクテルだ。モスコミュールの冷たいグラスに手を伸ばして真央は、同僚が乾杯の声をあげるのを待った。
「今日は、六月三日……ああ、中森の誕生日だ。よし、中森美雨!誕生日、おめでとう」
ここにはいない教え子の誕生日を祝して、涼華はスクリュードライバーのグラスを持ち上げ、待機していた真央のグラスにカツンと当てた。
せっかく乾杯するなら、お疲れ様なんて言葉をかけ合うのは無意味だというのが涼華の主張だ。可愛い教え子の誕生日に乾杯する方がいいに決まっている。
「中森美雨って、あの大人しそうな子よね?おだんご頭の。あの子、国公立進学組なんだ」
「そうそう、中森は頑張り屋よ。教師になりたいんだって」
「貧血の気があるわね、何度か青白い顔して保健室に来たことある。鉄分取るように指導しなさいよ」
「それは、アンタの仕事でしょ」
「成績だけでなく健康にも気を配るのも担任の仕事よ、受験生なんだからね」
気兼ねのいらない友人同士である英語教師と養護教諭はポンポンと言い合いながら、ほうれん草とベーコンのサラダをお互いの小皿に取り合った。
最近評判のおいしいイタリアンを食べさせる店は、ほとんどの席がカップルで埋まっていた。
真央が頼んだ、トマトと三種のチーズパスタを白いエプロンをつけた女の子が運んで来る。店内には、会話の邪魔にならない程度の控えめなボリュームでどこかで聴いたことのあるピアノ曲が流れていた。
「確か、その子よね?ほら、阿久津先生が好きとか」
「アンタ、一日中保健室に閉じこもってんのに、何でそんなことまで知ってんのよ?」
美雨が阿久津に憧れていることは、涼華は担任になる前から気づいていた。阿久津の前に出ると途端に真っ赤になるのだから、普段から生徒たちをよく見ている涼華でなくても気づいている者は多いだろうが、保健室まで届くほどの噂になっているとは思えない。
「保健室なんてものはね、噂の坩堝よ。何でもかんでも吹き溜まるんだから」
「アンタが地獄耳なだけじゃないの?」
ケラケラと声をあげて笑う友人に真央は一瞬だけ顔をしかめて見せたが、すぐに一緒に笑った。
知り合ってかれこれ五年、真央と涼華は同期ということになる。大学を卒業して、初めての赴任先が二人とも沢浪北高校だったのだ。
同じ新人、そして同い歳。
しかも、性格は正反対なようで妙に気が合った。
こうして時々、二人で呑むのはお互いに楽しいひと時になっている。
「まあ、誰だって一度くらいは教師に憧れるものよ。家族以外では、一番身近な大人だからね。私も覚えがあるわぁ」
「涼華は、子供の頃から矢田部先生一筋でしょうが」
「ちょっ、真央!冗談でもやめてよね、鳥肌たったじゃない」
ギャーと自分の肩を抱いて、さむいさむいとさすっている涼華に真央は吹き出した。道行く人が全員振り返るような美女の癖に、この中学生のまま成長してないような純情さはどうしたことだろうか。
教え子たちの方がよっぽど進んでいる。養護教諭である真央の耳には、決して表にはでない女性徒の妊娠問題なんかも入って来るのだ。
「そう言う真央だって、右京先生とはどうなってんのよ?」
「誰、それ?」
澄まして答えてから、真央はモスコミュールを喉に流し込んだ。あんな図々しい男の名前なんて出さないで欲しい、カクテルが不味くなってしまう。
「あー、もう一度高校生くらいに戻りたい!」
「何よ、涼華。まだそんなこと言う歳じゃないでしょう」
「そんなこと言う歳だってば。昨日も親から電話あってさ、まだ結婚しないのかって言われたわよ。私らの歳じゃこれからつき合う男は、そのまま一生のつき合いになるかもしれないじゃない。どうしても打算が入るわよね、職業とか家とかさ。面倒なジジババはついてない方がいいとか、年収は最低でも五百万は欲しいとかさぁ。それに比べて、子供たちは自由に恋をしてる。気持ち一つでしょ、それ以外は何もないのよね、あの年頃の恋は」
「まあね、高校時代につき合った人と続いて、結婚まで行くなんてことはほとんどないわね」
「でしょう?だから奴らは気楽に恋すんのよ。あー、羨ましい!」
スクリュードライバーを一気に飲み干すと、涼華はグラスをあげて近くにいた店員におかわりと叫んだ。
「阿部と飛鳥井なんか、ホント青春してますって感じなんだよね。朝のHRでさ、顔みたらすぐにわかんの。お、昨日喧嘩したなとか。二人とも、そのまんま顔に出てるんだよね。可愛いったらないって」
「涼華だってすぐにわかるわよ?この顔は、昨日矢田部先生と喧嘩したなとか」
「だからっ、どうしてここに彦一が出て来る訳!何度も言ってるでしょ、あの狐はただの幼馴染だって。今までもこれからも、腐れ縁の幼馴染」
「はいはい」
「真央ぉー?」
「はいはい」
客からのリクエストでもあったのだろうか、ざわついた店内に控えめに流れている曲が教師的にはとても馴染みのあるものに変わった。人気のアイドルグループが歌った曲にしては歌詞がいいので、学校行事でよく使われる曲だ。卒業式直前に行われる壮行会などで、在校生たちが卒業する先輩に贈る曲としてよく歌われる。
「羨ましがるなんてないわよ。だって、私たちは別に結婚しなくても生きて行けるじゃない」
「痩せても枯れても公務員て?確かに一般企業のOLと違って、男と同じ給料貰えるもんね」
「歳取ったからって居にくくなるってこともないしね。だから、相手の収入なんて考えなくてもいいじゃないの、いざとなったら涼華なら養える」
「嫌よ、そんなヒモ男」
今日、十八になった美雨も、今年で二十八になる涼華や真央も同じ花の筈だ。今は蕾んでいるけれど、いつかきっと艶やかに花ひらくに違いない。
「そう言うアンタは、右京先生のことは本当に嫌いなの?あの先生、エロオヤジの上にウザけど、たまーにカッコいい時あるわよ?絵、半端なく上手いでしょ。本当なら、高校の美術教師なんてやってるような画家じゃないらしいよ。しかも、実家は結構な資産家らしいし。右京先生って、結構アタリかもよ。それに、何と言ってもアンタにベタ惚れだしさ。女は愛する男より愛してくれる男を選んだ方が幸せになるってよ、どうよ?」
あの美術教師がお買い得な男かどうかなんてどうでもいいと、真央は思う。絵の才能やお金で男は女を咲かせる訳ではないのだから。
「真央、右京先生と結婚したら玉の輿だって!」
ぐぐっと身を乗り出した涼華に、真央はにっこりと笑って、「誰、それ?」と答えた。




