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87 つないだその手を放す時


 中森家からの帰り道、水溜りを見つけては飛び込む晴音を雪都は呆れ果てて見ていた。ケロケーロと歌っては、バシャンと勢いよく飛び込むのを飽きもせずに繰り返している。


 あれではいくらレインコートを着せて長靴をはかせても無駄だ、下着までぐっしょりと濡れてしまっているだろう。どうせもう全部着替えさせなければならないのは確定だから今更とめる気はないが、しかしあれの何が楽しいのか。

 水が跳ねるのが楽しいのか、音がするのが楽しいのか、それとも濡れるのが楽しいのか。

 五歳児のツボは理解できないがとりあえず、雪都は晴音から最低でも五メートルは離れた位置をキープしつつ、ゆっくりと歩いていた。それ以上近づくと、水しぶきの餌食になりかねないからだ。


 朝から降り続けている雨は、日が暮れるにつれて止むどころか強くなって来たようだ。雪都の飾り気の一切ない無粋な黒傘を打つ音が大きい。バラバラと、大粒の雨が全てを水浸しにする。


 雪都は晴音と妹の名を呼んだ、晴音には持たせたら振り回すだけだから傘を持たせていない。しかしこの降りでは、レインコートだけで防ぐのはきついだろう。

 雪都がこっちに来いと手招きすると、晴音はパタパタと走って来た。そして兄が差している大きな傘の下に入って、手を出す。

 世界で二番目に好きなお兄ちゃんと手を繋いで、カエルのフードをかぶった晴音は、にへーと嬉しそうに笑った。


 あいつとも、よくこうやって手を繋いで歩いたよな。


 そんなことを思い出して、雪都はふっと表情を緩めた。世にも珍しい兄の笑顔に晴音が目をまん丸にしたことには気づかず、雪都は殊更にゆっくりと歩く。

 しかし、男だとか女だとか気にもせずに平気で手を繋いでいた子供の頃ならいざ知らず、十八歳の誕生日にくまのぬいぐるみをプレゼントするなんてひどく間抜けなことをしてしまったような気がして、せっかくの笑顔はすぐに不機嫌なものに取って変わった。晴音はトコトコと黄緑色の長靴で歩きながら、一人百面相をしている雪都を珍獣でも見るような目でじっと見あげていた。


 雨脚は僅かな間に強さを増していく、薄暗くなった街を濡らして降り続ける。


 今日の昼休み、雪都は告白された。一年生の女の子二人に呼び出され、その片方に階段の踊り場などという、いささか告白するには相応しくない場所で好きですと言われた。

 悪いけどゴメンと、即座に断った。いいんです、わかっていましたからと女の子は涙で潤んだ目で笑ってくれたけれど、わかってんなら最初から告るなと思うのは雪都がひどいだろうか?けれど、うんざりしているのは確かで。


 お前ら、いい加減にしろよと思う。

 希羅梨と秘密の契約を交わしてから激減したものの、それでもこの手の告白が止むことはない。


 気持を伝えたかっただけだからとすぐに引き下がるのもいれば、彼女がいてもかまわないとしつこく追いかけて来るのもいる。

 創太あたりに聞かれたら泣いて詰られそうだけど、だけど雪都は自分を好きだと言って来る女の子たちが嫌いだった。生理的に受け付けないのだ。


 雪都が今の晴音くらいだった頃には、髪と目の色が違う雪都を恐いものでも見るような目で遠巻きに見ていた連中、特に女の子たちが変わって来たのは、小学校に入学してしばらく経ったあたりだったろうか。多分、小学二、三年あたりから周りの目が変わって来たように思う。

 雪都が恰好いいと、最初に言い出したのは誰だったのかは知らない。だけど雪都の知らないところで勝手にファンクラブなるものが結成され、不可侵条約なんて馬鹿げたものが結ばれていたらしい。


 雪都本人が知らなかったことを、美雨が知らなかったのは当然のことだろう。いつも雪都の隣にいた美雨に、まだ小学生ながらも女の子たちが嫉妬の炎を燃え上がらせていたことを二人は少しも知らなかった。


 ただ、いつの間にか美雨の持ち物はよくなくなるようになり、よく転ぶようになった。持ち物を盗まれて、それが数日後にずたぼろに引き裂かれた姿で戻って来たり、歩いていると足をひっかけられたり背を押されたりすることが頻発するようになったのだ。


 『私、嫌われてるのかなぁ?』


 グスグスと鼻を鳴らしながら呟いた美雨の声は、今でも雪都の耳にこびりついている。


 明るくて人懐っこくて、好奇心の固まりだった美雨が少しずつ、少しずつ臆病になって行くのを雪都はすぐ傍らで何も出来ずに見ていた。美雨が何か言えば、クラスの女の子たちは揃って馬鹿にしたように笑う。二年生くらいまでは美雨をかばってくれる女の子の友達が数人はいたのだが、だけど三年生になった頃にはいなくなっていた。


 美雨の傍にはただ一人、いつも雪都がいた。

 そのことが女の子たちのイジメに拍車をかけていることなど微塵も気づかず、雪都は必死で美雨を守っていた。

 いや、守っているつもりだった。


 雪都が守れば守るほど、美雨は雪都がいないところでいじめられた。それでも雪都と美雨が違うクラスだったうちはまだましだった。物が盗まれたり、ちょっと小突かれたりする程度ですんでいたのだ。

 四年生になり、同じクラスになって、教室でも二人がずっと一緒にいるようになると加速度的にイジメは激化した。学校で美雨と喋るのは雪都一人になった。教科書もノートも落書きされ、破られて、突き飛ばされて転ぶ回数が増えた。美雨の小さな体にはいつも怪我が絶えなかった。


 その頃にはさすがに、美雨がいじめられる原因が自分にあることを雪都は自覚していた。けれど、どうしようもなかった。特定の犯人がいるならどんなことをしてでも決着をつけただろうが、美雨をいじめていたのは不特定多数だった。

 その一人一人を殴って回ろうかと思ったが、それでは何の解決にもならないと子供ながらに雪都にはわかっていた。


 守りたかった、雪都はただ美雨を守りたかったのだ。

 雪都にとって美雨は大切な、とても大切な女の子だったから。


 だけど、美雨の擦り傷にバンソコウをはってやるくらいしか出来なくて。

 髪の色が違う、目の色が違う。そんなことで一人孤立していた雪都に何の躊躇もなく近づいて来た女の子。あんなに明るくて人懐っこかった美雨が自分のせいで毎日ビクビクしている。守りたかった、どんなことをしても。だけど、雪都の手はまだ小さ過ぎた。


 それは、秋の終わり頃のことだった。一年のうちで最も昼の短いその頃では、夕方の五時を過ぎると暗くなり、気温がさがり始める。特にその日は気圧の影響で風が強く、肌寒い夜だった。


 電話が鳴ったのは、夜の十時を過ぎていた。


 雪都がベッドに寝転んで本を読んでいた時、慌てた様子で父の秋雪が雪都の部屋に飛び込んで来たのだ。

 美雨ちゃんが家に帰ってないらしい、知らないかいと問われて、雪都の心臓はすっと冷えた。四年生になって、美雨に対するイジメは目に見えてエスカレートしていたのだ。


 着ていたパジャマを脱ぎ捨て着替えると、雪都は外に飛び出した。必死で追いかけて来た秋雪を従えて、学校へと走る。正門の前で、美雨の父親が必死で何か叫んでいた。

 相変らず仕事が忙しい草一郎は、こんな遅くなって家に帰って、娘の不在に初めて気づいたのだろう。草一郎が怒鳴りつけていたのは、濃紺の制服を着た警官だった。門をよじ登って中に入ろうとしている草一郎を、教師に連絡を取りますから待ってくださいと止めている。


 雪都は閉まっている門に勢いよく取り付き、大人たちが止める間もなくひらりと越えた。上空は地上より更に風が強いのだろう、雲がすごい勢いで流されている。月が見え隠れするおかげで、辺りがよく見えない。走りながら雪都は、素早く考えを巡らせた。


 教室なんかに閉じ込められているなら、もうとっくに誰かに発見されているだろう。美雨が居るとしたら、多分それは教室ではない。

 鍵がかかる場所だ、しかも子供たちが鍵を持ち出せる場所……体育倉庫か、そう言えば雪都たちのクラスは裏庭の掃除が割り当てられている。

 今日、美雨は掃除当番だったろうか?思い出せない。ただ、いつものように雪都の家に遊びに来なかったことは確かだ。


 どうして一緒に帰らなかったと、雪都は自分を責めた。雪都が美雨と一緒にいればいる程いじめられるようなので、試しに少しずつ距離を取り始めた矢先だった。


 足の速い雲のせいで、月明かりが強まったり弱まったりする。雪都は、足元がよく見えないにも関わらず全速力で走った。

 運動場を突っ切り、裏庭に向う。強い風に、プレハブの倉庫は今にも吹き飛ばされそうにガタガタと揺れていた。


 「美雨!」


 拳を固めて、力いっぱい扉を叩いた。大きな金色の南京錠がかかっている、鍵は職員室にある筈だ。


 「美雨、いるんだろ!返事しろ、美雨!」

 「雪都、どけ!」


 父の鋭い声にハッと雪都が身を翻すと、秋雪と草一郎が揃ってドアに体当たりした。プレハブのドアなど、男二人に体当たりされたら簡単に吹っ飛ぶ。壊れて外れたドアから中に踏み込むと、冷たいコンクリートの床に水が跳ねた。

 弱い月の光が倉庫に差し込む……美雨は、マットの上で倒れていた。全身が濡れているのは、水をかぶせられたのか。扉近くの足元に、掃除に使うバケツが転がっていた。


 「すごい熱だ、救急車を呼んでくれ!」


 秋雪が素早く美雨の呼吸を確かめ、脈を測った。遅れて駆けつけて来た警官が、携帯を使って救急車を要請する。


 それはまるで、悪夢のような夜だった。

 担架に乗せられ運ばれて行く美雨が、ひどく小さく見えた。


 結局、犯人は特定できなかった。

 美雨と一緒に掃除していた班の子供たちが警官の立会いのもとで教師から質問を受けたが、誰もが青ざめながら何も知らないと答えたのだ。


 美雨はそのまま何日も熱がさがらず、沢浪中央病院に半月も入院した。父と母が美雨の様子を毎日教えてくれたが、雪都は見舞いに行くことは出来なかった。

 美雨は、倉庫に閉じ込められた前後の記憶を失っていた。濡れた床を避けるためにマットを敷いたのは美雨自身だろうに、そのことさえ覚えていなかったのだ。

 それだけ恐かったのだろうと呟いた秋雪の言葉が痛くて、雪都は美雨に会うことがどうしても出来なかったのだった。


 守りたかったのに、守っているつもりだったのに。

 だけど美雨は、雪都のせいで記憶をなくすほどのひどい目に合った。


 美雨の両親は美雨を転校させると言ったそうだが、それは美雨が嫌がったらしい。


 『雪くんと違う学校になるのは絶対にイヤ』


 そう言ったらしい。


 事件の記憶がなかったせいもあるだろう、美雨は転校することをどうしても了承しなかったのだそうだ。

 残り少なかった二学期はそのまま休んで、美雨は三学期になってから学校に戻った。美雨の事件が警察が出張るほどの大きな問題になったせいか、表立って美雨をいじめる者はもう一人もいなくなっていた。


 だけど、また同じことが起きない保証がどこにあるだろうか?今回は何とか助かった、けれども次も美雨が無事だとは限らない。


 自分さえ居なければ……。


 三学期になって登校して来た美雨は、いつものように花のような笑顔で雪都におはようと言った。だけど、雪都は返事をしなかった。そればかりか、あっちに行けと怒鳴った。


 『お前なんか、もううんざりなんだよ。俺にかまうな、あっちに行け』


 怒鳴った時、心が裂けたかと思った。濁った血の色が目の前を暗くした。


 それは、雪都がずっと大切につないでいた手を放した瞬間だった。


 あの時浴びせた酷い言葉を美雨は許してくれたのだろうか?

 中学、高校と同じ学校だったのにも関わらず、雪都と美雨はほとんど言葉さえ交わさずにこれまで過して来た。今では、雪都と美雨が幼馴染だということさえ知る者はほとんどいない。


 ずっとわざと避けてきたのに、けれど高校の最後の年になって同じクラスになった。そして、そんなに頻繁にではないけれどまた言葉を交わすようになってしまった。


 雪都にとって、美雨はずっと大切な女の子だった。

 疎遠にしていた年月も、それは少しも変わらなかった。


 誰よりも何よりも、大切な女の子。

 守りたい、唯一無ニの存在。


 この想いが恋なのだと、認めるには勇気がいった。本当はわかっていたのに、今まで誤魔化し続けて来た。

 雪都が美雨を好きになったら、また美雨に禍が降り注ぐような気がして恐かったのだ。


 希羅梨を告白避けの偽彼女に選んだのは、利害が一致したからだけでなく、希羅梨なら万が一いじめられても笑って跳ね飛ばしそうだと思ったからだ。

 もちろん希羅梨に何かあれば、例えばノートを破られた程度のいやがらせでも即、契約解消を宣言するつもりだった。けれど、それは今のところ危惧に終わっている。

 希羅梨を取り巻く仲間が和馬や春樹など、沢浪北高校では有名どころばかりなのも一役買っているのかもしれない。それとも、周りの女の子たちだって成長したということだろか。


 美雨がいじめられたのは、小学四年生の時だ。

 あれからもう何年も経った、誰もが子供を卒業した。


 今ならばもう大丈夫だろうか。

 雪都の手は大きくなった、これなら美雨を守りきれるだろうか?


 お兄ちゃん、お兄ちゃんと呼ばれて雪都は「ん?」と下を向いた。晴音が、大きな目で雪都を見つめている。


 「どうした?」

 「……何でもない、ケド」

 「何だそりゃ」


 世界で二番目に好きな兄が晴音を見下ろして笑っていた。穏やかで優しい笑顔だ、とんでもなくレアな顔だ。


 一人百面相といい、この笑顔といいこれは珍しい、珍し過ぎる。

 生まれて五年、晴音はこんな雪都の顔は初めて見た。もしかして明日あたり、日本は沈没するのではないだろうか。


 晴音は、星のない真っ暗な空を見上げる。雨粒を落とし続ける空を睨んで、どのくらい雨が降れば日本は沈没するのだろうかと、兄に代わって眉間に皺をきゅっと寄せた。




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