85 いつか来る良き日のために
給湯室でお茶を淹れて、大きなマグカップを二つ持った草一郎は、専務室と書かれたドアをノックもせずに開けた。窓際に置いたデザインデスクにかじりつくように座っているのは、草一郎が社長を務める子供服ブランド『polka dots』の専務であり主任デザイナーであり、そして草一郎の妻であるところの中森栄、その人だった。
緑茶で満たされたマグをデスクの端にトンッと置くと、それで初めて栄は草一郎に気づいたようで、ゆっくりと顔をあげた。
「何、えらく没頭してるな。いいデザインが浮かんだのか?」
ありがとうと、栄はカップを持ち上げた。マグカップに緑茶を淹れるなんて普通はおかしいのだろうが、ここではいつもこれだ。コーヒーや紅茶よりも、栄はさっぱりとしている緑茶を好む。湯のみではなくマグカップを使うのは、ただ単に取っ手があるから持ちやすいという程度の理由だ。
濃い目の緑茶をひと口飲んで、ふうっと息を吐いた栄の手元を草一郎は覗き込んだ。栄が描いてたのはいつも通りのデザイン画な訳だが、これがいつもと少し違う。どう違うかと言うと、どうも子供服のデザインではないようで……。
「美雨の誕生日プレゼントは、もう用意出来てるよな?」
明日、六月三日は、二人の大切な一人娘、美雨の誕生日なのだ。毎年、両親からの贈り物は洋服と決まっている。
それは、ただの服ではない。人気ブランド『polka dots』の主任デザイナーである栄が特別にデザインして、そして、『polka dots』の腕利きのスタッフたちが寄ってたかって年に一枚だけ特別に縫い上げる子供服ではない服。
つまりそれは、世界に一枚しかない服なのだ。それが、草一郎と栄からの愛娘への誕生日プレゼントとなる。
「ええ、さっき楓ちゃんがきれいにラッピングして持って来てくれたわ。ケーキの予約はしてくれた?」
「ああ、美雨のお気に入りの『黒猫』だろ?それは、電話しといた」
「いちご増量って言ってくれた?」
「抜かりなし」
ありがとうと笑ってから、栄は描きかけていたデザイン画を取って、デスクの脇に立ったままでお茶を飲んでいる草一郎に見せた。描かれているのは、やはり子供服ではない。膝丈の、ひらひらとした白いドレスだ。全体に花が散っている、栄らしいロマンチックなデザインだった。
「パーティードレスか?」
「ウエディングドレスよ。丈が短いから教会でのお式には使えないけど、ガーデンウエディングとかにいいでしょ。ね、こういうのも可愛いと思わない?」
「いいけど、何でまた急に?」
「んー……何となく、美雨も十八になるんだなー、早いなーと思ってたら、浮かんじゃって」
栄は、片手に湯気のたつマグカップを持ったまま、もう片方の手に持ったデザイン画をふふふと笑いながら見つめた。栄が夫と共に子供服のブランドをはじめたのは、奇跡のように栄の娘として生まれて来てくれた美雨に似合う服を作りたいと思ったのが切欠だった。もっとも、栄の可愛いお姫様は、もう子供服なんて着てくれないけれど。
「今年の誕生日プレゼントのワンピースはね、デートに着て行ったら彼が惚れ直しちゃうの間違いなしってコンセプトでデザインしてみたの。ほら、永沢さんのところの雪都くんとつき合ってるかもしれないなんて聞いてね、美雨もそんな年頃なんだなと思って」
保育園で一緒だった雪都と美雨がつき合っているというのは、雪都の妹である晴音から偶然聞いたことだ。まだまだ子供だと思っていた娘に彼氏が出来たと聞いて、しかもそれが栄も草一郎もよく知っている美雨の幼馴染の永沢雪都だと言うので、二人は慌てふためいて探りを入れたものだ。
結局は違った訳だけれど、しかしそれで娘がもうそんな年頃になっているのだということに栄は初めて気づいたのだった。
「明日で、十八。次の春には高校を卒業して、大学生になるでしょ。四年なんて、きっとすぐよね。大学を卒業したら、就職するのかしら。学校の先生になりたいって言ってたわね。そして、何年か働いたら……」
「美雨が嫁に行くのは、まだまだ先だろ」
「そう?私は、二十一でどなたかと結婚したんですけど」
「俺は、十九で年上の女に騙されたってことだよな?」
「騙されたかどうかは置いといて、美雨も来年は十九だってことにどうして気づかないかしらね」
澄ました顔でそんな嫌なことを言う年上の妻を、草一郎は軽く睨んだ。美雨は嫁になんてやらんと言いたいところだが、そんなわからず屋の頑固親父にはなりたくないとも思う。
それに確かに草一郎は、二十一歳の栄を貰った。学生結婚だった、卒業してからにしろという周囲の意見なんて耳に入らなかった。
まだ将来の見通しなんて全くと言っていいほど立っていない若造によくくれたものだと思う。栄が決めたのなら文句はないと、栄の父は言った。幸せにしてくれればいいと、そう言った。
いつか美雨がこの人と結婚したいと男を連れて来た時、草一郎は同じことを言えるだろうか。まったく全然これっぽっちも自信がないあたりを妻に見透かされているようで嫌になる。
「ウエディングドレス、か」
「そうよ、美雨のウエディングドレスは、絶対に私がデザインするんだから」
だから今から描きためておくのと言う妻に気づかれないように、草一郎はこっそりと溜息をついた。
やっぱり美雨は嫁になんてやらん。絶対にやらん、そう思う。
「さっき、この前話した娘から電話があってな、今度の土曜日に来たいって言うからOKしといたぞ。大丈夫だよな?」
「美雨と同じクラスのお嬢さんよね?」
「ああ、お前の大ファンみたいだぞ」
「それは大変、掃除しとかなくっちゃ」
「憧れのデザイナーのイメージを壊さないように、せいぜい頑張れよ」
「任せといて、年下を騙すのは得意だから」
茶目っ気たっぷりにそんなことを言う妻に、草一郎は苦笑いした。まったく、何度惚れ直させれば気が済むんだと思いながら。




