7 たとえば、深くて暗い海の底
グランドの金網越しに、ダラダラとトラックを流している陸上部を眺めながら希羅梨は歩いていた。空の低いところはもう茜の色に染まりはじめ、冷たい風がセーラー服の赤いスカーフをなびかせる。
ふと視線を落すと、すっかり散ってしまった桜の花びらが地面を汚し、道の端にへばりついていた。咲いている時はあんなにきれいなのに、落ちてしまえば惨めなものだと希羅梨は、革靴の先で軽く蹴った。
最後の春が過ぎて行く。
やがて季節は暑い夏を迎え、それも瞬く間に過ぎ去るのだろう。夏が終ると秋が来て、そしてすぐに冬になる。
まだ始まったばかりのこの高校三年という時間を見通すと、なんとも儚い。気づくと終っていた、なんてことになってしまいそうで恐い。
希羅梨は後ろ手に重い鞄をさげて、グランドを囲んでいる金網に沿ってゆっくりと歩いた。どの部も後片付けに入ったらしく、バラバラに走っていた陸上部も集合の合図に集まって行く。
一分一秒を大切にしたい、そう思う。
彼と同じ時間を共有できる最後の一年を大切に過したい。
高校を卒業してしまったらもう、ただの友人の関係でしかない希羅梨と和馬が会える機会などそんなにはないだろう。同じ町に住んでいるのだから時折ばったり会うことはくらいはあっても、その時にはきっと久しぶりという言葉を掛け合うことになる。
久しぶり、元気だった?
そんな型通りの挨拶に何か意味があるのだろうか。
今から考えても仕方ないことを考えながら、希羅梨はゆっくりと歩く。希羅梨の目の前で、茜の色が徐々に広がって行った。
「姫宮!」
キーッという自転車が軋む音と共に、聞きなれた声が希羅梨の苗字を呼んだ。ゆっくりと振り向くと、夕焼けの色を背負った和馬が二ッと歯を見せて笑う。
「今、帰りか?」
「うん、空手部も終ったんだ?」
「おう。春樹は今日、休んでたぞ。足挫いたとかって」
「知ってる、軽い捻挫だって。一応、今日は病院行くから先帰るって言われた」
自転車を降りて和馬は、希羅梨と並んで歩きだした。二人の影が地面に長く伸びる。
「雪都とは、一緒に帰らねえのか?陸上部、まだやってんじゃん」
練習を終えた陸上部は部長の周りに集まり、今は円座を組んでミーティングをしている。その中に薄茶色の髪は見えないかと、和馬が目を凝らした。
「雪都君はもう帰っちゃったよ、お迎えがあるから」
「あ、そっか。あいつ、お袋さんが遅い時は妹を迎えに行くんだっけか」
「そう、部活早引きしてね」
あいつも大変だなという言葉に頷いて、希羅梨は隣を歩く和馬の横顔をそっと見あげた。見られてることに気づいてないのか、和馬はいつも通りに真っ直ぐ前を見ていた。
一分一秒を大切にしたいと、希羅梨は思う。
和馬と同じ時間を共有できる宝物のような今を。
「うまくいってんだな」
「ん、何が?」
「雪都とだよ。もうつき合い始めて一年くらいだよな?」
「一年と二ヶ月と一二日目だよ」
「すげえ、数えてんのか?」
さもおかしそうに笑う和馬に希羅梨は笑顔を返す、ちゃんと笑えてることには自信がある。
「きっと飛鳥井さんだって数えてるよ、阿部君とつき合いだしてから」
「数えてねえよ、あいつはそんなタマじゃねえ」
「そんなことないよ、女の子にとっては大切なことだからね。好きな人ともうどれくらい一緒にいられたかなって、きっと飛鳥井さんも数えるよ」
どうしても残り時間を考えてしまうのだ。
好きな人とどれくらい一緒にいられたか、あとどれくらい一緒にいられるのか。
春が過ぎて行く、最後の春が。
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ」
希羅梨が和馬に好きだと告げたのは、今から一年と二ヶ月と二二日前だ。断られるのは承知の上での告白だった、和馬の隣にはすでにセスナがいたのだから。
困らせることも知っていた、だけど言わないで終らせるには希羅梨の想いはあまりに強すぎたのだ。
案の定ごめんとふられて、忘れてねと言ったけれど、和馬は忘れてくれなかった。希羅梨を見る度に泣きそうな目をしていた。
「雪都が姫宮とつき合うと言い出した時には、驚いたけどなぁ」
「私だって驚いたよ」
「でも、よかったな。あいつ、あれでいい奴だし」
希羅梨は、笑いながらうんと頷いた。何度も何度も頷いた。
言い出したのは、雪都の方だった。俺とつき合うふりをしないかと雪都がいきなり切り出したのは、希羅梨が和馬に告白してからちょうど十日が過ぎた頃だ。
雪都は雪都で、しょっちゅう女の子に呼び出されて告白されるのにうんざりしていたし、希羅梨はとにかく和馬に悲しそうな目で見られるのにもう耐えられなくなっていた、そんなタイミングでの申し出だったのだ。
かくしてふたりの利害は一致して、雪都と希羅梨は誰にも秘密の契約を結んだ。もしどちらかがもうやめようと言ったら、片方は絶対に異議を唱えないという条件つきで。
雪都がいつも一人の女の子を見ていることに希羅梨が気づいたのは、つき合うふりを始めて少し経った頃だった。そして同時に、その女の子が別の人を見つめていることにも気づいてしまった。
告白してみればいいのにと言ったら、雪都はあからさまに顔をしかめた。そんなことをしても返事はわかっているし、あいつを困らせるだけだと答えた。
まさに玉砕覚悟の告白をして和馬を困らせた希羅梨の耳に痛い言葉だったが、雪都は本当の本心でにそれでいいのだろうか、後悔することにならないだろうかと余計なお世話な心配が心の奥底に引っかかった。
雪都は優しい、ぶっきらぼうな態度に隠れて見えにくいけれど。
恋ではないけれど、雪都の傍にいるのは希羅梨にとって楽なことだった。友達として、雪都は最高だと希羅梨は思う。恋人ではないけれど、それとは違うけれど。雪都の隣は確かに居心地がいい。
偽彼女兼友達として、彼が見つめている女の子、中森美雨がそのことにいつか気づいてくれることを希羅梨は密かに祈っている。つき合うふりなんてするより、本当に好きな人とちゃんとつき合う方がいいに決まっている。もしもめでたく希羅梨の祈りが天に届いた時には、上手にふられ女を演じる自信もある。
「じゃ、また明日な」
「うん、また明日」
三叉路で立ち止まり、走り去って行く自転車を見送った。和馬の黒い学生服の背中が段々遠くなって見えなくなるまで、手を振り続ける。
笑えている自信はある、だけど忘れられる自信はない。この気持ちが消えることなんてないのかもしれないと、希羅梨はそう思う。
何年経っても、希羅梨はきっと和馬が好きだ。
高校を卒業して、町で偶然会って。
お互いにもう制服を着ていない二人が久しぶりと声を掛け合うようになっても、きっと。
希羅梨は、きっとずっと和馬が好きなままだ。
希羅梨は思う、どうしても消せない気持ちならこのままどこかに沈めてしまいたい。
たとえば、深くて暗い海の底。
そしてそのまま、二度と浮き上がって来なければいい。




