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77 衣替え

サブタイトル、変えました。


 朝の柔らかな光が差し込む廊下を、雪都は歩いていた。膝の腫れはもう引いたが、今朝は母親である十和子がまだ無理をしてはいけないと車で送ってくれたのだ。

 まずは晴音を八時ちょうどに保育園に放り込み、そしてその五分後には雪都を学校まで送り届けてくれた。

 仕事に行くのを遅らせてまで送ってくれたのだから文句は言えないが、これはちょっと早すぎる。いつもぎりぎりの時間に登校しているために雪都は、生徒たちがぱらぱらしかと来ていない朝の学校というものを知らない。人が少ないとこんなに静かなのかなんて思いながら、雪都は教室に向った。


 『教室に入る時には後ろの戸から』が癖になってしまっている雪都は、いつも通りに後ろの引き戸をガラリと引いた。


 一番後ろの席で幼馴染の彼女が真面目に予習しているのは、いつもと同じだ。おだんごに結い上げている髪も、白黒ストライプのリボンもいつもと同じ。ただいつもと違ったのは、教室に美雨以外には誰もいなかったことと、戸が開く音に振り向いた美雨が雪都を見て、大きく目を見開いたことだろうか。

 いつもなら美雨は、振り向いてもくれないのだ。いや、振り向いてくれないというより、雪都が振り向くだけの時間を美雨に与えていないだけのことなのだけれど。


 「はよ」と、雪都はいつも通りに挨拶をした。すると美雨は、弾かれたようにガタッと椅子の音を立てて立ち上がり、そして何故か教師にするみたいに「おはようございます」と丁寧に頭をさげた。


 「膝、もういいの?」

 「おお、丸々四日も休めたからな」


 膝を痛めたのは水曜日だったのだが、潔く休めた方が治りが早いと言う看護のプロである母の忠告に素直に従って雪都は、木曜と金曜は学校を休んで、続く土曜と日曜の計四日間、外出せずに家で膝を休めていたのだ。

 母が仕事を融通して、晴音の送り迎えもしてくれた。そのおかげか腫れはすっかり引いて、普通に歩く分には痛みも感じない。


 四日ぶりに登校すると六月になっていた。今日から衣替えだということに気づいたのは今朝で、慌てて半袖のワイシャツを引っ張りだした。


 「今日は……えっと、早いんだね」

 「お袋が、車で送ってくれたからな」

 「そうだ、お母さんにお礼を言っておいてね。夕飯をご馳走になった上に、帰りも送っていただいて」

 「ご馳走も何も、作ったのはお前だろうが」

 「でも……えっと、永沢くんちにあった材料で作ったんだし」


 誰もいない朝の教室で、何故か立ち話だ。しかも、ふたりの声はどこかぎこちない。美雨はいつものことだけど、雪都の喋り方も僅かに固かった。会話の端々に微妙な間があく。気にするほどの間ではないけれど、気にすれば気になる。


 「とにかく、ありがとうな。助かった」


 そう言うと、雪都はすいっと美雨の前を離れた。窓際にある、自分の席に向う。

 雪都が鞄の中身を出しながら振り向くと、美雨はまた机に向って予習をはじめていた。吸い込まれるように雪都は、ノートに何か書いている美雨の腕を見てしまう。先週までは長袖だったのに、今日からは半袖だ。惜しげもなく曝された美雨の肌は白かった、昨日まで長袖だったのだから当たり前なのだが。あの白い肌もこれから夏になるにつれて日に焼けて行くのだろうか。

 まじまじと自分が美雨の腕を見ていたことにハッと気づいて、雪都はぐるんと顔を巡らせて視線を窓の方に向けた。数秒だけ窓の外に広がる青空を眺め、だけど気になってしまってまたそっと美雨の方を伺い見る。

 美雨は雪都に見られていることに気づいてないようで、顔をあげずにシャーペンを動かしていた。気づかれなくてよかったと胸を撫で下ろし、そんなことにほっとしている自分に雪都はうろたえる。見た目はいつもの落ち着いた雪都だけれど、その中ではひとりで勝手にてんやわんやの大騒ぎなのだ。


 あの馬鹿、ハンバーグなんかでトドメをさしやがって。


 休んでいた四日間で、雪都は散々思い知らされていた。気づくといつも彼女のことを考えているその理由は、もうどう頑張っても誤魔化しようがなかった。消しても消しても、浮かんで来るのは美雨の顔ばかりだ。せっかく休んでいるんだから勉強しようと思うのに、少しも頭に入らなかったのだ。


 膝が熱くて道端で立ち止まり、情けなくも泣きそうだったあの時、よろよろと走って来た幼馴染。

 夕焼けの色に優しく染まった、美雨という名の少女。

 人のことばかり心配するお人好でし、だけどそれがたまらなく暖かくて。


 好きなんだと認めたら、途端に胸が痛くなった。この痛みが恐くて今まで認められなかったんだと、自分の弱さにも気づいてしまった。


 病院で、少なくとも三か月は走るなと言われた。それはそのまま、雪都の陸上生活の終わりを宣告するものだった。本当なら、どん底に叩き落された気分になっただろう。だけど雪都は、家に帰れば彼女がいる、そのことの方が気になった。


 なんでハンバーグなんだよ、よりによってめんたまハンバーグ……。


 晴音の好きな、目玉焼きがのったハンバーグに雪都はあっけなくやられてしまった。今まで足掻きに足掻いて認めなかった、自分の気持ちからもうどうやっても逃げられなくなってしまったのだ。

 美雨が作ったハンバーグは美味しかった、確かにかなり美味しかった。だけど、美味しかったからではなくて、そうではなくて。


 人が弱ってるところに、なんでハンバーグなんか作って待ってるんだかな。

 タチ悪ぃな、あいつ。


 タチが悪いなんて、美雨にしてみればとんだ言いがかりだが、雪都にしてみればそれくらいは言いたくなるというものだ。

 机の上に一時間目に使う教科書と筆記具を出してから、雪都は椅子に座って予習をするふりなんてしてみた。朝の風がクリーム色のカーテンを揺らす。


 窓際の前から二番前と、廊下側の一番後ろ。


 静かに、ただ静かに。

 ふたりきりの教室を風がさらりと吹き抜けて行った。




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