72 息子が言葉を濁す理由
昨日の夜中に運び込まれて来た急性腹膜炎の患者の点滴パックを代えているところに、「永沢婦長」と控えめな声をかけられた。十和子が振り向くと、後輩看護婦である藤田いずみが病室の入り口から顔を出していた。
「いずみ、猫背はやめなさい。せっかく背が高いんだから、しゃんとしてなさい。その方が恰好いいですよ」
点滴の落ちる量を微調節してから十和子は病室の外に出て、幾度となく繰り返して来たお説教を今日も繰り返した。いずみは、高すぎる身長を気にしていつも背中を丸めているせいで何だかおどおどとしているように見えるのだ。
「で、何?」
「あの、息子さんがいらっしゃってます」
「雪都が?」
「はい」
どうかしたのかしらと十和子は、ナースステーションに向った。入院患者とその家族以外は、入り口にあるナースステーションより奥には入れない決まりになっているから、雪都もナースステーションの前で待っている筈だ。
廊下を走る訳にはいかないので、十和子は白衣の裾を捌きながら出来るだけの早足で歩いた。すぐに見慣れた薄茶色の髪が見えて来る。
雪都と声をかけると、雪都は説明も何も抜きでいきなり「保険証」と言った。家族全員分の保険証は、常に十和子が持ち歩いている。どこが具合が悪くなったら家族はみんなこの沢浪中央病院に来るので、必要な時にはこうやって取りに来るのだ。
「どこか具合が悪いのですか?」
「膝」
雪都の答えは、いつも嫌になるくらい素っ気ない。けれど、この時期に雪都が膝を痛めたということの意味を、十和子は即座に理解した。
医者を目差している雪都が、中学から続けて来た陸上を今年で辞めるつもりなのを十和子は知っていた。雪都にとって最後のインターハイの予選会は、確かもうすぐだった筈だ。
「外来の受付時間はもう過ぎていますから、私から堂本先生にお願いしましょうね」
「ああ、頼む」
整形外科の堂本信は、十和子の夫である秋雪と同じ明条大医学部出身の後輩にあたり、かれこれ十数年もずっと懇意にしてもらっている。十和子から頼めば救急扱いで診察してくれるだろう。
腕時計で時間を確認すると、十和子の勤務時間が終るまであと十分を切っていた。
「いずみ、悪いのですが私、早めにあがらせてもらいますね」
「はい、後はお任せください」
十和子を呼びに来てくれたいずみは、整理中だったらしいカルテを広げた机の前に座りながらそう答えた。雪都に整形外科の前で待っているように言ってから白衣を着替えるために更衣室に向おうとして十和子はふと気づいた、もう保育園は終っている時間なのに雪都が晴音を連れていない。
「雪都、晴音は?」
十和子がそう訊くと雪都は、「あー」と、何故か視線を泳がせた。
「同じクラスのやつが見てくれてる」
「同じクラスって、阿部くんですか?」
「……違うけど」
時々、家に遊びに来る阿部和馬には、双子の妹がいるらしい。だったら子供の扱いに慣れているのかもしれない、そう思って和馬かと訊いてみたのだが、雪都は違うと答えた。
じゃあ、誰が……と、十和子が重ねて訊こうとした時には、雪都は踵を返していた。整形外科で待ってるからと、さっさと行ってしまう。
自分の知らない子なのだろうと考えて十和子は、更衣室に向った。雪都が信頼できない人に晴音を預ける筈がないから、晴音のことは心配しなくていいだろう。
それよりも、雪都の膝のことが心配だった。
たいしたことなければ良いのだけれどと思いながら十和子は、やはり早足で廊下を歩いた。
赤信号で停車して十和子は、助手席に座っている息子の方をそっと伺った。雪都は静かに、すでに薄暗くなった窓の外を眺めている。
家から十和子が務めている沢浪中央病院までは歩いて行ける距離なのだが、仕事がら早朝や深夜に通うことになるので十和子は車で通勤している。ちなみに、秋雪は原チャリだったりするが。
しばらく走らないこと、それが雪都を診察した堂本医師の指示だった。
年末に膝を痛めた時にもしばらく走らないようにと堂本に言われたのだが、雪都は冬休みの期間だけ膝を休めて、新学期が始まるとすぐに走りだしたのだ。それがいけなかったらしい。
前回の時には、『一ヶ月は走らないこと』 だったのが、今回は、『少なくとも三ヶ月は走らないこと』 に変わっていた。
普通に歩く分には支障はないから生活には困らないよと言われた、だけど雪都はランナーなのだ。
「受験生なら丁度いい、勉強に専念しなさい。大学生になったら思う存分走っていいから」
堂本は、笑ってそう言った。雪都の後ろでそれを聞いていた十和子は、黙って堂本の言葉に頷く息子の背中をただ見ているしか出来なかった。
「雪都、夕食は何か取りましょうね。食べたいものはありますか?」
「別に……晴音に選ばせろよ」
「晴音に選ばせたら、ピザになりますよ」
「それでいい」
元から雪都は、口数が少ない。子供の頃から必要最低限のことしか言ってくれず、母親として十和子は少し心配した時期もあった。
もしかしたら社会に適応できずに内に閉じこもるようになるのではないかと思っていたのだけれど、だけど雪都は無口な割に友達が多く、成績も良ければスポーツも出来る。
よく出来た息子だと思う。
少しも目が離せない鉄砲玉の晴音と違って、雪都はいくら放っておいても危なげがない。
徒歩でも通える距離は、車だとほんの数分ほどしかかからない。夕方の帰宅ラッシュで混んでいる大通りを避け裏道を使って、八分ほどで家に辿り着いた。
玄関前で一旦、車を停めて先に雪都を降ろし、車をガレージに入れてから十和子は家に入った。ただいまと玄関を開けると、何やらいい匂いがする。おかえりなさーいとキッチンから飛び出して来た晴音は、先日、ねだられて十和子が買ってやったばかりの子供用のエプロンをつけていた。
「ただいま、晴音。いい子にしていましたか?」
「うん!」
晴音のピンクベージュの髪を撫ぜ、顔をあげて十和子はそのまま固まってしまった。晴音の後からキッチンから出て来て、お邪魔していますと頭をさげた少女は、十年ぶりなのにもかかわらずすぐに誰なのかわかった。
大きな目、意志の強そうな眉。そして何よりも、この可愛らしい笑顔は……。
「まあ、美雨ちゃん?」
「はい、お久しぶりです」
沢浪北高校のセーラー服を着た美雨は確かに高校生なのだけれど、十和子の目にはおひさま保育園のスモックを着ていた幼い姿が重なって見える。ちっとも変わっていないというのはこの場合、褒め言葉になるのかどうかは微妙なところだけれど。
「あ……じゃあ、晴音を見ていてくれたのは、美雨ちゃんだったのね」
「本当にありがとう」と十和子が頭を下げると、美雨は「何でもないです」と笑って答える。晴音が、いつまでも玄関先から動かない十和子の腕を焦れたように引っ張った。
「みゅうちゃんが、めんたまハンバーグ作ってくれたんだよ!」
「え、ハンバーグ?」
「すみません、勝手に作っちゃったんですけど」
十和子は、慌ててキッチンに向かった。道理でいい匂いがしていた筈だ、キッチンのテーブルの上にはハンバーグとサラダが出来上がって並んでいた。
しかもハンバーグの上には、ちゃんと目玉焼きが乗っている。晴音の好きな、『めんたまハンバーグ』だ。
「雪都は?」
「永沢くんなら、着替えて来るって二階に上がって行きました」
「あらあら、そうなの」
逃げたな、十和子はそう思うと吹き出しそうになった。成る程、晴音の面倒を誰が見ているのか白状しなかった筈だ。
彼女に頼んだなんて、あの雪都の性格では言う筈がない。言いたくても言えなかったのだろう、あの筋金入りに照れ屋な息子は。
「なんて美味しそうなのかしら。これなら美雨ちゃん、いいお嫁さんになれるわね」
そんなことないですと、頬を赤らめてうつむいた美雨に十和子は微笑んだ。いつでもお嫁に来てねと言いたかったが、そんなことを言ったらきっと照れ屋な息子に後で怒られるだろうからやめておいた。




