73 ドキドキを返せ
冷蔵庫のドアを開け、和馬は中をざっと確認した。確か、スポーツドリンクを冷やしておいた筈なのにない。さては和香が飲んだなと思いながら和馬は、ドアのポケットのところにあった麦茶のポットを取り出した。
空手部で後輩を軽く捻ってから帰って来たので、喉がカラカラだ。
食器棚を開けて、適当なグラスを出したところで玄関のチャイムが鳴った。和馬はグラスに麦茶を手早く注いで、一気に飲み干してから玄関に向った。
「……あ?」
インターフォンで相手を確認することなくいきなりドアを開けたら、そこに立っていたのはつい数時間ほど前にじゃあなと手を振ったセスナだった。ハアハアと肩で息をしながら、まるで今にも挑みかかりそうな目で和馬を見つめている。
「なんかあったのか?」
和馬とセスナがつき合いだしたのは、一年生の終わり頃だった。それから一年と少し、セスナは何度か和馬に連れられて学校帰りにこの阿部家を訪れている。和馬は彼女を家族に秘密にするような性格ではないし、家族もからかいはするが別にそれだけなので、ごく自然にセスナを受け入れているのだ。
本来なら彼氏の実家なんて居心地の悪い場所であるだろうが、セスナにしてみれば飛鳥井の家より和馬の家の方がよほどくつろげるのだろうと思う。だからセスナは、「うちに行こうぜ」と言うと身構えることなく和馬について来る。けれど、自分から和馬の家に来たのはこれが初めてのことだった。
和馬は、思わず拳を固く握った。
突然、連絡もなしにやって来て、あの目だ。何か大変なことがあったんだ、そう思って和馬は飛び出した。ガチャガチャと門扉を開ける。
「セスナ、何があったんだよ」
「あのな、駅の裏のショッピングモールにな……」
ゼエゼエと、息がすっかり切れてしまっているセスナは声がちゃんと続けて出せないようで、それでも何とか和馬に伝えようと和馬の腕を掴んだ。
「駅の裏の、あのショッピングモールな、あそこの二階にな……」
「ショッピングモールで何かあったのか?」
変質者にでも襲われたかと思って和馬は、慌ててセスナを頭の天辺から足の先まで見たが、別に怪我をしている訳でも、制服が乱れている訳でもない。大体、人がたくさんいる昼間のショッピングモールで何があると言うのやら。
「あそこの二階にな、『polka dots』という子供服の店があってな、そこが中森殿のご両親が経営されているブランドでな……」
「はあ?」
セスナが何を言いたいのかはさっぱりわからないが、変質者に襲われて逃げ込んで来たとか、そういう類のことではないらしい。
和馬はほっと肩の力を抜いて、とにかく上がれよと言った。
セスナは、ずっと頭に描いてきた夢をそのまま形にしたような服と衝撃な出会いをして、そしてその出会いからいくらも経たないうちにそのブランドの社長と偶然会って、しかもその憧れの服をデザインしたデザイナーにまで会えることになったという、ここ数時間の目が眩むような怒涛の出来事をとにかく誰かに話したくて、たまらずこうして和馬に会いに来たのだ。沢浪北駅のすぐ裏手にある大型量販店から和馬の家までは自転車を使って二十数分、バスに乗れば十分弱といったところなのだが、それをてんぱって何も考えられずに一目散に走って来たのだから、いくら運動神経のいいセスナでも息が切れて当たり前なことだった。
「だから、『polka dots』というな……」
「とにかく座れ、な?」
切れ切れの息の合間に、それでも何とか和馬に伝えようと喋り続けるセスナをリビングのソファーに座らせて、和馬はキッチンに取って返した。食器棚からもうひとつグラスを出して、麦茶を注ぐ。
「ほら、これ飲んで落ち着け。ゆっくり飲めよ、いいな?」
そう言っておいてからグラスを差し出すと、セスナは素直に受け取った。そして、言われた通りにゆっくりと麦茶を飲んだ。
麦茶が喉をすべり落ちていく冷たさに、セスナの興奮も落ち着いて来た。ゆっくりと、だけど息継ぎはなしに一杯飲み干して、ふぅっと息を吐いてふと気づくと和馬が真剣な目でセスナを見つめていた。
「もう一杯、いるか?」
「あ、ああ、た、頼む」
やっと我に返った、というのはいささか大袈裟だろうか。けれど、いつもなら絶対にしないであろう行動を自分がしているということを、セスナは和馬がキッチンの方に消えて行く背中を見送くっている数秒の間に遅ればせながら自覚した。
普段のセスナは、感情を表に出したくても出せない、良くも悪くもそういう性格なのだ。自分でも素直でないことは知っているし、何とかしたいとは思っているが、持って生まれたものはそう簡単には変えられない。
希羅梨が彼氏である雪都に向けているような可愛い笑顔を自分も和馬に向けたいとは思うがムリ。何度かトライしようとしたが全然ムリ、本当に絶対ムリ。
「……あ、あれ?」
セスナは、きょろきょろと周りを見回した。
ここは何処、などとボケる気はない。和馬の家のリビングだ、わかっている。
どうして此処にいるの、なんて言うつもりもない。自分で来た、しかも走って。
わかっている、わかっているのだがよく考えてみれば、電話もしないでいきなり来てしまった。いつものセスナなら考えられないことだ。それにそう言えば、セスナが来たらすぐに飛び出して来る賑やかな和馬の父と妹たちはどこだろう。いつもうるさいくらいに賑やかな家なのに、何だか閑散としているぞ?
「ほら」
和馬が注いで来てくれた二杯目の麦茶を受け取って、セスナは体温が急速にさがって行くのを感じた。セスナの隣に座った和馬の声がいつもより低い。目だって、こんな真剣な目をしているところなんて見たことがないかも。
「一体、何があったんだよ?」
「えっと、だからな、服が……」
「服?」
「そう、服だ。中森殿のご両親が経営されている……」
そこまで言うと、セスナは言葉が続かなくなって来た。よく考えてみれば、いやよく考えなくてもこんなに必死で駆け込んで来て報告するようなことだろうか。要は、可愛い服屋を見つけた、というだけのことなのだから。
「中森?」
「そ、そうだ、中森美雨殿だ」
「中森がどうかしたのかよ?」
「いや、だからだな」
静かだ、いつもなら和馬の双子の妹たちが興味津々ですと書かれた顔でセスナにまとわりついて来るのに、それに父親である和俊が参加していることもあるのに、なのに今日はそれがない。一切合財全くない。
「……か、和馬……和香殿と美和殿は?」
「ああ、何か友達の家で宿題するって書置きがあった」
「お、お父上殿は?」
「親父はこの時間、仕事に決まってんだろうが。表の病院の方にいるだろ」
和馬の父親である和俊は、自宅と同じ敷地内に建てられた 『あべ医院』という個人病院を営んでいる。この時間は、午後の診察時間だ。
「そ、そうか」
「そうだ」
セスナは、二杯目の麦茶をひと口飲んだ。気のせいか、さっきのより冷たい気がする。
「で、何があった?」
「……」
誰もいない部屋で、怖いくらい真剣な目で真っ直ぐに自分を見つめる和馬にセスナは、ゴクッと喉を鳴らした。宵闇が窓から忍び寄り、灯りをつけていないリビングがすっと翳る。
いつもなら、見ていようと見てかなかろうと構わずつけっ放しにされているテレビがガンガンと鳴り、和香と美和の笑い声がキャラキャラと弾けている場所だ。
だけど、今は静寂がこの空間の支配者だった。
セスナの心臓がドクンと跳ねた。
いや、心臓はずっと全力疾走していたのだけど。
「あ、あのな、和馬、その、だからな」
「何かあったんだろうが、言えよ」
「そ、そんなたいしたことではないのだ」
とても、可愛い服屋を見つけたのと言えるような雰囲気ではない。和馬の目が真剣過ぎる。
「セスナ」
和馬の手が、セスナの手首をがっと掴んだ。そのまま、強引に引き寄せられる。
「い、痛っ」
「何で言わねえんだよ、俺に何でも言えって言っただろうが」
至近距離で、和馬の目がセスナを射竦める。キスされると思った、セスナはぎゅっと目を瞑った。
「セスナ……」
近い近い近い。
息遣いが聞こえるほどの距離、感じる体温。
強い力で両手を拘束され、抗う術はもうセスナにはない。
ドキドキと早鐘を打つ、自分の心臓の音だけがセスナの耳にうるさいほどに大きく聞こえた。
これはさすがに、キスだけでは済まないかもとセスナは思った。つき合い始めて、一年と少し。キスなら何度か交わした。いつも不意をつくような不器用なキスを、何度か。
何度交わしても、セスナにはその度に世界がひっくり返りそうな大事件だけど、だけどキスだけではもう男の和馬にはぬるいのかもしれない。
静かだった、ドキドキと心臓だけが暴れている。
「か、和馬、あのな……」
嫌ではない、少し恐いような気がするけれど絶対に嫌ではない。初めての人は和馬がいい、和馬以外は考えられない。
いつも和馬の妹たちと父親が賑やかに笑っているこの家で、二人きりになるなんて珍しいチャンスはこれきりかもしれない。少し恐い、だけど和馬ならいい。
セスナは、そっと目を開けた。やはり至近距離で、和馬が恐いくらいの真剣な目でセスナを見つめている。
お互いに息がお互いに届く、ほんの少し唇を突き出すだけで触れる。
「で、白状する気になったのか?」
「…………は?」
和馬のこの台詞に、セスナはパチクリと一度瞬きした。二人は、相変らず至近距離で見詰め合っている。セスナの両手はまだ和馬に捕まったままだし、それに加えて珍しくこの家に誰もいないというこの状況。しかも、和馬とセスナはれっきとした恋人同士だ。もう一年以上もつき合っている……。
「何かあったんだろうが、いい加減に言えって」
セスナは、見開いていた目をすーっと細めた。いわゆる、目が据わったということだ。
この男……全く全然何にも感じてないのか?
そりゃあ、セスナは自分がグラマラスな身体ではないことくらいはわかっている。胸もささやかだし、痩せぎすでガリガリだ。確かに色気には欠けるだろう、そんなこと知っている。だけどだけど、それにしても!
「……放せ」
「あ?」
「放しやがれっ、このウスラトンキチの大馬鹿野郎!」
いきなり下方から蹴りが来て、あまりに予想外の攻撃に避けられず和馬はもろに蹴り飛ばされた。とは言っても着地点はソファーの端だったのでダメージは皆無だったが、けれど和馬が体制を立て直す前にセスナは立ち上がっていた。床に置いてあった鞄をむんずと掴み、ガシガシと足音を立てながら歩き出す。
「お、おい、セスナ?」
「もう知らん、勝手にしろっ!」
何を勝手にしたらいいのやら、叫んでいるセスナ本人ですらわかってないのだからどうしようもない。和馬に至っては、わからないことだらけだ。
いきなり息を切らせて彼女がやって来たと思えば、何やら訳のわからないことを言う。それで問い詰めたら、これだ。
何がなにやらわからないのは仕方ないとしても、女の子とつき合っている以上は乙女心が複雑だということくらいは理解しておくべきだろうが、今更言っても遅い。
「帰る」
「って、おい!」
リビングを出たところでセスナは走り出した。廊下を一瞬で抜け、玄関から飛び出す。外はもう薄暗かった、こんなに遅くなったのは初めてのことだ。
「セスナ!ちょい待て、何かわかんねえけど送るって」
「いらんわ!」
「って、もう暗くなるじゃねえか。一人で帰せるかよ、危ねえだろ!」
こいつ、どこまで安全な男なんだ!
鈍感お子サマ不感症と、なかなかに壮絶な言葉がセスナの中でとぐろを巻く。
和馬が優しいことくらい、セスナはちゃんとわかっている。色気より何よりも、息せき切らせて飛び込んで来たセスナの心配をしてくれたのだ、和馬は。
わかっている、わかっているけどこれはないんじゃないだろうかと、セスナの大きな目には涙が滲んだ。
いや別に、期待したとかじゃないけれど。決してそうじゃないけれど。
だけど普通、一般的に、この珍しくも恵まれた状況で僅かもその気にならない男なんてどうなのか。
「おい、セスナ」
「うるさい、一人で帰れるわ、ついて来るな!」
それでも追いかけようとした和馬を両手でさげた重い学生鞄で体の回転を利用して思いきり殴り倒して、そしてセスナは走りだした。道端に等間隔に並んだ寂しい街灯がボツボツと、セスナが走る道をささやかに照らしてくれていた。




