5 追いかける、追いかけられる
授業を終えて教室を出て行った阿久津を、美雨は慌てて追いかけた。教科書もノートも広げたままで飛び出したのに、美雨が後ろのドアから廊下に出た時には長身の阿久津の後ろ姿はもうかなり離れてしまっている。
「先生!」
ちょうど隣のクラスも授業が終ったのか、ドアが開いて生徒たちが次々と飛び出して来る。それを避けながら美雨は、声を張り上げながら走った。
「先生、阿久津先生」
B組の前を過ぎて、C組に差し掛かる。C組の前で五、六人の男子ばかりが固まって廊下の真ん中でじゃれ合っていたから、その間をすり抜けるのにかかった数秒のロスが美雨と阿久津との間をさらに広げた。
阿久津は大股でずんずんと歩くから、急いでいる風でもないのに結構な速さなのだ。
「先生、待って」
休み時間の騒がしさの中では美雨の声など簡単に埋没してしまう。阿久津はD組の前を過ぎ、E組の前もほんの数秒で通り過ぎてしまった。次の角を曲がると階段だ。そして、その階段をそのまま一階までおりると職員室の真ん前に出る。職員室に入られてしまったらアウトだ、たいした用もないのに職員室まで押しかける訳にはいかない。
何とか職員室に入る前に捕まえたい、美雨は足をもつれさせながらも走った。
「阿久津先生!」
角を曲がる直前に、どうやら美雨の声が阿久津に届いたらしい。阿久津が足を止めて振り向いてくれただけで、美雨の胸には何か熱いものが広がった。
「阿久津先生」
「中森君、どうかしたかい?」
軽く息があがっている美雨に微笑みながら、阿久津は少しだけ腰を曲げた。背の低い美雨と視線の高さが近くなるようにしたのだ。
「阿久津先生、あの……私、先生のお母さんが具合が悪いって聞いて」
ああ、という感じで阿久津は頷いた。眼鏡の奥の切れ長の目が細められる。
「よく知ってるね、そうなんだ。まあ、もう歳だから仕方ないんだけどね。田舎でひとりで暮らしているから心配でね」
「そう、なんですか……」
こういう時、どう言えばいいのだったろうか。美雨は焦りながら言葉を探した。それはご愁傷様です、ではない。とんでもない!
「えっと、その……」
美雨が阿久津を呼び止めたのは、もちろんあゆみから聞いた噂の真偽を確かめたかったというのもあるが、それ以上にただ会いたかっただけなのだ。ついさっきまで阿久津の授業を受けていたのだから会いたいなどと言うのはおかしいかもしれないが、けれどそうなのだ。
「えっと」
言葉が出て来ない。
阿久津の目に見つめられると、美雨はいつもこうなってしまうのだ。「えっと」とか、「あの」とかばかり繰り返す馬鹿な子だと思われてないだろうかと、そんなことも気になる。
「中森君、受験勉強は進んでる?」
「あ、はい」
阿久津の方から話題を振ってもらえて、美雨はほっと肩の力を抜いた。そんな美雨を、阿久津はやはり穏やかに見つめている。
「第一志望は、明条大の教育学部だったね。教師志望か、なんだか嬉しいよ。中森君なら生徒思いのいい教師になってくれそうだ」
「そんな……」
やはり阿久津先生は優しい、たいした用もないのに話しかけた美雨にこんなにも優しい言葉をかけてくれる。
恥ずかしそうにうつむいた美雨のおだんごにまとめた髪に結ばれたリボンが、走ったせいなのかほどけかけていた。そのほどけかけの白黒ストライプのリボンを阿久津がじっと見ていたが、うつむいている美雨は気づかない。
「じゃあ頑張るんだよ、明条大は難しいからね」
「あ、先生!えっとお母さん……その、お大事に」
やっと適切な言葉が出て来て、美雨はふわりと笑った。そんな美雨に片手をあげて見せて、阿久津はありがとうと答えた。
階段をおりて行く阿久津の靴音が完全に聞えなくなるまで、美雨はそこに突っ立っていた。泣きたいのか笑いたいのか、自分でもよくわからなかった。