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58 教室に入る時には後ろの戸から


 別に、だからどうかしたかと言うと別にどうもしないのだけれど、気づけばいつの間にか、『教室に入る時には後ろの戸から』 が癖になっていた。だから別にそれがどうかしたかと言うと、どうもこうもないのだけれど。


 朝、妹の晴音を保育園に送ってから登校するとどうしてもギリギリになってしまう。これについてはさすがの雪都も両親にどうにかしてくれと言いたい。

 雪都は、両親がどんなに大変な仕事をしているかわかっているし、口が裂けても絶対に言わないがぶっちゃけ妹は可愛いと内心では思っている。

 妹の世話をするのは面倒だが、それほど嫌ではない。ただ、朝だけは勘弁してもらえたら助かる、とは思っている。


 晴音の保育園の登園時間は八時からで、それより早いと門が開いていない。だから晴音を保育園に送ってからだと、陸上部の短距離ランナーである雪都の足で走っても学校に辿り着くのはどうしても八時二十分の校門が閉まるのに辛うじて間に合うという時間になってしまう。


 八時ジャストに何事もなく晴音を保育園に放り込めたならもう少し余裕が出来るのだが、晴音がグズグズして遅くなってしまう時もあれば、保育士に呼び止められてしまうこともある。

 自転車を使えばもう少し楽になるのだが、まあ一応は間に合うし、足腰の鍛錬にもなるからと雪都は走っている。どうしても間に合いそうにない時には、自転車を使うことにしているが。


 先月のことだ、あの日はたまたま自転車だった。雪都は珍しく寝坊して、それこそ本当に遅刻しそうになって自転車で突っ走っていたのだ。そして、彼女を見つけた。雪都の幼馴染の女の子もまた遅刻しそうになっていて、どう考えても間に合いそうにないのに必死で走っていた。


 思わず自転車の後ろに乗せたのは、クラスメートだからなのか幼馴染だからなのか、それとも単に雪都が親切なのか。まあ、どうでもいいがとりあえず雪都は彼女、中森美雨を自転車の後ろに乗せた。


 遅刻しそうだったのだから当然、全力で飛ばした。途中で原チャリを何台も抜いたから、相当なスピードが出ていた筈だ。

 彼女は、雪都の背中に必死でしがみついていた。抱きついていた、とも言う。

 非常事態だったということで、いくら思春期真っ盛りな高校三年生男子でも抱きつかれて何とも思わなかった、その時は。あとになってから妙に背中が熱くなったけれど。


 そしてその日の帰りに雪都は、またもや彼女を見つけてしまった。そして、またまた美雨を自転車の後ろに乗せてしまった。

 その時は、別に遅刻しそうになっていた訳ではないのだから放っておいても良かったのだ。美雨だって送ってやると言ったら、最初は断った。それでも雪都は、どうしても放っておけないような気がした。


 夕焼けに染まった街を、彼女を乗せてゆっくりと自転車を漕いだ。

 それはなんだか、彼女と一緒に過した幼かった日々へと帰って行くような不思議な時間だった。


 スピードを出していた朝とは違って、美雨は雪都の背にへばりつきはしなかったけれど、だけど背中が熱かった。その熱が全身に広がって、顔まで赤くなって雪都はうろたえてしまった。


 好きなんでしょうと、一応は雪都の彼女ということになっている希羅梨がからかうように訊く。もういい加減にやめて欲しいと思うが、三年になって、同じクラスになってからは頻繁に訊かれてしまう。


 「私が中森さんと仲良くなるから、雪都くんはチャンスを逃さないでよね」なんて希羅梨に真顔で言われたのは、その自転車で美雨を送った日の、昼休みが終った直後のことだった。


 チャンスって何だ、チャンスって。

 何のチャンスなんだよ、おい。


 美雨を乗せて、茜色の街を走りながら雪都の中でぐるぐると回っていたものがある。


 「余計なお世話だ、いらんことすんな。俺は中森のことなんて何とも思ってない」なんて、無駄な努力と知りつつも言ってみた。だけどやはり無駄な努力だったようで、宣言通りに希羅梨は美雨と仲良くなってしまった。


 希羅梨のあの人懐っこさは、一種の才能ではないだろうかと雪都は思う。四月の終わり頃にあった親睦遠足という名の山登りでも希羅梨は美雨を雪都たちのグループに引っ張って来て、和馬や真琴、そして人見知りする性質の伊佐美とまで打ち解けさせてしまった。

 美雨の方はまだぎこちないけれど、和馬たちはもうすっかり美雨を仲間の一人として受け入れてしまっている。クラスが違うから山登りの時は一緒ではなかった創太と春樹も、何度か昼を一緒に食べたりしているうちに美雨と友達になったようだ。


 あれからひと月以上が過ぎて、希羅梨のおかげかどうかはわからないが確かに美雨と少しは近づけたように思う。少なくとも朝、挨拶する程度には。


 気づけば、『教室に入る時には後ろの戸から』 が癖になっていた。後ろの戸から入れば、一番最初に目に飛び込んで来るのは、いつも真面目に机に向っている幼馴染のおだんご頭だ。


 毎朝「はよ」と、それだけ言い捨てて雪都は逃げる。照れくさくて、美雨の返事なんて待てやしないのだ。


 チャンスって何だ、一体どこらへんが姫宮の言うチャンスなんだ。


 雪都の中で、ぐるぐると回っている得体の知れないものは一体なんなんだか。


 わからないからとりあえず雪都は、「はよ」と言う。そしてまた明日も、進歩のない「はよ」だけが繰り返される。



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