10 今はまだ恋の準備段階
春とはいえ、四月の半ばのこの時期は夜も十時をまわると肌寒い。
崇は、白いジャケットを羽織ると荷物を手に慌てて立ち上がった。髪をおだんごにまとめた後ろ姿を見失う訳にはいかないとばかりに教室を飛び出す。
「中森さん、一緒に帰ろう」
階段を降りかけていた一人の少女にそう声をかけると、崇の想い人は振り向いた。美雨の大きな目が崇を認めて、微笑みの形に細められる。
「時田君」
どうしてこんなに可愛いんだと、崇は思う。笑顔も可愛いし、崇の名を呼ぶ声も堪らなく可愛い。崇のクラスメートである中森美雨は、可愛いという要素だけで構成されていようだった。
「さっきのテスト、難しかったね」
「そうだね、応用問題がちょっとやっかいだったね」
階段で一階まで降り、模試のお知らせが貼られた廊下を抜けて、受け付けの事務員に軽く頭をさげてから外に出る。ひっきりなしに車が行き交う国道を右手に見ながら、崇と美雨はそのまま夜の街を並んで歩いた。
「問三の答え、時田君は何になった?」
「問三は、18かな」
「あー、やっぱり間違えた」
「僕の方が間違ってるかもしれないよ」
「ううん、絶対に時田君の方が正解だよ」
隣を歩く美雨を崇はチラチラと盗み見ながら歩くが、美雨は崇に見られていることなど微塵も気づいていない様子で、歩調は緩めないままで鞄の中からごそごそと先ほどのテストの問題用紙を引っ張り出して、それを見ながら小さな声でぶつぶつと言っている。ひっきりなしに行き交う車のヘッドライトが美雨の横顔を照らしては走り去り、照らしては走り去って行った。
崇と美雨が同じ予備校に通っているのは、崇にとって幸せな偶然だ。崇は二年に進級すると同時に大学受験の準備は早く始めた方がいいという母の意見に従いこの予備校に通い始めたのだが、崇が通い始めて二か月ほど経った梅雨の頃に美雨も通い始めたのだ。
予備校の教室で初めて美雨を見つけた時、夢か幻かと思った。そんなものを見てしまうほど、自分は恋焦がれていたのかと。
けれども美雨は夢でも幻でもなく、崇に気づくと「あ、時田君!」と、いつものように明るく笑った。美雨の見慣れない私服姿に崇の心臓は大暴走したが、それを必死に宥め押さえて、崇は何とか笑顔を返したのだ。
あれからもうすぐ一年になる。
週に二回、崇はこうやって美雨と並んで夜の街を歩く。
実は、崇の家に帰るにはかなり回り道になるのだけれど、美雨には通り道だからと嘘をついて、毎回こうやって送っているのだ。
この幸せな時間は、親の期待に答えるべく頑張って勉強している自分へのご褒美だと崇は勝手に思っている。
「ねえ、時田君。来栖先生って、どう思う?」
「んー、ちょっと派手過ぎるかな」
「派手かぁ、そうだね」
「それと、やたらと永沢ばかり当てるよね。でなかったら、阿部」
「リーディングは必ず永沢君だよね。まあ、永沢君の発音は、すごくきれいだけど」
「あれだけ読まされたら発音もよくなるよ。僕はちょっと気に入らない、贔屓してるみたいで」
「贔屓、なのかなぁ。永沢君は、嫌がっているみたいだけど」
涼華に食ってかかっている雪都の様子でも思い出しているのか美雨は首を傾げていたが、崇はそのまま続けた。
「来栖先生ってさ、見た目のいい男は贔屓するらしいよ」
「そう……なの?」
歩きながら、美雨が崇を見あげた。美雨の大きな黒曜石の瞳でじっと見られると、途端に崇は落ち着かなくなる。
ああ、どうしてこんなに可愛いんだろう!
またもや暴走を始めた心臓を宥めながら、崇はとりあえずハハハと笑って見せる。崇が笑うと、美雨も笑ってくれる。それがまた、めちゃくちゃ可愛い。
崇は、美雨への想いを伝えるつもりはない。
今はまだない、と言った方がいいだろうか。
美雨が去年までの担任だった阿久津に憧れているのは知っているし、阿久津みたいな大人の教師が生徒を恋愛対象として見ることはないとわかっている。
可哀相だけれど、美雨もいつかはその現実に気づくだろう。
美雨が失恋の痛手に涙する時、傍にいるのは自分だと崇は思っている。だとしたら今はまず、来年に迫った受験という壁を乗り越えることが先決だと思う。
いい大学に入って、そしていい会社に入る。きちんと人生の地盤を固めてから、そして好きな人を手に入れるのだ。
「まあ、阿久津先生とは全く違うタイプだから戸惑うよね」
「そう、だよね。阿久津先生とは違うよね……」
呟くようにそう言うと、美雨は何かを考え込むように俯いた。そんな美雨は崇は見つめながら夜の街をゆっくりと歩いた。
今はまだ見ているだけでいいと崇は思う。
そう、今はまだ。