9 美女と狐
夕日が窓から長く差し込み、職員室の床を染めていた。
その美しい自然の色には目もくれず、涼華はこめかみに青筋をたてながら今日やった小テストを採点していた。今採点しているのは涼華が受け持っている三年A組のもので、さすがに国公立大学を狙っている生徒ばかりだからなのか、抜き打ちだったのに涼華が予想していたよりいい成績だ。
そう、涼華のこめかみがピクピクと引き攣っているのはテストのせいではない。さっきからずっと絡んでくる隣の席の古典教師、矢田部彦市のせいなのだ。
「春はあけぼの言うてな、今時分は明け方が一番きれいなんよ。だんだんに白うなってく山際がちょーっと明るうなって、紫がかった雲がこれまた細くたなびくんよ。そんなきれいなモン、涼華も見たいと思うやろ、ボクと一緒に」
この街中で山なんてどこにあるんだと言いたいところだが、そう言うと今度は山を見に行こうと言われるのはわかりきっている。この糸のように目が細い狐顔の彦市という男の対処方は、無視するのみなのだ。こっちが怒ると喜ぶのだから、始末に悪い。
「そやから、今夜あたりボクの部屋に泊まって、明日の朝は二人で夜明けのコーヒーを……ちょお、涼華?」
採点の終った答案用紙をクリップで留めて、ノートに点数を写していく。
飛鳥井セスナ、70点。
阿部和馬、85点。
市川博隆、100点。
永沢雪都、90点。
中森美雨、75点。
姫宮希羅梨、95点。
回答時間十分の小テストだから、問題数は二十問。一問五点の配点のため、五刻みの数字が涼華のノートに並ぶ。
最後の一人の成績を写し終えると、涼華はパンッと音をたててノートを閉じた。そして、さっさと机の上を片づける。
「お、終ったか?ほな、行こ」
ニタニタと狐顔で笑っているこの古典教師は、何の因果か涼華の幼馴染だったりする。子供の頃からつかみ所のない変な奴だったが、大人になってもそれは変わらない。まさかこんな変な奴が教師になるなんて、世も末だと涼華は思っている。
涼華はバックを持つと、まだ残っている教師たちにお先にと声をかけてから職員室をあとにした。ヒールの音をカツカツと響かせながら廊下を行くと、狐がひょいひょいとついて来る。涼華はきれいさっぱり狐を無視したままで、保健室とプレートがさがっている部屋の戸をガラリと引いた。
「真央、久しぶりに飲みに行かない?」
「おんやぁ、それはいいね。ボクもお供しますよぉ」
養護教諭の宇崎真央を誘ったら、何故か美術教師の右京朱海が釣れた。三十を過ぎたおっさんなのに長髪で、首の後ろで一つに結んでいるのはおしゃれなつもりなのだろうか。涼華の好みを言わせてもらえば、男は短髪に限るのだが。
「右京先生、確か胃が痛いのですよね?」
眼鏡を指先で押し上げながら、真央が朱海を睨みつけた。
成る程、今日の保健室入り浸りの言い訳は胃痛かと涼華はあからさまに呆れ顔をしたが、朱海の方は真央に睨まれても平気でヘラヘラと笑った。
「はい、そうですよぉ。だからこうして、胃薬をいただきに参りましたよぉ」
「でしたら、飲みに行くなんて厳禁です」
「いやいや、真央ちゃんの献身的な介護のおかげでもうすーっかり治ったから大丈夫ですよぉ」
「介護した覚えはありません」
「真央ちゃんの笑顔が特効薬なのさ」
「笑った覚えもありません」
きっぱりとそう言い切ってから真央は立ち上がり、白衣を脱いで机の上に置く。そして、右京の前を素通りしてロッカーを開けて上着とバックを取り出した。
「涼華、どこに行く?」
「そう来なくっちゃ!」
涼華は真央と並んで歩き出した、その後ろをバタバタと男が二人ついて来る。
「この前行ったカクテルバーにする?」
「その前に何か食べよ、お腹すいた」
「中華なんてどう?」
「いいわね、行こう」
カツカツと、ヒールの二重奏がもう薄暗くなってきた校舎に響く。
「涼華、そらないわ」
「真央ちゃぁーん、ボクもお供しますよぉー」
二人の女のあとを二人の男が追いかけているが、そんなのはもちろん無視だ、無視!




