65.忘れていたもの
小雨の降る中の移動は、濡れるだろうとタオルを用意したが、小春が雨避けの結界を張ってくれて、濡れることなく御殿に着いた。
今日も午前は若君、昼飯をダイジョウの屋敷でとって、午後からは御簾の人だ。
若君を訪ねてみると、どうやら昨晩遅くまで、資料室で借りて来た本を読んでいたらしく、今日は昼まで寝るとのことだった。
え。これ、若君に確認せずに、俺を連れて来たってこと?ダイジョウに視線をやると、口をへの字に曲げて鷹揚に頷いた。
「仕方あるまい、昼まで我の屋敷で待機しておれ」
まあ、口答えできるわけでもないから、こちらも頷くしかない。
俺としては、アパートに戻してくれたら嬉しかったのだけど、まあ、御殿で放置されるよりダイジョウの屋敷の方が有り難い。
「昼過ぎに迎えに来る。白湯は昼餉の時刻に女房に運ばせる」
敷物のある部屋に通されて、ダイジョウは奥に入っていった。
午前中は小春の結界の練習に付き合い、その後に柏手を教えてもらったりなどして過ごした。
昼食を食べ終えるタイミングでダイジョウが戻ってきて、数枚の紙を投げて寄越した。
「今日の詫びじゃ。炎と氷の結界札。小童は使えはせぬから、童、そなたが開け」
「……私の力を通せば良いの?」
受け取った四枚の紙を吟味しながら小春が問う。
「しかり。結界札じゃが、外側から触れようものなら、焼かれ、凍る。持続時間はごく僅か。どう使うかは小童次第」
午後からの御簾の方への説明を終え、今日で一段落ということらしく、最後に労いの言葉を貰った。
ダイジョウに担がれて、帰路、小雨の中を渡る。上空から見ると、商店街の東側の川の水嵩が増しているのが一目でわかった。
ん?何だ?川が不自然に膨らんでいる。
濁流は黒々と流れているのに、一カ所、黒くて丸い障害物があるように水の流れがおかしい。
……いや、待て。今朝から降り出した小雨で、なぜこうも川の水嵩が増している?
山の雪解け水にしては時期が早い。山に沁みた雨水が出てくるにしてもこの量はおかしくないか?
黒くて丸い障害物が遠ざかり、見えなくなるその時――。
黒くて丸い障害物と、目が、合った。
「小春っ!」
叫びながら、氷の結界札を取り出し小春の前に掲げる。
「あいっ」
小春が結界を張ったと同時に上から、黒い何かが降ってきた。
下に居た。川に在った。なぜ、降ってきた?
≪ようやっと、見つけた≫
同じ高度で小雨に紛れながら黒い何かが、目の前に、ある。
伸ばしてきた幾本もの手が結界に触れ、パキリ、パキリと凍っては落下してく。
黒い影の様な輪郭があやふやな何か。
いや、違う。
小雨に紛れているのではなく、小雨に映している?
≪我が愛し子≫
これは、人型だ。
かつて、美しかったものだ。
優しい声に、頭の芯が痺れる。
子供の頃、聞いた声。
揺れる水底で、幾重もの光と闇の中で蹲っていた。
否定されて泣いていた。忘れられて独りだった。
探しに来たんだ、俺を。
結界に阻まれて、凍っては落ちていくのに、何度も手を伸ばしてくる。
空を切って、何も掴むこともなく落ちていく手がどうしようもなく悲しく見えた。
無意識に伸ばしかけた手に、飛び出すように小春がしがみついて悲鳴を上げる。
「お兄ちゃんっ、だめぇっ」
小春が遠くで泣いている。
「だめ、手を降ろして。伸ばさないで。応えないで」
ちがう、ちがうんだ、小春。
この人は、きっと、俺に害意を持ってはいないんだ。
会いに来てくれたんだ。
やっと、会えたんだ。
ずっと、聞きたかった声。
最後に聞いたのは 悲し気な ――
≪愛し子。優しき子よ。忘れておいで。
覚えていては、俗世は生き抜き難かろう。
泣かずとも、良いのだよ。
約束の時に、もし、その心変わらぬなら――≫
ゆらり
ゆうらり
小雨の降る御山の中腹に、白い迎え火が、灯った。
「あ……。お兄ちゃん……?」
御山に自分の送り火が灯ったことが、感覚で分かった。
降りしきる小雨は、視界を遮るほどの激しさは無い。
ここからでも御山は見えるだろう。
小春が御山を確認したのか、戸惑いを多く含んだ呼びかけを発した。
ダイジョウの札で小春が張った結界が、その輪郭を失っていく。すぐに小春が俺の前に結界を展開した。
「お兄ちゃん、しっかりして!私の結界じゃ、防げない!手を下ろしてぇ!」
そう言いながらも目の前の結界はどんどん重なっていく。
でも、でも小春。俺はこの前にいる人が懐かしい。胸が締め付けられるほどに、逢えて嬉しい。同時にとても不安で悲しくて悔しくて。
ピンと張り詰めた空気の中、ダイジョウが不機嫌そうな声を発した。
「我の道を妨げて詫びの一つもないとは如何であろうな。お主、今は、去ね」
強い語尾を伴った言葉が響いた瞬間、辺りを炎が包み、水分を根こそぎ蒸発していく。
「あっ、待ってくれ、攻撃しないでその人はっ」
消え行く黒い影が何かを言っているが、ジュワッ、と水分が蒸発する大きな音に紛れて聞き取れない。
あ。もう力が、保てていないのか。小雨に映した影が消えていく。
「童、結界を解け。もう数日は動けまいて」
小春は無言で結界を解いていく。戸惑いがちに小春がダイジョウを見遣った。
「あの、あ、ありがとう」
「礼を言われる覚えはない。我が道を塞いだものを退けたまで」
あ、そうか。俺、今、助けてもらったのか……?
ならお礼を……。
「ありがとう、ございまし「上辺だけの言の葉は要らぬ」
最後まで聞くこともせずに、ダイジョウが俺の言葉を切り捨てる。
ああ。うん、今のは俺が悪い。朧げにそんな判断をして口を閉ざす。
アパートに着くと、ダイジョウは小春に声を掛けた。
「童、これは厳しいかもしれんぞ」
「……うん、分かっている」
「難儀なことよ」
いつもより派手な音を立ててダイジョウが上空に駆けた。
「お兄ちゃん…」
心細げな声が、胸元から聞こえる。
取りあえず、アパートの中に入らなければ。ふらりと階段に足をかける。
「お兄ちゃん、どうして、あの手を取ろうとしたの……」
「……取らないと、泣いてしまうと、思ったんだ」
御山を振り返り仰ぎ見る。
ああ、俺は、もう。
一気に思考がクリアになった。
部屋に入ると、キッコウ柊が出迎えてくれた。
ドアを開けて、木枯らしでも入り込んだのだろうか。サワリ、サワリと葉擦れの音が聞こえる。
ただいま、と声を出すと、小春も少しだけほっとしたように肩の力を抜いてキッコウ柊に挨拶をした。
荷物を置いて、ポットのコンセントを入れる。カフェオレが飲みたい。
「小春、俺は珈琲牛乳を飲むけど、小春は何飲む?」
「お兄ちゃんと、同じの」
少しすると二人分の珈琲牛乳が出来上がったので、キッコウ柊の横に座る。
苦さなんてほとんど残っていない珈琲牛乳を飲みながら、口を開く。
「なあ、小春。さっきのことだけど」
「あい」
「俺、あの手は取りたいって思うんだ」
「……そうだね、お兄ちゃん、あの時正気だった。魅入られているわけでもなく、操られているわけでもない。あれはお兄ちゃんが手を伸ばした」
一気に珈琲牛乳をあおり、小春が引っ付いてくる。
「縁は、お兄ちゃんからも、伸びていたよ。
悪縁だと、思っていたのに、その中から一瞬で綺麗で細い縁が出て来た」
「うん、そうか。でもな、小春。
俺は、あの手なら取りたいけれど、川の中に居た奴の事は、とても嫌だと思ったんだ」
「…どういうこと?」
「川に、追いかけて来た何かがいた」
「川に?」
小春は気付いてなかったようで、一瞬驚いたものの、すぐに考え込む。
「ああ。川に、俺の悪縁の本体が居た。
小雨に映されたのは、同じものではあるけれど、別の意識を持つもの?
よく、分からないけれど、そう思うんだ」
少しの沈黙が落ちる。
ふと、手首の雁木玉がほのかに温かくなった。
「お兄ちゃん、もうすぐ、お別れ?」
「分からない。けれど。小春、俺はもう、思い出せるよ。
思い出せば、今日俺が手を伸ばそうとしたもの、川の中に居た奴、もう少し詳しく説明できると思う。
けれど、多分、ダイジョウの言っていた『手順』の中に俺の記憶を取り戻すことは含まれている」
『郷に辿り着いたとしても、探すには別に時がかかる。
そして連れゆくには手順を踏まねばならん』
そうだ。今日俺が手を伸ばしたものに害意は無い。
根拠のない確信が、ある。
ぐりぐりと、無言で小春が頭を擦りつけてくる。
ゆっくり撫でながら、キッコウ柊を眺める。
昨日、貰ったばかりなのにな。
「?お兄ちゃん?御山に灯った送り火はお兄ちゃんのだよね?もう、思い出してるんじゃないの?」
「ああ。そうだな。現世でのことなら、もう思い出している。
でも、違うんだ。多分、俺は現世でも忘れていたことがある。不思議と、分かるんだ。
小春、俺、思い出すよ。多分、もう一度接触が有ったら、記憶は溢れてしまう。その場で思い出すより、今、思い出して、対策を考えた方が良いはずだ」
「あい…、あい」
二度目の返事を小春が返すころには、小春は頭を擦りつけるのをやめて服に顔を埋めて動かなくなった。
何か気の利いたことを言えることもなく、ただ、小春の背中に指を置く。
連れて、行けないだろうか。
舎長との誓約は『岩木が現世に帰るときにはついていかない』だった。
なら俺が連れて行けば良いのではないか。
考えないわけでは無かったが、リスクが高すぎた。
もし、現世に戻った瞬間小春が消滅したら。
舎長の誓約以外にも、郷で生まれた小春が、現世に移動するのに耐えられるか、現世で存在を繋ぎ止められるか。
あまりにも、不確定要素が多すぎる上に、失敗時が小春の消滅。
試す気に、なれるはずもない。
小雨が止み、少し日が出てき始めた。
もう、落ちかけの夕日は、おぼろげにベランダに影を作り始める。
俺の服に顔を埋めていた小春が、ぴょいっと肩に乗ってきた。うん、俺も、いつまでも座ってちゃだめだな。
少し重いような気がする腰を上げ、ドアの外、通路に出て御山を見る。雨上がりの御山は、冬なのに色鮮やかに鎮座している。
深く深呼吸をして、目を閉じた。
蓋を開ける。
表層の記憶は一瞬で溢れたが、肝心の記憶は底に沈んで出てこない。
それじゃあ、意味が無い。
俺が思い出したいもの。
あなたのこと。
懐かしかった。
会えて、嬉しかった。
忘れていたことが、悲しかった。
記憶は無いのに、ただ、感情だけが湧き出た。
この底に沈んだ記憶は、あなただろう?
あなたが、話しかけてきたということは、もう沈む理由は無い筈だ。
子供の頃、海に最期に行ったのは小五の時。
それまでで、何か変わったことは無かったか。
ああ、身長は伸びるのに、体重が増えないから、保健室で休み時間にお握りを食べていた。キャンプをした。遊園地に行った。遠足の日に熱を出して笑われた。
記憶を浚うように遡る。
ある時期を境に記憶が一気にあやふやになる。
そうだ、小学校一年生の夏。急に記憶力が良くなった。
祖父母の家のある田舎から、自分の家に帰省する日に帰りたくない、忘れたくないと意味の分からない駄々をこね、大人たちを困らせた。
何か大事な事を忘れたことに、腹を立てていた。
寂しさに大泣きして、悔しさに癇癪を起こした夏のあの日。
≪愛し子。優しき子よ。忘れておいで。
覚えていては、俗世は生き抜き難かろう。
泣かずとも、良いのだよ。
約束の時に、もし、その心変わらぬなら――≫
そうだ。
あれは、小さい頃の、海の中での約束。
目を開ける。
御山の中腹には変わらず白い送り火が灯っている。
ゆらり、ゆうらり
送り火は次第にに小さくなり、消えていく。
送り火が消えたのを確認してから、踵を返し、アパートの部屋に入る。
「小春、話をしよう。
もう一度お茶を淹れて菓子も用意して、ゆっくり聞いてほしい」
しとしとと、小雨は降り注いでいるけれど、きっと明日には晴れるだろう。




