56.残照
「小童、お前は現世に帰るつもりじゃろう?
その時にこの郷で築きあげた全てを置いていくのだろう?
大切そうな、その童さえも」
流されたか。
それにしても、痛いところを突いてくるな。
小春がギュッと服を握り、しがみ付いてくる。うん、うん。…ごめんな。
「…連れて、帰るわけには行きませんからね。
でも、別れる時が来るのを知っていても、俺は小春と一緒にいたい」
「醜い。お前が」
「駄目っっ!!」
鋭い声が渡り廊下に響く。肩をいからせた小春が小さな手を強く握りこんでダイジョウを睨み付けている。
「小春?」
「お前、お兄ちゃんを惑わせて、何がしたいのっ」
責め立てるように、小春が声を荒げた。
「…殊勝なことじゃ。じゃが、不躾に呼び名とはいえ聞いてきたのはそこの小童。
己の言の末を辿らず、結んだ縁の儚きを、拒むことなど自明の理。
なんの責も負う覚悟のない者が、矢鱈と差し出す手の恐ろしさを、童が一番知っておろう?」
小春に対する、憐れみの言葉。俺に対する非難の言葉。
だんだんと小春の目に涙が溜まって、次第に零れ始めた。
泣きながら、何かを必死で否定するように、頭を左右に振っている。
…聞かなければ。
「…いずれ去る者が、去られる側の気持ちを考えるなら、お互いに歩み寄るべきではないと、そういうことですか?」
「然り」
「別れのない出会いなんてありませんよ。
それを怖れてしまえば、人はいつまでも独りです」
「然り。別離は等しく訪れるもの。ならばこそ、小童にその資格なし」
…どういうことだ?
ダイジョウの目に、感情は乗っていない。返答に迷いもない。ただ事実を述べているだけなのだろう。
「これ以上の問答に意味なし。これまでだ、小童」
ここまで、か。釘を刺されてしまった。
さっきとは逆だな。ダイジョウは、再び無言で歩き始める。
「…先に言うけど、出来るなら俵担ぎはやめてください。
腕に乗せてくれると、助かります」
一月六日、土曜日。
日課の散歩を終え、朝飯を食い、料理をし、寮に差し入れを持って行く。
「今日は、お邪魔しまーす」
寮のロビーでは後輩が先輩と姫ちゃんにダンスのレクチャーをしていた。
「いらっしゃい、イワキサン」
「岩っち、いらっさーい」
「岩木君、今日の飯何?」
先輩はもう隠す気も無いようだ。
「えっと、玄米と白米を半々で炊いたんです。そのお握りと、ピーマンの肉詰めとか」
はい、とセンパイにバスケットを渡せば三人で覗き込み始める。
「あっ!プリンがある」「え、やだこれ、二食分あるわ」「このニンジン何。お酢の匂いがする」和気藹々と検分して先輩が「プリンだけ冷蔵庫に入れよう」と調理室に持っていった。
「なあ、後輩、さっきのダンス何?踊れるの?」
「何となく。持ってた音楽で、踊れますね」
姫ちゃんが話に参加してくる。
「最初は三人で運動不足だねって話していて。ラジオ体操でもするかって。
その内、踊りの話になったのよね。マイムマイムとか盆踊りとか」
「そうそう。で、俺が音楽出してきて、踊れそうだから踊ったんっす」
姫ちゃんがクスクスと笑いながら繋ぐ。
「で、さっきの光景になったの。どうせ暇だし?教えてよって」
二人は軽いステップを踏みながら楽しそうに踊り始めた。
「おーい、お茶入れたから、三人ともこっち来いよー」
調理室前から先輩のお呼びがかかる。
「「はーい」」
後輩と姫ちゃんに促されて調理室に向かう。
調理室は先輩が入れてくれた紅茶の匂いが広がっていた。
「わ、良い匂いですね。紅茶あったんですね」
「見つけた。賞味期限は過ぎていたけど、未開封だったし試しに飲んだら大丈夫だったから。これ、昨日のタッパー。有難う、返すよ」
タッパーを受け取る。
「いいえ、どういたしまして。俺、紅茶は買ってなかったんですけど、買おうかな。匂いが良いな」
「それなら、分けてあげるよ。二人とも良いだろ?」
「「もちろん」」
先輩は昨日のタッパーを一つ取り出し、茶葉を分けてくれる。
「わ、有難うございます」
いつも貰ってばっかりいるし、と三人は首を振った。
「あ、明日の午前中なんですけど、一旦、食料品店が開くそうですよ」
「そうなの?食料品店ってあれだよな。窓から見える大きな建物」
「そう、それ」
三人の視線が窓に向く。
「イワキサンは明日買い物に行くの?」
「行くよ。卵も粉類も尽きてるし、豆腐とかも欲しい。一回の買い出しじゃ無理だから、最低二回は往復するかな。調味料も危うい」
「そんなに買うの?」
「年末年始に結構作ったから。作っても手土産で飛んだりしたし。色んなものがカツカツ。
天気だって、いつ崩れるか分からないし、それがどれだけ続くかもわからない。食料の備蓄はしておきたいんだ」
「岩っち、お金、大丈夫?」
「まあ、何とか。年始も商店街でバイトしたし」
「えっ、管理舎外で?」
先輩が驚いて声を上げた。
「はい。知り合いに声かけて貰ったんですよ。バイトしない?って」
「なんのバイト?」
「飲み会の、調理係」
「「「ああ」」」
そこで声が揃うあたり、三人の中での俺の立ち位置が分かる気がする。
「岩木君、明日の買い出し、良かったら俺も付いていっていい?」
「良いですよ。じゃあ、朝の九時半に迎えにきますね」
「頼む」
後輩と姫ちゃんは先輩に「買い物行くの?」「危なくない?」と寄っていく。
「来るのは先輩だけですか?」
「そのつもり。姫ちゃんを連れて行く気は無いから、必然的に寮にもう一人残すことになる。
じゃあ俺か後輩、どちらが買い出しに向くかというと俺だろ?」
「分かりました。じゃあ、明日」
タッパーの入った紙袋を下げて、アパートへの道を辿る。
「なあ小春」
「あい」
「先輩は、距離を取ろうと、しているのかな」
「…分からないけれど、縁は前よりずっとしっかりしていたよ」
「そっか」
だからか。大切に、なってしまったのか。
姫ちゃんの選択によって状況は変わった。
その選択に、先輩が応えようと、しているのだろう。
「…お兄ちゃん」
「どうした?」
「お兄ちゃんは、私が昨日遮った先を、予想してしまっているのでしょう?」
「…そうだな」
昨日の夜、考えてみたら、すぐに答えが出た。
むしろ、今まで気づかなかったのが不思議なくらいだった。
「アイツは、意地悪。でもね、分かっちゃうの。
やっぱりとても、怖いから」
小春は小さな呟きを落として息を吐く。
「私ね、最初に舎長に約定をかけて貰えて良かったと心底思うの。
あれが無かったら私はきっと、今の私じゃなかった。
だから、お兄ちゃん。後悔しないで。迷わないで」
「…分からないよ、小春。俺は、約束できない」
言葉を重ねて、想いを伝えて。
伝えられた想いが自分には勿体ないくらい優しかった時。
こんなにも有り難くて、重くて、しんどい。
知りたくなかった。知りたくなかったよ、小春。
「…お兄ちゃん…」
俺が空の御殿から帰ったとき、もう日が暮れていたのに、二階の欄干を飛び降りて、走って来た小鳥少年。
初日から親切にしてくれて、最近は多分身内枠にすら入れてくれている森津木さん。
俺は、捨てていくのか。
コダマさん、ツバメ、シロさん、チトセ、キョウコクさんにセンジュさん。
お姉さんにツクロイさん、フミツキさん。
皆、皆。
承知の上で、仲良くしてくれていたんだ。
『己の言の末を辿らず、結んだ縁の儚きを、拒むことなど自明の理。
なんの責も負う覚悟のない者が、矢鱈と差し出す手の恐ろしさを、童が一番知っておろう?』
あの時小春は、泣き出した。反論が出来なかった。
小春の性格からして、反論はあったのだろう。
でも、それすらできないほどの、抑圧されていた嘆きが噴き出した。
俺は小春に頼って郷で過ごし、小春に頼って悪縁を切ろうとしている。
その先に待つのは、小春を置いて現世に帰る俺と、残される小春だ。
温かかった分だけ、寂しくなる。
楽しかった分だけ、悲しくなる。
全てを小春に押し付けて。
『実際に現世に生還して日常に戻った迷い人を確認した酔狂が言うには、タイムラグも無く、スムーズに戻れるようだよ』
現世にまで確認に行くほどの縁を結んだ相手がいるというのに。郷での生活で、トラウマを負わないわけがないというのに。
何の違和感も無く、スムーズに日常に戻れるその意味を。
森津木さんも人が悪い。分かりにくく、聞き流しやすく説明するのだから。
なあ。小春。
迎え火の中で、記憶を無くしたように。
送り火の中で、また。
現世に帰るとき、迷い人は郷での記憶を忘れるのだろう?
俺は、皆を、忘れるんだろう?




