36.寮の夜
「先輩、外の声を聞かないでください」
先輩の顔は青い。ざわめきは今、「見捨てた」「女は一人孤独だった」「恨み言を言っていた」などの心理戦に移行した。
「きっと、この後あの人の声で、窓が叩かれる。耐えてください。
俺と話をしましょう。猥談でもします?世話話でもします?センターの体験談とか大歓迎ですよ」
「センターは覚えてない。猥談は、ちょっと」
先輩は眠っている姫ちゃんを見る。姫ちゃん、今は大人しく寝てるけど、多分、肉食系だよ。手玉にっとって遊ぶ系だよ。凄いよ、彼女。銀さんの前では全力だよ。
「じゃあ、他のことで。俺、気になってたんですけど、飯、どうして作らないんですか?
作れた方が、良いですよ。食堂だって、土日休みだし」
「あ、ああ、食材を補充するのに二の足を踏んだんだ。作れないってのもあるけど」
「俺だって作れませんでしたよ。最初は味噌汁に入れたニンジンだって生だったし。
肉だって焼き過ぎて炭でしたし。笑った。包丁で削って食べましたけどね」
「そう、なんだ。てっきりできるものだとばかり。
クッキー、作ったんだろう?多少は分野違いだけど、元々、できてたんじゃ?」
「いえ、俺は凄い甘党で、菓子類が無いのは死活問題だったんです。
だから、本を借りて、レシピを借りて、小春の力も借りて、作ったんですよ」
「そうだったのか。でも、レシピとか、誰に?」
「レシピは仲良くなった人に。本は、今俺がバイトしている資料室です。
迷い人でも本を大切に扱うなら貸し出してくれますよ。もしかしたら、最初は資料室でも閲覧だけになるかもしれませんけど」
「そんな施設あったんだ」
「ありますよ。先輩たちが二階の事務室でファイリングしてたんですよね?
だったらその事務室の左手奥の扉がそうです。ちゃんと『資料室』って書いてあるんですよ」
「見てなかった」
「資料室にいる司書さんは、郷の人です。少し風変りですが、面白くて、繊細な気遣いができる良い人ですよ」
「…郷の人に、いい人?」
「いますよ。郷の人は全員が敵じゃないんです。俺たち迷い人を喰わない人もいる。そもそも人間を食わない種族もいる。
是が非でも喰いたいって言う人は割合で言うならそんなに居ないんじゃないかな。今の時期は、大半は遊びで狩るんですよ」
「遊び?遊びで、彼女は殺されたっていうのか?」
先輩の目が、咎める視線が、弾圧しようとする口調が俺を詰ってくる。
「断言はできません。けれど、可能性は高い。先輩。情報収集はしましたか。郷の人と話しましたか。最初の説明担当者と、どんな話をしましたか?
俺が寮の調理室の場所を知っていたのも、火石と水石の場所を知っていたのも、気付きましたか?
全て、初日に説明を受けていたからですよ。
初日。午前中だけの案内。でも案内場所は、アパートと寮、管理舎だけだ。道程だけでいえば一時間に満たない。
大分時間が余りますよね?
その間に、説明担当者の人はアパートと寮の見学もさせてくれたはずです。
見学可能になっている部屋が一部屋ずつ開放されていた。開放してくれていたんです。迷い込んできた、俺たちのために。
俺は初日の案内の時、アパートから寮までの道のりで恐慌状態っぽくなってしまって、この寮のロビーで休憩したんです。休憩する時間は十分にあった。説明担当者の人と話す時間も十分に有った。
恐らく、説明担当者は混乱している迷い人を前にしても、腹を立てても食わない人が、殺さない人が選出されている。
じゃないと、格下である迷い人に当たり散らされたら、殺してしまうでしょう。
あなたが、初日に、最初に出会った郷の人は、迷い人にとって話ができる人だったんじゃないですか」
俺は幸運だった。説明担当者が森津木さんだったから。
でも、あとで気が付いたんだ。朝食を取って、部屋から出たとき、防音の結界から出たとき。喚き散らす声は男女二人。両方とも迷い人の怒鳴り声だ。
じゃあ、怒鳴り散らしている相手、説明担当者の声は?
話していたかもしれない。反論していたかもしれない。腹を立てていたかもしれない。
でも、声を荒げたりはしていなかった。
姫ちゃんの説明担当者は正午間際、管理舎で見たけれど、ギリギリまで付き合っていた。途中で抱えて管理舎に連れてくることも出来ただろうに。
朝、あれだけ怒鳴り散らされてなお、『何度も説明したわ』と言っていた。
だから、迷い人を食料の意味であまり見ない人、忍耐強い人、多少の同情がある人、理性的で説明に向く人が選出基準じゃないかと思ったんだ。
まあ、もしかしたら一族ごとの持ち回り当番かもしれないし、確証はない。でも、多分当たりだと思う。
「それは、君が、強いからだ」
「違います。俺は強くない。初日、アパートから管理舎の道のりで取り乱したと言ったじゃないですか」
「俺は目が覚めてからずっと、取り乱していた」
「俺も、最初はそうですよ。ただ、説明を聞いている途中からは、説明担当者の人に置いて行かれたら、離れたらもう駄目だ、という訳の分からない強迫観念に捕らわれていたんですよ」
「は?本当?」
「本気でしたねぇ、あの時は」
先輩はまじまじと俺に視線を合わせてくる。
「ちょっと、やめてくれます?俺だって好きで過去の赤っ恥を暴露したんじゃない」
「そりゃそうだ。すまん」
小春がぴょいぴょいと肩で跳ね始めた。
「どうした、小春」
「私も。私もだよ、センパイ」
「小春ちゃん?」
「私たちが、お兄ちゃんを日中に襲ったの。皆、制裁を受けたよ。居なくなった。
けど、最後に皆から私が生まれた。私は今、お兄ちゃんの傍に在るのは綺麗事だけで成り立った経緯じゃない。これからだって、この世の悲しみは巡ってくるの。
だから、今、私はお兄ちゃんの傍に在ることを譲らないし、とても大切に思うんだよ」
先輩は少し押し黙った。
小春はぴょいっと先輩の膝に乗り、先輩の顔を見上げている。
「おれ、俺は。俺の、付けられた呼び名は『ムゴン』。一言も、言葉を交わさなかったからだ。これが、答えだ」
舎長、もうちょっと何かなかったですかね。いや、眼鏡よりましか。いや、むしろ眼鏡の方が良いのか。
「眼鏡と、どっちがマシですかね?」
「眼鏡?」
あ、やべ。言葉に出てた。
マシ、とか言っちゃったよ。
「俺らの二代前に。眼鏡かけた迷い人がいて、その人の呼び名が『眼鏡』だったらしいですよ」
「眼鏡」
「開けてえ、助けて、私だけどうして、ねえ、今度は助けてよぅ」
先輩が条件反射のように腰を浮かした。
あの人の声。
小春が先輩の肩に乗り、片耳に結界を張る。
「お兄ちゃん、早く、もう一つの耳、塞いで!」
先輩の耳を慌てて塞ぐ。塞いでも音は通るから、耳元で話しかけ続ける。
「先輩、外の声を聞かないで。あれは違う。
分かるだろうっ。違うんだっ。
今先輩が、窓を開けてしまえば、姫ちゃんと少年も、危ないかもしれない。三日以内に会話をしているかもしれないんだ。駄目だ、先輩。頼むから、俺の言葉を、聞いてくれ」
「助けてえ、助けてよう」
先輩の力が強くなる。俺が抑えているのに完全に立ち上がってしまう。
だめだ、もうあの人の声しか聴いてない。窓に、行こうとしている。くそっ。小春の結界で、片方の耳は塞がれている。俺の方が、塞げてないんだ。
先輩の右手が何かに向けて伸ばされている。手を伸ばす先に、求めるものは何もない。空を切っているのに。
そこに、あの人はいないのに、熱量を伴わない甘やかな幻影でも見えているのか。
「先輩、先輩、俺の声を聞いて、惑わされないで、違うってわかってるだろ」
先輩の前に回り込み、抑え込む。窓はすぐそこ。もう、最終手段だ。
俺が見えていないかのように、突進していくので、こちらには好都合だ。
血はご法度。
狙うはボディのみ。
抑えこんだ時に先輩の腹具合は触って確認している。落ちてはいるが、筋肉のついた腹。つまり。
全力の一撃を無防備な腹に叩き込むっ!
「逃げてんじゃねえぞ、先輩っ」
かはっ、と先輩が戻した瞬間、小春が結界を移行して口元に張った。無言で意識のない先輩を担ぎ上げ、トイレに行き、流して顔を拭う。力技で落としてしまった。
先輩に俺の言葉は欠片も届かなかった。これは明日から大変だぞ。どうするか、明日は様子見でアパートに先輩を引き取るか?
トイレから戻って来ると、姫ちゃんと少年が起きていて、心配そうに先輩に寄って行った。
「無事?」「無事なの?これ」二人が囁きながら先輩を挟み込んで引っ付く。
仲良しの兄弟みたいで、和んでいくのが分かる。先輩には、俺よりも二人の方が良いのかもしれない。
もう離さないと言わんばかりに引っ付く二人に布団をかぶせる。そして笑顔で言い放った。
「お前ら、途中から狸寝入りだったろ?
いい加減、寝ろ。寝れないなら、寝かしてやるぞ?」
二人は即座に目を閉じる。眠れないだろうに、根は素直なのかな。
夜半の空気も冷え込んできた。
外ではまだあの人の声真似ショーが繰り広げられている。
少年の隣に腰を下ろし、小春に歌を教える。小学校の音楽で習うような、緩やかなメロディー。小春が少しずつ、覚えて歌う。
外のあの人の声を消せるほどの音量は無い。小さくポツリポツリと途切れ途切れに二人で歌う。
外のあの人の声真似は、少年と姫ちゃんの寝つきを、長い時間、邪魔していた。




