campus life 13
いつか、川島がしおりに忠告したはずだ。
オマエは無防備すぎるんだ、と。
そんなところも彼女らしくて嫌いじゃなかった。
あんな場面に出くわしてしまうまでは。
俺が手を離さない限り、彼女はずっとそばにいてくれるという自負はあった。
だけど、いつもどこか頼りなくて、目を離したすきに誰かにさらわれてしまうような不安も隣りあわせで。
それならいっそ、計算高くそんなふうを装ってくれたほうがマシなのに、そこまで器用なヒトじゃない。
だからこそ、好きになったのかもしれないけれど。
俺は抱きしめる腕の力を緩めて、彼女の髪に唇を寄せる。
「澤田さんは、今でも河合さんのことが好きなんだよ。別れたいって河合さんに言われてから、なんとかもう一度考え直してほしくて、俺たちの前だけでは、恋人同士を続けようなんて話を持ちかけたらしい」
そう長く、そんなおざなりな状況が続けられないこともわかっていたのだと。
それでも引き止めたかったのだと、澤田さんは泣いた。
「だから、河合さんがたとえしおりのことを好きだとしても、あきらめられないって泣き付かれたんだよ。それが、昨日の研究室での真実だ」
胸元から、しおりの丸いふたつの瞳がこっちを伺っている。
「信じてないのか?」
「そ、そんなことないっ」
「じゃあ、しおりのほうはどうなんだよ」
「え……?」
わざとらしく俺は押し黙ってしおりをじっと見つめた。
何を言われているのか、わかっているはずだ。
あの時、どこまで彼女の意識があったのかは定かじゃない。
それなら尚更、どこまで覚えているのか、知りたかった。
一度大きく瞳を見開いたあと、後ろめたさを隠せないと言わんばかりに瞼を伏せる。
俺だって、しおりと同じように拗ねて甘えたいけれど、お互いそれじゃ馬鹿らしい。
困って何も言えないのだろうとよくよく表情を覗けば、ただそれだけじゃないのか、ふと顔色が翳る。
「河合さんに好きだって言われたけど……でも、心の中では、遥さんのことを忘れるために私のことを好きにならなきゃって、なんだかすごく必死だった」
「あの時も、『聞こえた』のか?」
うんと頷くと、しおりは眉間に深く皺を寄せ、瞼を震わせた。
「河合さんだって、本当はきっとまだ遥さんのことが好きなのに……どうしてこんなことに」
もしかしたら、本人たちから直接話を聞いてきた俺より、しおりのほうが本当のことを知っているのかもしれない。
彼らが、彼ら自身でさえも気付けない、目を背けている本音を。
しおり、その涙は、誰のため?
ふと場違いな思いが浮かぶのは、昨日の出来事がまだ消化しきれないからだろうか。
いっそあの場所で彼に手を上げてしまえば、この感情はいくらか鎮まったのだろうか。
その涙の理由が、少しでも彼のためであるならば、誰よりも大切なはずの目の前にいる彼女を、滅茶苦茶にしてしまいたい衝動に駆られる。
でも残念ながら、今の俺にそんな気力も体力も残っていない。
それに、俺らしくもない。
肩を揺らして泣くしおりの頬の涙を拭うと、消化不良の感情が胸を締め付ける。
「昨日、どうしても澤田さんをひとりにするのは嫌だったんだ。あのひとの気が済むまで話を聞いて、そのあと家まで送った。川島から聞いたけど、河合さんがそのことについて何か言ってきたって?」
唇を尖らせたまま、しおりがこっちを向いた。
そして鼻をすすりながら頭をゆっくり上下に振る。
「遥さんから、伊吹がそばにいてくれるから、私は大丈夫ってメールがきたって……」
「確かに、間違いじゃないけど。でも、何もないよ。たぶん、澤田さんから河合さんへのあてつけだろうな」
まったく、巻き込まれたこっちはいい迷惑だ。
まだ半信半疑でいるふたつの瞳は赤く、瞼も腫れてたまま、黙って俺を捉えて離さない。
彼らのために、しおりのためにと話をつけてきたというのはただの体裁で、本当は俺自身があのことを無かったことにしたくて必死だっただけだ。
澤田さんをひとりにしてはまずいと思ったのは本当だし、でも、少しの時間を置かなければ、しおりの顔をまともに見れないと思ったのも事実だ。
こんな女々しいココロの声を、しおりは聞いているんだろうか。
いや、聞こえているならば、まだ何かを求めるようにじっと見つめることなんてできないはずだ。
「澤田さんを送ったあと、河合さんにも会って話を聞いてきた」
情けないなと笑ったのは、俺を部屋に入れてくれた時の一瞬で、彼も澤田さん以上に悩み苦しんでいるのが良くわかった。
むしろ、俺は迷って決断を下した河合さんの気持ちと、いつかの自分自身が重なった。
「しおりが聞いたように俺も、まだ河合さんは澤田さんのことが好きなんだと思うよ。でも、もう、彼女のそばで支えてあげる自信がないんだと言ってた。もちろん、本当に距離も離れてしまうからね」
あの時の、俺と同じ。
気持ちは変わっていないつもりでも、時間は過ぎて、決断を迫られる。
状況が変われば、今のままではいられないと不安になり、いっそ全てをリセットしてしまおうとする。
それがお互いのためだと、そう、決め込んで。
「でも、好きなら、距離なんて……」
「そうかも、しれない。だから、もう、ただそれだけのことじゃ、ないんだよ」
もしかしたら、己の『弱さ』が何もかもを駄目にしてしまったのかもしれない。
でも、もうすでに……ずっと前から気持ちは決まっていたんだ。
「距離が離れてしまうことや、環境が変わってしまうことは、きっかけにすぎなくて。本当はどこかで、もう一緒にはいられないんだって、自分の気持ちの変化に気付いていたはずだ」
「そんな……」
乾いたはずのしおりの瞳に、またうっすらと涙が浮かぶ。
「どうしようもできないことも、あるんだよ。ふたりとも前向きな未来を選んだ。決して悪い結末じゃない」
納得できないと言いたそうに唇を噛んで、涙が零れないうちに瞼を拭う。
その表情がにわかに歪んだ。
真っ直ぐにこっちを向いていたはずの視線を落とし、唇を結びなおすと小さく、言った。
「いつか……」
私たちも。
擦れ、震える声が、わずかに耳に届く。
深く息を吐きながら、俺はすかさずしおりを抱きしめた。
「そうなりたくないなら、もっと俺のこと愛して」
冗談ぽくなりすぎないように、でもあまり本気に聞こえないよう、彼女の耳元で囁く。
「俺は、だからしおりに同じ大学を受けさせたし、しおりもそれについて来てくれた。もちろん、これからもずっと一緒にいたいと思ってる」
だから、そんなこと言わないで。不安にならないで。
もっと、もっと、俺に全部曝け出して、甘えて。
言葉の代わりに、それよりももっと効果的に不安を打ち消すキスをする。
河合さんがしおりのことを好きだというのは、本気じゃないとしても嘘でもない。
それだけ惹きつける魅力があるということを、しおり自身、まだ気付いていない。
でも、どうか気付かないままでいて。
原石のまま、こうして俺の胸の中でだけ輝いてくれればいい。
キスした後の、蕩けそうな表情も、熱く甘い吐息も全て、いつまでも俺だけのものでいて。
不器用な彼女は、相変わらずほしい言葉をくれないけれど、細い腕がしがみつくように俺を抱きしめた。
今はただそれだけで、十分だ。
たまらずあのひとに、もう、しおりには近づかないでほしいなんて、俺らしくない台詞を言ってしまったのを思い出して、しおりを抱きしめながら苦笑した。