第1話:ちゃんとした妻でいれば、愛されると思っていた
「今日も遅くなる」
その一言で、今夜も“二人分の食卓”が一人になると分かった。
既読をつけたまま、朝倉澪はしばらく画面を見つめていた。
返信は、しない。
意味がないと分かっているから。
時計は二十一時五十分。
あと十分で、二十二時。
その時間を過ぎると、もう帰ってこない確率の方が高い。
キッチンに視線を向ける。
丁寧に作った料理は、すでに冷め始めていた。
味噌汁の湯気は消え、照り焼きの表面も少しだけ固くなっている。
(温め直せばいい)
そう思いながらも、ラップに手が伸びない。
(もしかしたら、帰ってくるかもしれない)
分かっている。
そんなことは、ほとんどない。
でも。
(待ってしまう)
それが習慣になっていた。
玄関の鍵が回る音がしたのは、二十二時を少し過ぎた頃だった。
「おかえりなさい」
自然に、声が出る。
「……ただいま」
返ってくる声は、平坦だった。
目は合わない。
スーツのまま、ネクタイを緩めながらリビングを横切る。
「ご飯、温めるね」
「軽めでいい」
それだけ。
会話は続かない。
それでも、澪は微笑んだ。
(疲れてるんだよね)
そう思うことで、納得してきた。
ずっと。
スマートフォンが震える。
テーブルの上。
画面に表示された名前。
凛花
その瞬間、恒一の動きが変わった。
「ごめん、ちょっと出る」
迷いなく、スマートフォンを手に取る。
「どうした?」
声が、やわらかい。
ドアの向こうで、会話が続く。
「大丈夫か?」
「無理すんなよ」
(……違う)
澪は、ゆっくりと目を伏せた。
(その声)
自分に向けられたことがない声だった。
(あんなふうに話すんだ)
知らなかった。
知ろうとしなかったのかもしれない。
(ちゃんとした妻でいれば)
そうすれば、いつか。
(ちゃんと愛される)
そう思っていた。
でも。
それが間違いだと気づくのは——
“あの日”だった。




