門を潜る
入学。
言祝ぐ声が絶えない門前。
漆塗りの大扉の前で、真新しい学生服の袖を通した子供が集っていた。
見送りに来た両親や使用人としばしば雑談する。そして互いの話が一区切りつくと、暇乞いを告げて門に向かった。
レギューム学園のある島の中央は常春。
旅立ちから、ずっと門を潜った初志を忘れないために島の中心に建てられたとさえ言われる。
そんな情緒豊かな所以すらある門の前に立つ。
エノクは肩かけ鞄を手に、黒い制服の袖を煩わしそうに払っていた。
ローブに近い仕様で袂や裾は大きく、船乗りの経験からか手作業に障りがありそうな余裕を持て余した着衣だ。菱形の頭頂と鍔の無い円筒の学帽は、正直に被っている意味さえ問いたくなる。
これからは船乗り見習いでなく、魔法使い見習いになるというのに。
まだ着馴れないとはいえ、序盤から先を憂う気持ちでいっぱいだった。
「仕方ないのじゃ」
「でもさ……」
「それが魔法使いの正装じゃからのぅ」
ベルソートがからからと困惑気味に笑った。
エノクは不満を垂れ流す自分の口を噤む。
志願したではないにせよ、魔法使いとしての道を歩むなら出だし、それも格好から文句ばかりでは学院生活なんて保たない。
落ち着けと諭すように、肩に軽い重味が乗る。
小柄になったレイナルが、学生服の黒い生地に着いた毛玉のように引っ付いていた。
「まさか、レイナルの大きさが変幻自在とは」
「ケティルノースは未だ謎が多いのじゃよ」
出会った当初、すなわち子猫の大きさになったレイナル。
懐かしさもあるが、これでも万軍を滅ぼせる兵器と同等となれば、もはや外観など脅威判定の分析材料にもならない。
もっとも、エノクからすれば可愛い猫である。
「普通にレイナルと一緒で良いのかな?」
「学園内でヌシの身分を表す手段じゃよ」
「うーん」
エノクは訝しげにベルソートを見た。
今見える老いた笑みは、また試験の前の助言と同じく、どこか韜晦を含んだ表情だった。
レイナルの鼻先を撫でつつ、鞄の肩紐を締め直す。着衣の襟をただし、深呼吸を繰り返す。
励ますように肩を叩くベルソートの隻腕に、不安を吹きはらう精一杯の笑顔で応えた。
「半年間、お世話になりました」
ベルソートが深く頷いた。
エノクは、これから生徒共通の学生寮で生活することになる。そうなれば、私生活でベルソートに出会うのは困難だ。
半年もの間、支えてくれた賢人の老翁には謝意を示さなくては失礼極まりない。どこか間が抜けていて、それでも処刑されるはずだったエノクを救いだした大恩人でもある。
レギューム島に保証人として、一応は滞在する。
会おうと思えば幾らでも面会可能だが、以前同様に付きっきりとはならない。
礼を言うなら、今しかない。
ベルソートが咳払いをする。
少し真剣味のある顔だが、赤らんだ頬に隠しきれない照れ臭さが滲んでいた。
「ヌシは学園内で、エノク・クロノスタシアと名告れ」
「何それ」
「ワシの姓じゃ」
エノクは思わず瞠目した。
まさか、家名を名告らなければならない日が来るとは。ただの漁村の出なのに、大魔法使いの家名を授かる己の奇縁に驚愕を通り越して感嘆する。
「ヌシは戸籍上、ワシの養子になっとる」
「え……何で?」
「……そうせねばならんのじゃ」
いつの間に――そんな声を飲んだ。
ベルソートが神妙な面持ちになったからだ。
平民の息子の肩書きでも構わない。けれど、それを許さない事情があっての判断だと察した。
村に……家族に何かがあったのだろうか。
勘繰る心を読んでか、ベルソートは手を伸ばしてエノクの頭を撫でた。
「ヌシは前を向いて歩け」
「……うん」
「それと、学校とは別にこれを勉強せい」
ベルソートが指を小さく虚空にふるう。
すると空中に小さな一瞬の閃光の後、一冊の厚い書物が出現した。
慌てて受け取るエノクは、腕に乗る意外な重量に小さく悲鳴を漏らす。漁で使う網よりも重く、その時点で尋常な書とは思えないと感じた。
「一応、クロノスタシアじゃからな」
「え?は、はあ」
「ほれ、早く行かんか」
長い髭をさすりながらベルソートが微笑む。
エノクは改めて、背筋を正した。
「いってきます」
「頑張るのじゃぞ」
――がうっ!
エノクの代わりに、レイナルが吼えた。
近辺で別れを惜しんでいた面々が振り返って視線が殺到する。さしものベルソートも驚いていた。
エノクは慌てて門に向かって走った。
近づいてくる漆塗りの大扉に気圧されながらも、後ろで見送るベルソートの気配に手を振った。
次。