夢
真っ白な世界が広がっている。肌寒く、無意識に腕を擦った。霞に近い小雨が、音もなく降る。シオンが辺りを見回しても、白い世界が延々と続いている。
「どこだっけ、ここ……?」
見覚えがある気がした。欠けた記憶の一部だろうか。
シオンはゆっくりと歩き出す。何かないかと、白の世界に目を凝らした。けれども、いくら歩いても、歩いても、何も見つからない。
「もしかして、死んだ……?」
ふと思い当る。尋常でない眠気であったが、自分の知らない内に何か起きていたのかもしれない。シオンは腕を組む。
だとしたら困ったものだ。まだ何も分かっていない。スフェノスの目的も。自分のことも。何も分からないままぽっくり逝くのは、いささか納得いかなかった。
何より、スフェノスが心配だ。連れて行かれただけでも怒っていたのに、死んだとなればどうなってしまうのか。こうも安易に死んではいられない。きっとアーネスが大変なことになってしまう。
シオンは頭を振る。しかしどうすれば、この霧から抜け出せるのだろうか。
耳を澄ましても、聞こえるのは雨音ばかり。
「……?」
シオンは足を止める。音もなく降っていたはずの小雨の奥から、それとは別の、激しい雨音が聞こえてきていた。
振り返り、元来た白い世界に戻る。しばらく歩くと、温度のない雨粒が頬を伝った。霧が晴れるに連れて、代わりに雨脚が強まる。しだいに雨粒は、緑の葉が茂った木々の枝を揺らすほどに、激しさを増す。
シオンは森の中にいた。太い針葉樹が並ぶ、薄暗い森だった。足もとの地面は柔らかな苔に覆われ、シオンの足を包む。
雨音が響く森は、やけに懐かしい。
森がひらけると、そこには一面、花が咲いていた。紫の花が咲くその空間は、木々が避けるようにひらけている。紫の花は激しい雨に打たれて揺れていた。小さな丸い花弁が、地面に落ちていく。
「……スフェノス」
彼はひとり。その紫の絨毯に立ち尽くしていた。金糸の長い髪は体に張り付き。雨水が絶え間なくしたたり落ちる。どこか遠くを眺めて、動かない人形。
彼にはシオンの声が聞こえていないらしい。代わりにスフェノスが力なく応答したのは、森の暗がりから、彼の名を呼ぶ男の声だった。
シオンがそちらへ視線をやるも、男の顔はよく見えない。黒い長髪だけが、雨の中をたゆたう。
「戻るぞ、スフェノス」
「……ぼくは、まだ。ここに、いる」
たどたどしい口調で、スフェノスは男に頭を振った。
「あるじが、かえるまで。ここ、いる」
「フューカスは帰らない」
「フューカスは、うそつく、ない」
「はからずして嘘になってしまう言葉もある」
「らどらどる、の、ことば。まだ、むずかしい」
「そうだな。お前にはまだ、難しいかもしれぬ」
花を揺らして、男はスフェノスの隣へ歩み寄る。空を見つめ続けるスフェノスの頬を拭い、男は声を和らげた。
「待つのは屋敷でもできるだろう」
「でも、はな。さくころに、もどるって。いっていた」
「季節は何度も廻るものだ。俺もお前も、フューカスからそう教わった」
「……つぎの、はな。かも、しれない?」
「季節は幾度も廻る。花はその度に咲く。俺たちの務めは、それを見守ること。そのために、俺たちに与えられた命は長い」
「だから、ぼくも、いつまでも。フューカス、まてる」
「そうだな」
スフェノスは覚束ない足取りで歩く。そこには自信に満ちた彼の面影はない。
寂しそうにトボトボと。背中を丸めて。足もとを見つめて。まるで――
「アレは未だ、子どものままだ」
「…………」
背を向けたまま、男が話し出す。シオンはスフェノスの背を眺めたまま、彼の声に耳を傾けた。男の声には抑揚がない。けれども、温かみを感じる。
「傾玉は決して、中身と外見が比例している訳ではない。あくまで、人間に似せて創られているだけのこと」
「……スフェノスは、フューカスさんが、帰ってくると思っているんでしょうか?」
「理解と受諾は別の話しだ。理解はとうにしている。だが、受け入れるだけの容量が、アレには備わっていない。俺には、教えることができなかった」
「どうして、私に?」
「アレは傾玉として務めを果たせるまでの域に達していない。アレに非はなくとも、それは事実だ」
「だから……?」
「お前はそこにいるべきではない。スフェノスもまた、そこに在るべきではない。これまでの心遣いには感謝するが、お前はお前のことだけを考えてほしい」
振り返った男には、顔が無かった。黒い長髪に見えていたものは影となり、黒い霞となって漂う。かろうじて人の形を縁取っていた霞は、形を失い、雨に溶けていく。
「スフェノスがお前に自ら真実を明かすことはないだろう。それでも、お前はアレを信じるのか」
「私……」
シオンは足元の花を見下ろす。よく見れば、花は激しい雨に、花弁のほとんどを散らしていた。
視界には再び霧がかかり始めた。黒い霞は白に呑まれていく。
重くなるまぶたに従い、シオンは夢の中で目を閉ざした。
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雨音がする。耳について、離れない。
シオンは目を開いた。ぼやけていた景色が輪郭を取り戻していく。
「おはよう、シオン」
「…………」
首を横へやれば、目尻に溜まっていた雫が重力に従って落ちていく。
視線が交わると、碧眼が細くなる。いつかの時のように、金糸の髪が日の光に煌めいていた。残念ながら、カーテンは閉め切られている。
「僕がわかる?」
「……スフェノス」
頷くシオン。スフェノスは長い息を吐き出した。冷たい両手が、シオンの右手を包んでいる。ずっと握っていたのか、シオンの手の平だけは心地よい温度を保っている。
「気分は……あまり良さそうでは、ないね」
「……寂しいですか?」
「え……?」
シオンはスフェノスを見上げる。スフェノスは目を瞬いた。透き通る碧の瞳を見つめ、シオンは再度、問いかける。
「いま、寂しいですか?」
「シオンがいなくなってしまうのは、嫌だな」
「私でなくて、フューカスさんが、いなくて」
「…………」
スフェノスは無言でシオンの頬を拭う。冷たい指が目じりを冷ましてくれた。
「あの人は、君と関係ないよ」
「返事になっていません。ずっと待っていたんでしょう?」
「僕の記憶を見たんだね……。そう、ずっと待っていた。でも、あの人は帰ってこない」
スフェノスは自身から彼女の手を解いた。シオンは体を起こす。他に人影はなく、スフェノスだけが彼女の傍らに座っていた。
シオンは伏せられた碧眼を見つめる。
「私は、フューカスさんの代わりになれません」
「分かっているよ。君は君。あのヒトは、あのヒト。分かっている……」
自身に言い聞かせるように、スフェノスは頷く。
「僕は人間でないから……。今の僕のこの感情が、君たちの言う寂しさだと、確証は持てない。でも、恐らく……僕は、寂しいのだと、思う」
言葉を切って、スフェノスは躊躇いがちに続けた。
「どうしようもなく、虚しくて。息苦しくて。口にはしきれない、色々なものに呑み込まれて、その内に僕は内側から砕けるんだろう」
「内側から、砕ける……?」
「ああ、いや……物の例えだよ。内側から壊れはするだろうけどね」
彼は自嘲気味に微笑む。
「君の言う通り。僕はずっと以前の主を待ち続けていた。それが全くの無関係でない、とも言い切れない。けれど、僕が君に尽くしたいと言う気持ちに、変わりはないよ」
「理由を、教えてくれませんか」
「今はできない。そして僕は、可能な限りその理由を、君に教えたくはない」
「それでは、あなたを心から信頼するのは難しいです」
「そうだね。君から恨まれても、憎まれても、仕方ない」
膝をつき、すくったシオンの指先へ穏やかに口づける。
「それでも、僕は君を守り続けるよ。僕が砕けるか、消えてしまうまで」
いつかと同じ誓いにも、指先に触れた唇にも、温度はない。
シオンはそっと、冷たい手から指を離した。
「あなたが私を守っているつもりでも、私にはそう感じられないかもしれない」
「僕は人間でないからね。その可能性も、大いにあり得る」
「否定も、しないんですね」
「僕が守れるのは、君の肉体的な面だけだ。そこも理解している。でも、生きていてくれさえすれば、その先がある。だから僕は、主である君の身体の安全を、全てにおいて優先するよ」
「ご主人様は私なのに、それじゃあ、どっちがご主人様なのか、分かりませんね……」
アーネスの話しを思い出し、シオンは苦笑する。
カーテンに遮られた窓の外では、雨粒が窓を叩いている様子だった。




