新しい生活
「エウラリア先生、こっち!」
朝食の片づけを終えて皿洗いに移ろうとしていた私の手を、小さな手がぎゅっと握った。
振り返ると、そこには瞳をきらきらさせながら私を見上げている女の子が立っている。名前はナナ、六歳だと教えてもらった。初めて会った時から人懐っこく、私が院内を歩いていると雛のように後をついてきてくれる。
「どうしたの、ナナ」
「あのね。お庭にね、お花が咲いたの! 昨日はまだつぼみだったのに、今日は開いたのよ。エウラリア先生にも見せてあげる」
「まあ、それは見せてもらわなくてはね。でも、先生は今、お皿を片づけているところなの。もう少しだけ待っていてくれる?」
「じゃあ、わたしもお手伝いする!」
そう言うと、ナナは私の手元にある皿を持ち上げようとした。しかしまだ幼い彼女の手には重かったらしく、皿が傾きかけたところを慌てて支える。
「ありがとう。でも、これは重いものだから、ナナにはこちらをお願いしようかしら」
私は、水を含ませた布をナナに手渡した。
「これで机を拭いてくれる? ナナが手伝ってくれたら、きっと食堂がぴかぴかになるわ」
「うん!」
嬉しそうに返事をした彼女は、小さな手で布を広げて机を一生懸命に拭き始めた。同じところを何度も往復しているけれど、その真剣な横顔を見ていると頬が緩んでしまう。
こうして子どもたちと過ごすようになってから、早いことで数日が経った。この生活は、思っていた以上に忙しくて、驚くほどに楽しい。公爵家でしていた仕事と似た部分はあるけれど、あの時は私が公爵夫人として果たすべき役割という枠に囚われていて、窮屈だった。でも今は、とても楽しい。
「先生、拭けた!」
「本当ね。ナナのおかげでとても綺麗になったわ」
「じゃあ、お庭に行こう!」
「ええ、そうね」
皿洗いを終えたので、ナナの手を取って食堂を出る。すると、廊下の壁際に座り込んでいた男の子と目が合った。彼はニルス、八歳の少年だ。年齢の割に落ち着いているというか、少々警戒心が強い。初めて彼を見た時も私をじっと観察していたし、こちらから話しかけても必要最低限しか答えてくれない。
今も彼は、膝の上に開いた本を置いたまま、こちらの様子を窺っている。
「ニルス、おはよう。今日は何を読んでいるの?」
「本」
「それは見れば分かるわね。面白いお話なの?」
「……冒険の話。遠くの国に行って、宝物を探す話」
「素敵ね。私も冒険のお話が大好きなの。どんな宝物が出てくるのか、後で教えてくれる?」
ニルスは目を逸らすと、小さく頷いた。すぐに本へ視線を戻してしまったけれど、その耳がほんの少し赤くなっているのを私は見逃さなかった。可愛い子だ。
その先では、十歳の少年であるティロが椅子の上に立って窓の外を覗き込んでいた。彼は時折いたずらをしては院の先生たちに叱られているらしい。今は何か興味深いものを見つけたのか、窓枠に手をかけて身を乗り出そうとしていた。
「ティロ、そんなところに立ったら危ないわよ」
「大丈夫だよ。ほら見て、あそこに鳥の巣があるんだ!」
「本当ね。でも、巣を見たいなら椅子から降りて、木の近くに行きましょう。落ちてしまっては危ないわ」
「でも、あそこに小さな鳥がいるんだ。昨日はいなかったのに!」
「それなら、なおさら驚かさないようにしてあげないと」
ティロは少し不満そうに口を尖らせながらも、椅子から降りてくれた。こうして見ると、子どもたちは本当にそれぞれ違っている。ナナは何でも一緒にしたがり、ニルスは慎重で、ティロは好奇心が先に立つ。まだあって間もないのに、ずいぶん前から知り合いだったのかと思うほどに彼らに詳しくなりつつあり、もっと知りたいと思っている。
ナナと手を繋ぎながら庭に出ると、彼女は花壇の前でしゃがみ込んだ。
「ほら、これ!」
指が示す先には、黄色の小さな花が咲いていた。花びらは開き切っていないけれど、陽の光を受けて明るい色をしている。
「とても綺麗ね。昨日はつぼみだったの?」
「うん! 昨日はね、まだぎゅって閉じてたの。咲いてるのを見つけて、先生にも教えてあげたかったの」
「ありがとう。ナナが教えてくれたから、私もこんなに素敵な花を見られたわ」
そう言うと、彼女は得意そうに胸を張った。
「また咲いたら教えてあげるね!」
「楽しみにしているわ」
それからも色とりどりの花を見て笑い合っていると、庭の入口からエルノが歩いてくるのが見えた。彼は院長のルディエ様と施設の周囲を確認していたらしく、片手には紙を持っている。
私に気がついた彼は、こちらへ近づいてきた。
「エウラリア、少しよろしいですか。院長から、施設の帳簿を見てほしいと頼まれました」
「それは私に任せてちょうだい。私にできることなら何でも手伝いたいわ」
「流石です」
優しく微笑んだ彼は、私に小さな籠を差し出した。中にはパンとミルクの瓶が入っている。
「朝から働き詰めでしょう。朝食もゆっくり取れていなかったようですから、どうかこちらを食べてください」
「あら。ありがとう」
私も笑みを浮かべ、ありがたくそれを受け取った。
エルノは幼い頃から、こうして私のことを気にかけてくれている。護衛としてそばにいてくれた彼は、私が疲れている時やちょっと無理をしている時にもすぐに気づいて、さりげなく手を差し伸べてくれるのだ。
「エルノ。あなたがいてくれて、本当に助かっているわ」
「俺にできることをしているだけです」
「それでもよ。ここに来てからも、来る前からも、あなたには何度も助けてもらっているもの」
「これからも遠慮なく頼ってくださいね」
にこにこと笑い合っていると、ナナが興味津々といった様子で籠を覗き込んだ。
「これ、パン? おいしそう」
「ええ、そうね。ナナも一緒に食べる?」
「いいの?」
「もちろんよ。一緒に食べたらもっと美味しくなるわ」
どこかで腰を下ろして食べようと思っていると、ティロがいつの間にかエルノの隣に来ていた。
「騎士さま、その剣って本物?」
「本物ですよ。危ないので触らないでくださいね」
「どうして? ちょっとだけならいいじゃんか」
「鞘に入っているとはいえ、刃物はちょっとだけでも扱いを間違えれば怪我をします。興味があるなら、今度刃のない練習用の剣をお持ちしましょう」
「本当? 約束だよ!」
「ええ。約束です」
ティロは嬉しそうに飛び跳ね、窓からこちらの様子を窺っていたニルスの手を引いて連れて来た。どうやらニルスも興味があるらしい。エルノは二人の様子に目を細めると、ニルスにも声をかけている。
その光景を眺めていると、胸がぽかぽかとあたたかくなった。
ああ、もっと早く決意していればよかった。子どもを望んでいると伝えた時にカシアン様が聞く耳を持ってくれなかった時点で、自分の人生を選び直してもよかったのだ。いつか変わるかもしれないという期待にしがみついて、私はずいぶん長い時間を費やしてしまったな。
けれど、過ぎた時間を悔やんでも仕方がない。これからの生活を大切にしていこう。
「エウラリア、どうかしましたか?」
気づけば、エルノがこちらを見ていた。
「ううん、何でもないわ。ただ、ここに来て良かったと思って。こんなに毎日が楽しいなんて、忘れていたみたい」
「これからいくらでも楽しめますよ。急ぐ必要はありません」
その言葉に、私は頷いた。




