もう十分です
「しばらくの間、彼女をこの屋敷で保護することにした」
夕食後、夫のカシアン様がそう告げた時、私は手に持っていたカップを落としてしまうかと思った。
呆然とする私に目を向けることもなく、彼は一人の女性を連れて来た。年齢は私より少し若いだろうか。彼女は私の視線に気がつくと、まるで親しい友人にでも会ったかのようにふわりと微笑んだ。
「初めまして、奥様。リリスと申します。突然お邪魔してしまって、本当に申し訳ありません」
「……初めまして。エウラリアです」
名乗り返さなくても良いかと思ったけれど、カシアン様がいる手前、大人げない行為は避けるべきだと冷静に考えてしまう。私の態度に満足したのか、彼は話を続けた。
「彼女は少々事情があって、身を寄せる場所を必要としている。家族との間に問題があり、今の住まいにも戻れないそうだ」
だから、彼女を屋敷で保護する、ということだろうか。彼の声には迷いも後ろめたさもなく、むしろ自分が善意から行動しているということを理解しろと言わんばかりの期待さえ滲んでいる。
「保護、ですか」
「ああ。彼女には他に頼れる者がいない。放っておくわけにもいかないだろう。エウラリア、お前には不便をかけるかもしれないが理解してほしい」
私はカシアン様を見つめた。彼は三十を過ぎてもなお人目を引く容姿をしている。現在はどうであれ、昔は公爵としての責務を果たし、確かな地位を築いてきた人であり、そんな彼を尊敬していた時期もあった。だが、今はただ、目の前にいる男性がひどく遠い人のように思える。
「カシアン様。こちらの方は、今後どちらのお部屋をお使いになるのでしょう?」
「客室を用意してある。食事や身の回りのことは、すべて侍女達に任せる」
そう言ってから、カシアン様は女性へと目を向けた。私に向ける時とは違う、優しい眼差しだ。
「リリス。何か必要なものがあれば遠慮なく言うといい。ここでは不自由をさせない」
「まあ、カシアン様はとてもお優しいのですね。わたくし、こんなに立派なお屋敷で過ごせるなんて、嬉しいです」
女性——リリスは頬を染め、それから困ったように眉を下げた。
「ですが、奥様に申し訳ないです。大切なお二人のお時間を邪魔してしまいますものね。わたくし、できるだけお邪魔しないようにしますから」
「君が気にする必要はないことだよ」
それらの言葉を聞いて、私の心は完全に冷えてしまった。
大切な二人の時間を邪魔しないようにするだなんて……ずいぶんとよくできた言葉を並べるものだ。カシアン様の隣に当然のように寄り添って、彼の名前を親しげに呼んで、彼から向けられる優しい眼差しを受け取っているのは、彼女だろうに。
「……リリス様。失礼ですが、カシアン様とは以前から親しくしていらしたのですか?」
自然を装って尋ねてみると、リリスの瞳が一瞬揺れた。動揺したのかと思ったが、違うようだ。どうやら彼女は、この質問を待っていたらしい。
「ええ。カシアン様には、以前から何かと気にかけていただいておりました。わたくしのような者にも分け隔てなく接してくださる、素晴らしいお方です。奥様もご存じでしょう? カシアン様はとてもお優しい方ですもの」
彼女はそう言って、隣の夫を見上げた。その視線に応えるように、カシアン様は小さく微笑む。
それを見て、私は確信した。彼女は保護する必要がある女性などではない。ただ単に、カシアン様がそばに置いておきたい女性なのだと。
「……カシアン様。こういったお話は、前もってお伝えしていただきたいと存じます。この方を屋敷に迎えるにあたって、私たちの結婚についても考えるべきかと」
「どういう意味だ?」
「私たちは夫婦です。公爵家の屋敷に、夫が親しくしている女性を住まわせるのであれば、少しくらい妻の気持ちを考えてくださってもよいのではありませんか」
「親しくしているというだけで、妙な誤解をしないでくれ。彼女が困っていたから助ける、それだけのことだ」
「私の気持ちは考慮する必要がないということですか?」
「エウラリア。お前は少し感情的になっている。彼女には事情があるのだから、今は落ち着いて受け入れてくれればいい」
何が、落ち着いて受け入れてくれだ。思わず笑いそうになった。
いつだってそうだ。カシアン様が私に何かを求める時は、いつだって一方的だ。公爵夫人としての仕事を頼む時も、晩餐会に出席させるときも、領地から届く報告書の整理を任せる時も、私が引き受ける以外の選択を出してくれない。
私は最初、夫婦とはそういうものなのだと思って受け入れていた。結婚したばかりの頃、カシアン様は仕事に追われていて、私たちの間には恋人同士のような時間はほとんどなかった。それでも、いつか変わっていくのだと信じていた。政略結婚であっても、私が彼を理解し、彼の負担を減らし、彼にとって居心地のよい家庭を整えていれば、いつか彼も私を妻として見てくれるようになるのではないかと。
子どもだって……。私がかつて、子どもが欲しいと伝えた時、まだ早いと一蹴された。公爵家の後継ぎは必要だが、子を育てる環境を整えるには時間がかかる。急ぐ必要はないだろう、と。私はその言葉を受け入れて、いつか二人で子どもの名前を考え、どんな家庭を築きたいかを話せる日が来るかもしれない、という願いを抱き続けた。
私たちの関係に違和感を覚えながらも、わたしは彼と夫婦でいることを選んだ。五年も彼に尽くしてきたのだからここで投げ出すのは惜しいという気持ちもあったし、結婚を決めた両親や私を送り出した人たちの顔を思えば、簡単に離婚を口にすることもできなかった。そういった理由もあるけれど、やはり一番は、カシアン様がいつか私を見てくれるのではないかという頼りない期待を捨てられなかったからだろう。
そして、結婚して五年目の今。あまりにも遅いけれど、わたしはようやく理解した。
カシアン様は、私のことを愛するつもりなど一切なかったのだ。
「エウラリア、聞いているのか?」
彼の声に、私は意識を目の前に戻す。相変わらず、視界には夫と夫が愛しているであろう女が並んでいる。
「彼女を屋敷に置くことは、もう決めたことだ。お前に許可を求めているわけではないが、無用な騒ぎを起こしたくはないからな」
——その言葉を聞いて、私の中で何かがぷつりと切れた。
「分かりました」
「理解してくれたか」
「ええ。よく分かりました」
私は椅子から立ち上がり、膝の上に置いていたナプキンを畳んでテーブルに置く。
「それでは、私は失礼いたします」
「待て。まだ話は終わっていない」
「申し訳ありません。少し疲れてしまいましたので」
「エウラリア、お前は本当に……」
夫の声を背中に受けながら、私は足早に食堂を出た。
自室に戻って、扉を閉める。しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてぼんやりとしたまま窓辺に近づいた。
……ここで過ごした五年間、私はこの屋敷を自分の家だと思えるように努力してきた。私だけでなく、使用人やカシアン様が過ごしやすいように、気を配ってきたつもりだ。けれど私が守ろうとしていた家庭には、最初から私一人しかいなかったのかもしれない。
窓辺から離れて机の引き出しを開ける。奥にしまっていた小さな箱を取り出して見ると、今はもうお互いに付けることのなくなった指輪が入っている。その他には、私自身の名義で管理している財産の書類や、それから、いつか子どもができたら読んであげたいと思っていた絵本の題名を書き留めた紙が入っている。
私はそれをしばらく眺めて、大きく息を吐いた。もう、ここで夢を待ち続ける必要はない。
「エルノを呼んでちょうだい」
部屋を出て扉の前で控えていた侍女にそう伝えると、侍女は驚いたようにこちらを見た。
「今すぐにでございますか?」
「ええ。できるだけ早くお願い」
侍女が廊下の向こうへ小走りに去るのを確認してから、旅行鞄を取り出す。何を持っていくべきか考えたけれど、思いのほか荷物は少なかった。衣服と身の回りの品、母から譲られた装飾品、そして自分の財産に関する書類。公爵夫人として集めた品々は、ほとんどをこの屋敷に残していこうと思う。
絵本の題名を書いた紙を持っていくか捨てるかを考えていた時、扉を叩く音がした。
「エウラリア様、エルノです」
「入って」
扉を開けて入ってきたのは、騎士服姿をした青年だ。彼は私の専属護衛騎士であり、幼馴染でもある。
彼は私の旅行鞄を見ると、すぐに何かを察したのか目を細めた。
「何かあったのですか」
「ええ。カシアン様が、女性を屋敷に連れていらしたの。身寄りがなくて、保護する必要があるのですって」
平静を装いながら準備を続ける。エルノは何も言わなかったが、彼が何を考えているのかは大体わかった。おそらく、彼も私と同じことを思っただろう。公爵家が保護すべき人間なら、もっと別の方法もあっただろう。わざわざカシアン様が自分のそばに据え置かせるなんて、それはもう愛人であると公言しているようなものだ、と。
「エルノ。私、ここを出ようと思うの」
「……それは、離縁するということですか」
「そうよ」
離縁する。その言葉をエルノの口から聞いたことで、私はようやく大きなものを背中から振り落とすことができたような気がした。
「今まではずっと、いつか変わると思っていたの。私が努力していれば、いつかカシアン様も私のことを見てくださるのではないかと。でも、もういいわ。これ以上、私の人生をあの方の都合に合わせる必要はないでしょう?」
エルノはしばらく私を見つめ、それから恭しく頭を下げた。
「承知しました。僭越ながら、私もお供致します。行き先は決めておられますか?」
「まだ、具体的には考えていないわ。でも、王都を離れたいと思っているの。そうね……できれば、子どもたちと関われる場所がいいわ」
「それでは、あの孤児院はいかがでしょう? エウラリア様が幼い頃、お祖母様と一緒によく訪れていらした」
……そうだ。確かに、そこがいいかもしれない。彼の言う孤児院は、私が幼い頃、母方の祖母に連れられて訪れた小さな施設のことである。そこで子どもたちと一緒に絵本を読んだり、お菓子を作ったりして過ごすのが好きだった。孤児院で働くお姉さまたちに憧れて、いつか自分も、あんな風に子どもたちの笑顔に囲まれた暮らしがしたいと、何度もエルノに話していた。
結婚してからは、一度もその話をしなくなったのだけれど。
「受け入れてもらえるかは分からないけれど、行ってみる価値はあるわね」
「でしたら、そこへ参りましょう。馬車の手配は私がします。明朝には発てるようにしておきます」
「ありがとう、エルノ」
「礼には及びません。私はずっと、あなたの望む場所へ行けるようにお手伝いをしたかったのですから」
エルノの微笑みを見ていると、自然と頬が緩む。彼がいてくれてよかった。私一人だったら、決心がつかなかったかもしれないから。
私は旅行鞄の留め具を閉じて、部屋の灯りをひとつ消した。
「エルノ。ここを発ったら、私のことはエウラリアと呼んでちょうだい。もう公爵夫人ではなくなるのだから」
そう言うと、彼は目を丸くして、それからいつものように穏やかな表情で頷いた。




