32話 友情の亀裂
「また、呼んでぇな」
そう言って手を振るアンナと絵梨の背中を見送りながら、俺は深く、重いため息を吐き出した。
これが彼女たちへの、文字通り最後となる依頼だ。仲間の成長を喜びたい気持ちと、破格の依頼料を払えなくなった惨めさが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
(これで、三階層に潜るあては渋川さんだけか……)
渋川さんとの探索は週に一度。それ以外に三階層へ挑む手段を、今の俺は持っていない。
かといって、二階層をソロでちまちまと回っていては、レベルアップにどれほどの月日を費やすか分かったもんじゃない。
結局のところ、すべては金がないのが悪いのだ。金さえあれば、有能なサポーターを雇い続け、効率よく経験値を稼げたはずなのに。
「……こうなったら、バイトのシフトを増やすしかないな」
俺は駅前の雑踏の中で、誰にも見えないように拳を固く握りしめた。
今の俺に残された道は、文字通り泥臭く働くことだけだ。
ソロでダンジョンの二階層に潜る日にも、容赦なく深夜バイトや早朝の荷運びをねじ込む。
昼間は工事現場で泥にまみれて汗を流し、夜になれば神経を研ぎ澄ませて迷宮の暗がりで魔物と対峙する。
……そう、世に言う「ダブルワーク」ってやつだ。週五日の探索と週七日のバイトという、文字通り過労死ラインを全力で反復横跳びするような日々。
移動時間や装備の手入れを含めれば、一日の稼働時間は十六時間を軽く超えていた。
まさに地獄の二階建てスケジュール。ブラック企業の社畜だって、もう少しマシだろうよ。
(マジで死ぬ。これ、いつか過労でダンジョンの肥やしになるぞ……。でも、今ここで足を止めたら、俺の人生は完全に詰むんだ……!)
喉の奥からせり上がる弱音を、安物のエナジードリンクと一緒に無理やり飲み込む。
俺には《過去改変》という、運命をひっくり返すための切り札がある。
その発動条件を満たすために、今は自分を極限まで追い込むしかなかった。
そんなある夜のことだ。ボロボロになってアパートに帰り、新しく買い替えた冷蔵庫から出した水と、ふりかけご飯だけの侘しい夕食を口に運んでいた時、スマートフォンが激しく震えた。
画面に表示された名前は千葉だ。
中学からの腐れ縁で、変わらず連絡をくれる数少ない友人だ。
「……もしもし、千葉か」
『お、ヒロか。夜遅くに悪いな』
千葉の声は、いつになく低く、元気がなかった。
彼は大学を卒業後、市内のベンチャーゲーム会社に入社した、俺からすれば「勝ち組」のはずだった。
だが、例の世界同時多発スタンピード――魔物の群れが街を襲ったあのパンデミック以降、エンタメ業界はどこも火の車らしい。
人々に心の余裕がなくなれば、真っ先に削られるのは娯楽である。
『いやさ、うちの新作ゲームが爆死しちまってな。冬のボーナスがヤバいんだよ。マジで笑えねえよ』
「……贅沢言うなよ。こっちは固定給さえねえんだぞ。自慢か?」
俺の言葉には、自分でも驚くほど鋭い棘があった。
心に余裕がないのは、俺の方も同じだった。
『自慢なわけねーだろ。本当に金欠で困ってんだよ。それでさ、頼みがあるんだけど……一緒にダンジョンに行ってくれないか?』
「は? お前、まさか探索者になるつもりか?」
『いや、そんな大層なもんじゃない。ただ、万が一に備えてレベルを上げときたくてな。もしかすると、来年にはうちの会社も危ないかもしれん。最低限、自分の身を守れる力が欲しいんだよ』
千葉の言い分は、理屈では分からなくもない。
だが、今の俺に素人を介護しながら潜る余裕なんて、一分一秒たりとも存在しなかった。
「お前と一緒に行くとしたら、せいぜい二階層だぞ。悪いけど、今は二階層ならソロで回ったほうが効率がいいんだ。二人で行くと経験値も報酬も山分けで半減するだろ。今の俺には、そんな無駄遣いをしてる暇はないんだ。……ちょっと無理だわ」
俺の冷淡な拒絶に、電話越しの空気が一瞬で凍りついたのが分かった。
『……なんでだよ。お前がニートしてた時も、探索者になって底辺で這いつくばってた時も、俺はずっと相談に乗ってやっただろ。俺が困ってる時に、それくらい手伝ってくれたっていいじゃないか!』
千葉の声が怒りに震え始める。
その怒りは正論だった。正論だからこそ、今の俺には毒のように突き刺さる。
「それは感謝してるよ! でもな、今の俺は生活がかかってんだ。一分一秒が惜しいんだよ。お前の《過去改変》の秘密だって守ってやってるだろ、とか恩着せがましいこと言うなよ!」
『そんなこと言ってねえだろ! お前、最近変わったよ。金、金、効率、効率って……そんなに金が大事かよ!』
「大事だよ! 金がなきゃ装備も買えない、有能なサポーターも雇えない、効率的に探索ができないんだよ!」
俺は受話器に向かって叫んでいた。
金がなければ探索が滞る。探索が滞れば、《過去改変》のスキルランクが上がらない。
そうなれば、過去に戻って死んだ家族を救うことだってできないかもしれないんだ。
せっかく人生をやり直せる、運命を書き換えられるチャンスを掴んだと思ったのに。
「俺には、これしかないんだよ……!」
かつての友情が、乾いた音を立てて崩れ落ちていくのが聞こえた。
『……分かったよ。もういい。お前なんかに頼った俺が馬鹿だった』
ツッ、ツッ、ツッ……。
一方的に通話が切れた。静まり返った自室に、自分の荒い呼吸と、古びた換気扇の回る音だけが虚しく響く。
俺はスマートフォンを床に放り出し、そのまま布団に倒れ込んだ。
目尻に熱いものが込み上げてきたが、それを拭う気力さえ残っていない。
ただ、真っ暗な天井を見つめながら、俺は言いようのない孤独感を噛みしめていた。
二章完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語としてはまだ序章で、文章も稚拙ではありますが、頑張りたいと思います。
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