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空の器  作者: 相田 來生
第二章 極限
17/29

16.過去 ※<R15>表現あり

<R15>

一部多少の虐待・暴力的表現・流血表現がございます。苦手な方、15歳未満の方は閲覧しないでください。


 16


 幸広は元々「河村冥」という名前だった。生まれる前に父親は蒸発し、その父親に依存していた母親は心を病み、身籠っていた子どもを下ろそうとしていた。だが周りに反対され、望まない子どもを出産した。だが産んでみると自分の腹から出てきた子どもが少しは可愛いと思えたのか、育てる決意をした。しかしその子どもに「冥」などと名付ける時点でその傾向はあったのかもしれない。

 母親の河村洋子は我が子、冥を虐待していた。蒸発した父親のことを思い出しては生まれたばかりの冥に暴言や暴力を与え、直後それを後悔して嘘のように涙を流すということを繰り返していた。

 そして洋子は新しい男に出会った。幸田豊だ。

 二人の関係が上手くいっている間は冥は幸せだった。暴力もなく、食事も十分に与えられた。だが一度ケンカが始まると、必ず二人して冥を殴りつける日々が続いた。

 冥が誕生して三年、新しい命が宿った。妹の結だ。洋子は豊と結婚し、結が一番の宝物となった。そして冥の名前も「幸田冥」に変わり、冥にとっての地獄が始まった。

 これまでは優しい時もあった洋子は結が生まれてからは冥には一切目もくれなくなり、イライラした時に蹴り飛ばされるだけだった。日に一度だけ残飯のような食べ物を床にばら撒かれ、冥はそれを拾って食べた。その頃の冥の体重は通常の同年代の子どもの半分以下で体はほぼ骨と皮となり、生きていること自体が奇跡だった。その頃から冥は顔に表情を浮かべることはなくなった。泣くことも、笑うことも、まるでどこかに感情を忘れてきたかのように。

 結が生まれてから五年、冥は地獄を生きた。陽の光を浴びることも、空腹を満たされることもなく。

 ある日、洋子と豊が大ゲンカをした。そのケンカはこれまでにないくらい激しく、部屋の中の物は殆ど薙ぎ倒され、嵐が過ぎたかのような状況だった。直後豊は洋子を殴り、家を出た。しばらく床に散らばった物に当り散らしていた洋子は、部屋の隅で小さくなっている冥を見つけ、何度も何度も叩いた。抵抗する術を持たない冥はただそれを受けるしかなかった。ひとしきり冥を叩いた後は、冥を突き飛ばし、泣きながら部屋を飛び出して行った。突き飛ばされた拍子に狭い部屋の真ん中に置かれた低めのテーブルに額をぶつけた冥は、そこから血が流れるのを感じていた。横たわる床に赤い色が流れて広がっていく。

(痛い……)

 起き上がる気力も体力もない冥はそのままゆっくりと目を閉じた。とても眠く感じた。

 その時、結は物陰からその様子を見ていた。瀕死の状態で放置されている冥を冷たい目で見下ろし、一言つぶやいた。

「……気持ち悪い」

 これが……この一言が冥を壊した。

 その言葉を耳にした冥は、力の入らない体を必死にゆっくりと起こした。そして安定しない足取りでその場を離れた結を追いかけた。手にハサミを持って。

 手に持っていたハサミはいつの間にか結の脇腹を貫いていた。銀色の鋭いハサミを伝って赤い血が流れ伝ってくるのを目にした冥は、思わずそれを引き抜く。結は床に倒れ込み大声をあげて泣いた。冥自身も頭から血を流しながら静かにその様子を眺めていた。ぼんやりとする脳内で何となく母親の洋子の事を思い出した。

(あぁ、こんな気持ちだったのかな……)

 目の前は霞んでいる。結の尋常ではない鳴き声にバタバタと洋子が部屋に駆け戻ってくるのが分かる。そして思い切り突き飛ばされ、今度は床に無残にも転がる箪笥の角に後頭部を強打し冥は再び床に叩きつけられる。

 洋子はひとしきり騒いだ後、足元に落ちていた血の付いた銀色のハサミを手に取り冥の元へ歩み寄った。そして何かを叫んだ後、洋子は冥の腹にそのハサミを何度も何度も突き刺した。

(痛い、痛い、痛い……)

 自然と涙が流れ出てくる。

 おかあさん、ぼくが一体何をしたというの

 おかあさん、どうしてぼくを見てくれないの

 そのまま洋子は冥を放置し、再び結の元へと駆け寄る。泣きながら結を抱え、何かを叫んでいる。冥には洋子が何を言っているのか聞き取ることができなかった。豊が帰ってきた。洋子は豊に何かを訴え、冥を指さす。豊も何かを叫びながら冥に近寄り、蹴りを加えた。

(どうして……)

 その時、頭上から知らない人の声が響いた。

「ねぇ、ぼくが助けてあげる。どうしてほしい?」

 頭を打ってからは言葉という言葉が聞き取れなかったはずが、その声だけやけにはっきりと聞こえた。ここには「かぞく」しかいないはずだが、その全員が冥の目の前で大騒ぎをしている。その「かぞく」ではない人の気配は自分の頭の近くに感じる。目が霞んでいてか、その人の姿は見えない。

(どうしてほしいって、なに?)

「辛いよね。ぼくが君を助けてあげる。望んでいることを教えて」

(のぞんでいること……)

 霞む目で騒いでいる「かぞく」に目をやる。

 知らない人がいるよ。どうしてこっちを見ないの?

「ぼくは今君にしか見えてないようだね。どうする?助けて欲しくない?」

(たすけ……)

 冥には今自分がどういう状況に陥っているのか認識が出来なかった。

「難しいかな。じゃあ聞き方を変えよう。君は、どうなりたい?どうしたい?」

 どう、なりたい……そんなこと、考えたこともなかった。ただ見て欲しかった。自分の存在を、洋子に見て欲しかった。でも、もうそれは無理なんだろうな。

「さ、どうしたい?」

(ぼくは……)

 薄れる意識の中で一言、呟いた。

「……ころして」

 その言葉を発した途端、冥の体の中に何かが流れ込んできた。黒くて、重い何かが。

 すると体の中にあった何かと一緒に、その黒いものが一気に噴き出し、辺り一面を黒く染め上げた。遠くで叫び声が聞こえる。洋子の声だ。

 おかあさん、どうしたの?何かあったの?

 ぼくが、ぼくがおかあさんを助けなきゃ

 おかあさん、おかあさん……


 後から聞いた話だが、母親の洋子も義父の豊も死んだらしい。部屋全体に黒い切り傷が付いていて、それが両親の体にも複数ついていたらしい。それが死因だった。一家全員が死傷したこの事件の犯人はまだ捕まっていない。それどころか犯人の目星すら付いていない。妹の結はどこを探しても見当たらず、床に付いていた血痕から怪我を負った上で犯人に連れ去られたのでは、と周りの人間が話しているのを聞いた。だが、冥には何となく両親を殺した犯人を知っている。知っている、というより冥は「思い出した」。その瞬間冥はその事実に絶望し、そして口を噤んだ。

 冥は頭部を何度も強打し腹部を複数回刺される重傷を負っていたが、治療の甲斐あってか奇跡的に回復した。この事件の唯一の生存者である冥に警察は何度も話を聞きに来たが、冥は一言も話をしようとしなかった。警察だけでなく、病院の医師とも看護師ともこれまで会話をすることはなかった。言葉は分かるらしいが声を出さないことから、事件のショックで話せなくなったのでは、と言う結論を出された。その後冥は一言も発することもなく病院を退院した。しかし両親の親類とはとうの昔に縁を切られているらしく受け入れを拒否され、帰る家もなく結局施設へと入れられることになった。

 迎えに来た男は胡散臭そうなにやけ顔で冥の手を握った。その手は冥の手を撫で回すように触る。その触り方に冥は嫌悪感を抱いた。

 そこからの事ははっきり覚えていない。覚えているのは迎えに来た男が夜な夜な部屋にやってきて体の色んな所をベタベタと触られたこと、その時の男の息遣いが気持ち悪かったこと、その男が死んだことだけだった。

 冥は施設を二度変わった末、養子としてある夫婦に引き取られた。冥にとってはこの夫婦に引き取られたことがこれまで生きてきた中で唯一の救いだった。夫婦は「小林」と名乗った。優しそうな夫婦だった。子宝に恵まれず悩んでいたことから養子を取るという話になったらしい。そこで引き取られたのが冥だった。

 小林夫妻が冥にした初めてのことは、冥の名前を変えることだった。響きはまだしも「冥」という文字はあまりにも不吉で、実際に恐ろしいことが立て続けに起こった。裏では全て冥が起こしたことだと噂する者も出てくるくらいだった。夫妻はそんな状況を改善するために縁のない関西へ引っ越し、何ヶ月もかけて冥の名前を変えた。

 新しく手に入れた名前は「幸広」。幸せが広く長く続きますようにと、小林夫妻がつけてくれた名前だった。この名前は夫妻が自分たちの子どもが生まれたらつけようと思っていたものらしい。名前の意味を知ってからずっと嫌いだった名前をやっと捨てることができた。何より夫妻が「自分たちの子ども」として冥……幸広を受け入れてくれたことにとても心を打たれた。

 あの忌まわしい事件が起こってから一言も言葉を口にすることのなかった幸広は自分を引き取ってくれた小林夫妻に感謝を述べようとしたが、しばらく使っていなかった喉はきちんと機能せず、雑音のような音しか出なかった。しかしそれを汲み取った夫妻は泣きながら幸広を抱きしめた。そして「こちらこそ、家族になってくれてありがとう」と優しく頭を撫でてくれた。頬に暖かい何かが流れるのを感じる。それが涙と気付いたのはしばらく後だった。泣くことも笑うことも忘れてしまっていたので初めは驚いたが、それがごく自然なことなのだと教えてもらった。幸広は初めて「愛」というものを知った気がした。

 その日を境に「幸田冥」は死に、この世から消えた。そしてこの夫妻に愛されるように「小林幸広」としてとして精一杯振る舞うようになった。幸広が齢12歳の頃だった。

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