夜の王と血 0.1
耳元で、風が吹き抜けるような音が聞こえた。閉まり切らなかった引き戸の、わずかな隙間を通り抜ける、小さな、小さな、風のような――こそこそと誰かが囁きかけている――声のような音。よく聞けば、それが風の音でない事は明白だった。
ここには何かがいる。空気そのものが意志を持っているかのように、肌に重い感触がのしかかってくる。圧迫という表現では生温い位、身体全体が引き絞られる。
薄っすらと目蓋を持ち上げると、鈍い光と共に外の異様な光景が視界に広がった。
菫青は、限りなく広がる荒野に立っていた。
何処までも続く灰色の大地には強風が吹きつけ、砂柱があちらこちらで立ち昇っている。空を見上げれば、最初は厚い雲に覆われているのかと思われたそれは、まるで水銀のように滑らかで、妖しげに蠢いていた。これまでに見た事がない質感――然し、何処か遠い記憶の彼方には……?
仰ぎ見る限り無限に広がる奇怪な空模様は菫青の胸にすっと入り込んで、彼はそれをずっと見ていたい気持ちになった。
――ふと、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。
後ろを振り返ると、そこには“何か”が立っていた。“何か”としか形容できないものである。一見すると、背丈が自分と同じ位の人間に見えた。然し、明らかに人間ではない。乱れ狂う黒髪の間から覗く眼は血走り、口からは発達し過ぎた凶悪な犬歯が不揃いに突き出している。爪は黒ずんで長く、刃物のように鋭い。風貌だけでも十分異様だが、何よりも恐怖を感じたのは、それが発する尋常ならざる殺気であった。本能が今すぐ逃げろと命じていた。
然し、菫青の足は棒のようになってピクリとも動かなかった。
(来る!)
次の瞬間、怪物は世にも恐ろしい奇声を発しながら菫青に向かって突進して来た。大きく開かれた顎は新鮮な血で染まったような紅だった。
(殺される!!)
怪物が目と鼻の先に迫った時、突然の衝撃音。怪物の頭部は吹き飛ばされ、明後日の方向へ転がっていく。残った体だけがぐにゃりとその場に崩れ落ちた。
菫青の頭の中は真っ白だった。何が起きたのか、全く把握出来ない。怪物の頭が吹き飛ぶ直前、何かが横から飛んできたように見えた。菫青は恐る恐る、謎の飛翔体が飛んできた方角を見た。
五〇メートル程先に白い人影があった。遠すぎてよく分からないが、白い長髪、首から足元まで伸びるこれも真っ白い服を着ている事から女性のように思われた。人型のシルエットは吹き荒ぶ風を横に受けて尾を揺らしながら、着実な足取りでこちらに近付いて来る。
次第に精細になる輪郭から、そこで倒れている怪物と同じ様に、白い女性にも普通の人間とは違う点がある事に気が付いた。それは明らかに長大化した彼女の右腕である。いや、それはもはや右腕と呼ぶ事は出来ない程の変貌を遂げていた。銃身を連想させる円筒形の造形物。その造りには一切の無駄が無く、表面は白く滑らかに輝いている。
最初の半分程の距離まで近付いた時、彼女はいきなり右手の銃砲らしきものを菫青の方へ向けた。
「伏せて!」
菫青は咄嗟の呼びかけに反応出来ず、またしても棒立ちになってしまう。その横を彼女の右腕から放たれた白い閃光が刹那に貫いた。
轟音が聞こえたかと思うと、突如背後からの爆風に吹き飛ばされ、顔面から地面に叩きつけられる。衝突の衝撃で意識を失いかけるが、かろうじて保たれていた。くらくらする頭を押さえながら上半身を捻って後方を仰ぐと、灰色の砂煙が濛々と立ち込める中、三階建ての建物に匹敵する巨大な影が動いていた。見上げなければその全貌を把握出来ない程の大きさである。それが動くと菫青が倒れている下の地面は流砂の如く波打ち、影の方へ吸い寄せられて行った。大地を揺るがす咆哮が耳をつんざき、脳内を駆け巡る。それはただの奇声ではなく、背筋を凍らせるような怒りに満ちていた。
砂煙が吹き飛ばされ巨大な影の正体が露わになる――――そのおぞましい姿に、菫青は思わず絶叫していた。
自分の悲鳴と怪物の咆哮が重なり、打ち消される。怪物はその巨体に見合った黒く細長い物体を天に向かって振り上げると、一息に菫青めがけて振り下ろした。黒い物体が命中した身体は肩から真っ二つに引き裂かれ、辺り一面に大量の鮮血がぶち撒かれる。
菫青は痛みを感じる間もなく意識を失った。