朝に
「おはよう、ルイカ。今日は一段と寒いわね」
朝の空気と同じくらい清々しく澄んだ声が、ルイカの部屋に入ってきた。
「おはよう、ライムお母さん」
ベッドの上で上体を起こした姿勢のままのルイカは、心ここにあらず、と言った表情でうわ言のように挨拶を返した。
「あら、どうしたの? なんだかぼーっとして。いつもはとっくに起きてくる時間じゃない」カーテンも開けずに宙を見ていたルイカを訝しそうに見ながら、ライムは窓に近づく。「外はすごいわよ、雪で真っ白」
そうしてライムが窓のカーテンを開けようとした時、ルイカはいきなり無言で彼女の腕を掴んだ。ライムは驚いて目を見張ったが、まるで縋りつく捨て猫のようなルイカの瞳が見えて、そっと彼女を抱きしめる。ライムのふくよかな身体に包まれて、ルイカは少し目を覚ますことができた。
夢を見たの、とルイカは言った。
「昨日と同じ夢?」
身体を離し、彼女の揺れる目を覗きこんでライムは優しく言った。優しく、優しく。夢が彼女の現実を覆い隠さないように。
けれどルイカは首を横に振った。白い頬によく映える金髪がさらさらと揺れる。
ライムは、初めてルイカを見た時のことを思い出した。ライムが最初に思ったことは、「こんなに肌の白い子を初めて見た」だ。それを差し引いても、ルイカはとても美しい子供だったけれど。
「昨日とは、ちょっとだけ違う夢だったわ」
「あら、そう。じゃあ、どんな夢だったの?」
再びルイカを優しく抱きしめて、ゆっくり背中を撫ぜる。ルイカが怖い夢を見た時は、必ずライムがこうして彼女を安心させてきた。
「男の人が二人、出てきたの」
ライムの柔らかい手付きに促されるように、ルイカはぽつりぽつりと話し始める。
「二人? 昨日の夢は、男の子が一人、だったわよね?」
「うん、そうよ」
「男の人ってことは、昨日の男の子とは違うのね」
「それがね、少し似ていたの」
ライムから身体を離し、少し興奮した声で、ルイカは続けた。こういう時の彼女の瞳は、たとえカーテンの開けられていない薄暗い部屋でも、僅かな光を反射して輝く。
「昨日、コートとマフラーを貸してくれた男の子は、今日出てきた男の人の一人にどことなく似ていたの。茶色の瞳とか、とっても綺麗な顔とか。昨日のあの子が大きくなったら、きっとこんな素敵なお兄さんになるんだろうなあって思えるくらい」
「あら、そんなハンサムに連夜会えるなんて、羨ましい限りだわ」
ルイカは昨日の朝もこんな風に、呆然とベッドの上に座って夢の余韻に浸っていた。ライムが心配して話を聞いてみると、夢に美しい男の子が出てきた、と言う。
ライムは、ただの夢の話かと思って聞いていたが、ルイカはどうやら、その夢の男の子がどうしても気になるらしい。「似ている」と言うのだ、彼女が大事にしなければならない誰かに。ライムは、話を聞きながら、その男の子が、ルイカすら知らない彼女の真実を握る人なのではないか、と思い始めた。
彼女は普通の女の子ではない。八年前、突如としてこの街に現れた。
髪は乱れ、服は血まみれ、傷ついた裸足で、街の近くをふらふらと歩いていた彼女を最初に見つけたのはライムだった。隣町から帰って来たところで、窓の外に少女が見えたので思わず車を止めて外に出た。
「あなた、どうしたの? 大丈夫? 何があったの、何処から来たの?」
異常事態に動揺して、険しい表情で問い詰めてしまったからか、少女はひどく怯えた顔になった。それを見て、ライムは自分を落ち着けるために一つ、大きく息を吐き、今度はゆっくり、彼女と同じ目線になって、優しく問いかけた。
しかし、何度か辛抱強く質問しても、少女は首を傾げて不安な顔をするばかりだった。
そこで、少女の顔をまじまじと見たライムは、少女の肌が非常に白いことに気づいた。こんなに白い子を見たことがない、と思った。その清純な白さは、しんしんと降る雪を彷彿とさせる。
まさか、この子は何処か遠い国の子なのではないか。いや、けれど、それにしても。
「もしかして、私の言葉は通じてないかしら?」
一語一語、なるべく丁寧に発音してみた。すると、少女は何となく納得できないような顔で、「よく分からない」と言った。けれど、その言葉をライムもはっきり聞き取れたわけではなく、何となくそう言っているということが分かる程度で、自分たちの言語が共通であるとは思えなかった。
それでも、近しい言語であるのか、曖昧ながら意味は通るようで、二人は互いにはっきり発音するように意識して会話をした。
それで分かったことは、どうやら少女はこの近くに住む人ではないということ。
気づいたらここから近い森の中にいて、その前のことは全く思い出せないこと。
両親のこと、兄弟がいるかどうか、それどころか自分の名前さえ記憶にないこと。
ある程度少女の情報を引き出したところで、ライムは途方に暮れてしまった。分からないことが多すぎる。何かの事件に巻き込まれてしまったのだろうか。服に付いた血から考えても、可能性は充分にある。
けれど、そこでふと思い付いた。
「あなた、携帯電話を持っている? そうじゃなくても、何か、あなたに関してヒントになるような持ち物とか」
「なあに、それ?」
少女の即答に、ライムは固まってしまった。すぐに、自分の発音が悪かったのだと思い直し、もう一度丁寧に言い直す。
「携帯電話よ。あ、位置情報が登録されている物だったら尚良いわね。電池が切れているなら、私の所で充電してあげようか?」
「ねえ、だから、何を言ってるの? 電話って? 電池って? 充電って何?」
今度こそライムは言葉を失ってしまった。少女の肩に手を置いて、瞳の奥を覗き込む。少女の目は、純粋な疑問に満ちていた。
「……あなた、本気で言っているのね」
「うん。私、悪いこと言っちゃった?」
一気に深刻な雰囲気を纏ったライムに、少女は急に心配そうに眉を下げた。真面目に考え込みながら、ライムはうーん、と唸る。
「悪いことは言ってないけど、状況はとっても悪いかもしれないわね」
そう言うと、怪我がないか一通り確認してから、ライムは少女を背負って車に乗せた。エンジンをつけ、まっすぐ街を目指す。
街に入ると、ライムはそのまま市長邸に車を向けた。
バックミラーで少女を盗み見ると、窓の外を興味深そうに眺めている。記憶がまっさらになっている彼女にとって、生まれたての赤ん坊のように、目に映る物全てが新鮮なのだろう。
街中で一番大きな市長邸の門に着き、インターホンを押す。
「こんにちは、こちら市長」
「ライムだよ。早く開けて。緊急事態だ」
「お? ライム。どうしたどうした、酒盛りにはまだ早い時間だぞ?」
「いいから早く! 緊急だって言ってんでしょ!」
暢気な市長の言葉に一喝すると、「全く、乱暴なんだから」とインターホンから文句が聞こえた。そのすぐ後に門が開く。
市長邸の庭に車を停め、大きな家の扉をドンドンと無遠慮に叩く。すぐに「そんな叩かなくても聞こえてるって!」と言いながら背の高い男が出てきた。愛嬌のある顔の優男だ。
「何だい、緊急事態って。宇宙人でも現れたかい?」
「ある意味、それに近いかもしれない」
そう言って、ライムの背中に隠れている少女を指差した。市長は、少女の姿の異質さに、元々丸い目を更に丸くさせた。
「お、おい。その子、血まみれじゃないか? お前、乱暴な女だとは思っていたが、まさか少女相手に犯罪を……」
「おいこら。それ以上言うとあんた相手に犯罪を起こすわよ。とりあえず、お風呂借りる。それと、医者呼んどいて。口が堅くて信用できる奴がいいな……。ヨウキとか」
少女の手を引っ張ってずかずかと家に上がり、そのまま風呂場に消えていく二人を見送って、市長は顔を引き攣らせたまま肩を落とした。
「全く、強引なんだから……」
文句を言いながらも、それでもお人好しの市長は、結局彼女の思う通りに行動する。
「で? この子は遠い過去の世界から来たとでも言うのかい?」
市長に呼びつけられて少女の手当をしてくれた男が、眼鏡を片手で押し上げながらライムに訊く。
「なんだ、ヨウキ。その呆れた目は」しっかり睨み返しながら、ライムは胸を張った。「だって、この子電話も電池も充電って言葉も知らなかったのよ? この世界にそんな子ってあり得る?」
「けど、記憶も失くしてるんだろ? だからそう言った常識的なことも忘れているんじゃないか?」
隣からもっともらしいことを言ってくる市長にも、きつい視線を浴びせた。
「でも、その他の常識的な物の名前は覚えているのよ? それに、この子の言葉、私たちのとはちょっと違うじゃない。全然分からないってわけじゃないけど、ところどころ単語とか発音とか言い回しとか違う感じ」
「まあ、それは確かにねえ……」
「あと、見てよ、この子の肌! こんなに白い子現代で見たことある?」そう言ってライムは少女の腕の隣に自分の腕を置き、色を比べる。浅黒いライムの腕の隣に並ぶと、少女の腕はまるで発光しているかのように白く見えた。「あんたらさ、『侵略の時代』ではこれくらいの肌が普通だったって歴史で習わなかった?」
「うむ。それには反論できないな。この子の肌の色は、確かに『侵略の時代』以前の者たちの特徴だ」
「おいおい、ヨウキ。まさかお前も信じるのかい? いくらなんでも突拍子がなさすぎないか?」
真顔で頷くヨウキを見て、市長はギョッとした顔を向ける。
「完全に否定することはできない、と言う意味だ。今は、それ以外に説明がつかない」
「それよりも、その子すごく怯えてないか? お前たちがそんな意味分からない話してるから」
市長に指摘されて少女に視線を向けると、膝の上に拳を置いて、その拳をじっと見つめていた。よく見てみると、身体全体が僅かに震えている。
「ご、ごめんごめん。早口でしゃべってたし、何話してるか分からないのは怖いよね。ごめんね、怖いことを話してたわけじゃないのよ」
すぐさまライムが少女をそっと抱きしめた。細いけれど温かいライムの腕は、少女を懐かしい気持ちにさせた。
「……ん?」少女の背中をさすっていたライムは、彼女が握りこんだ拳の一つから、何かがはみ出しているのに気づいた。「それ、何を持ってるの?」
少女は一瞬ビクッと震えた後、ゆっくりと拳を開いた。彼女が握っていたのは、細い鎖のチェーンが付いた丸いロケットペンダントだった。
「……首に、かかってた」少女は蚊の鳴くような声で呟いた。
気づかなかった。お風呂に入る時に気づいて、そこからずっと手に持っていたのだろう。
「見せてごらん」とライムが言うと、少し躊躇いを見せたが、「見るだけよ。取ったりしないから」と言われておずおずとそれを差し出した。
ライム、市長、ヨウキがそのペンダントを覗き込む。
「……普通のロケットペンダントに見えるんだが」
「中に写真が入ってるかしら。開けてもいい?」
声なくこくりと頷いた少女を見て、ライムは慎重にペンダントを開けた。
そこには、写真は入れられていなかった。代わりに手書きと思われる文字が並んでいる。けれど、その文字はライムたちに読むことができなかった。
「これ、何て書いてあるんだろう?」
色々な角度から文字を見ながら首を傾げるライムの横で、ヨウキがいきなりライムの腕を掴んだ。「ぎゃっ!」と言う彼女の悲鳴を無視して、彼女の腕ごとペンダントを目に近づけて舐めまわすように観察する。
「いや、まさか、待てよ、これ……! う、嘘だろ……?」
「おい、ヨウキ、大丈夫か? 何でいきなり興奮してるんだよ?」
突然目の色を変えたヨウキに、腕を掴まれているライムも、それを眺める市長も呆気にとられている。
「これ、多分、『侵略の時代』以前の文字だよ」
ヨウキの言葉に、残りの二人も裏返った声を出した。
「えっ? その時代でも、私たちが使ってる文字がそのまま使われていたんじゃないの?」
「俺たちが今使っている文字を、当時も使っている地域はあった。けど、失われた文字も多いんだ。言語自体は残っているけれど、それを表す文字はガラリと変わったんだよ、その激動の時代にさ」
「じゃ、じゃあ、これをこの子が読めたら、すごいことなんじゃないの……?」
「ああ、その場合、彼女は過去から来たとしか説明できなくなるな」
息を飲んだ大人三人に一斉に見つめられ、少女はびくりと肩を震わせた。彼らが何をしゃべっているのか、早口すぎて断片的にしか掴めなかったのだ。
ライムが、彼女の目を見ながら、ゆっくりと訊く。
「あなた、この文字、読める?」
少女はすぐに首を縦に振った。そして、ペンダントの文字を指で差しながら、言う。
「メイト、レオ、ルイカ」
「……それ、どういう意味?」
呪文のような言葉を発した少女に、ライムは再度訊き直す。それに、少女は首を傾け、「意味は、ない」と言った。
「なんか、人の名前みたいな響きだよな」
「あ、確かに」
ヨウキの言葉に賛同した市長。二人を眺めながら、少女は突然嬉しそうな顔になり、もう一度文字を指差しながら説明する。
「この文字が、明るいって意味。これは人って意味。で、こっちは、えーと、綺麗って意味。うるわしい、って言う文字なの。隣は真ん中って意味。それで、これは涙って意味。これは花って意味」堰を切ったように話し始めた少女は、「それぞれ二つずつセットなの。だから、明人、麗央、涙華」と言った後、ぽろりと涙を零した。あまりに自然な雫だったので、大人三人も、少女本人も、何が落ちたのか分からないくらいだった。
「え、ちょっと、どうしたの? 何処か痛いの?」
慌てて少女を覗き込んだライムは、綺麗に濡れているその瞳が、お天気雨の時の空みたいだ、と思った。
「分かん、ない……。なんで、涙、が……出るんだ、ろ……?」
しゃくりあげながら、ぽろぽろぽろぽろと止めどなく流れる涙は、不謹慎なほど美しかった。
「……ルイカ」
ぽつりと呟いたライムの言葉に、その場にいた全員が視線を向ける。
「涙って意味が入ってるの、ルイカって言葉だよね?」涙を拭く少女が頷くのを見て、ライムは満足気ににっこりと笑った。
「あなたのこと、ルイカって呼んでいい?」
その日から八年、ルイカはライムの家に住まわせてもらっている。ライムは独身だが子供の面倒見が良く、ルイカが彼女に母親として不足を感じたことはなかった。
ヨウキと市長は興奮を抑えきれないようだったが、ライムが「真実を公表すれば、ルイカが客寄せパンダになるから駄目」とピシャリと言ったことにより、ルイカが五百年以上前の過去から来たことは、四人だけの内緒にした。ただ、ヨウキが頻繁に古代文字を教わりに来たり、市長がルイカの顔を見に来ることは多かったけれど。そのおかげで、ルイカは早くにこの世界の言葉に慣れることができた。
ヨウキに、自分の名前を古代文字で書いてくれ、と言われ、ルイカは、ヨウキとライムに、陽貴と来夢と言う字を与えた。意味を教えると、二人は非常に喜んだ。
ライムの家は「メイレイ広場」と呼ばれる、この街の中心にある最大の広場に面している。最初にライムの家に来た時、ルイカはその広場の中央に建つ像に釘付けになった。
男の人が二人、背中合わせになっている銅像だ。一人は男らしい顔と身体つきで、剣を両手に持ち、何かに立ち向かっているようなポーズだ。よく見ると、もう一人の男を守っているようにも見える。
そのもう一人の男は、すらりとした体型で、とても美しい顔をしていた。女性的でもある。こちらは片手に銃、片手に本を持っている。こちらの男も、見ようによっては凛々しい男の方を庇っているように見える。
「この二人は、この街の、いや、世界の英雄なんだよ」
じっと像を見ていると、隣に立ったライムが説明してくれた。
「昔、『侵略の時代』にさ、この街は要塞の一つとして使われていたの。ある時侵略が過激化して、敵方のボスがわざわざ出向いて、要塞を一つずつ潰していくようになったんだって。それでここの要塞にも『侵略者』たちがやって来たんだけど、要塞に住んでいたこの二人の男が、勇敢にもそのボスに向かって戦っていったんだってさ。兄の方は力強い剣で弟を守り、弟の方は知力と技術で、兄を支えた。理想の兄弟英雄として、今でも語り継がれてるんだよ」
そこまで説明したところで、いきなりライムはルイカの前に立ち、銅像を背にして手を広げて空を仰いだ。
「ねえ! すごいでしょ! これが私たちの街よ! 世界を救った、英雄の街!」
いきなり天に向かってそう叫んだと思うと、顔を戻してルイカを見た。彼女は、今度は落ち着いた、しかし重みのある声で「私の、自慢の街」と言って笑った。
「きっとあなたも気に入るよ」
「その綺麗な男の人と、たくましい男の人は、どっちが私にマフラーを結ぶかで喧嘩を始めたの」
未だカーテンを閉め切った部屋で、ライムはルイカの夢の話を聞いていた。
「たくましい人の方は、無愛想なのに優しげで、私を撫でるのもおっかなびっくりなのよ。だから見た目に似合わず手付きが繊細で、なんだか可笑しくなっちゃって。綺麗な男の人の方は、微笑みが本当に美しくて温かくて、それだけで私、なんだか救われる気がしたわ」
話す内にいつもの快活さを取り戻してきたルイカに、ライムは昨日から思っていたことを言ってみた。
「ねえ、ルイカ。もしかして、その二人は、あなたの大事なメイトとレオなんじゃないかしら?」
それを聞いたルイカは、一瞬目を大きくして固まった後、すぐに溢れんばかりの笑顔になった。
「そうかもしれないわ。私の大事な王子様たち!」
「そうよ、それで、実はその二人は、世界の英雄兄弟なの!」
「きゃあ! それすごい!」
妄想で弾んだ気分をそのままにベッドを飛び降りたルイカは、その勢いのままカーテンを一気に開けた。
贅沢なほどの光が零れ込んでくる。
その光の中で、ルイカは見ていられないほどに美しかった。幻想みたいだ、とライムは思った。
カーテンを開け放たれた窓の外には一面に雪化粧をしたメイレイ広場が広がっている。その中心に建てられた二人の男の人の像に、二人は自然と目を向けた。
凛々しい男と、美しい男。まるで夢に出てきた二人のようだけれど。
「もしあれが夢の二人なら、あの銅像は造り直さなくちゃいけないわね。剣の男はもっと背が高くて、銃の男はもっと鼻が高かったもの」
「あっはっは! ルイカはほんと、言うようになったわ。きっといい男を捕まえてくるだろうね」
そう言ってライムは眩しそうに笑った。
「ねえ、ライムお母さん」
「ん?」
「昨日は良く眠れたわ」
「そう、それは良かった。私のおまじないが効いたのかしら?」
良く眠れるおまじない。そう言って、ライムはよくルイカにおやすみのキスをした。額に、優しく一つ。
遠い昔のいつかの夜に、優しい誰かが同じことをしてくれたような気がする。そして、やはり優しい誰かに、昨日の夜も。
そう思うと、口元が緩んだ。
「ねえ、ライムお母さん」
「ん、なあに?」
一つだけだった。八年間の生活で、彼女が言葉と文字以外の、自分のいた世界に関することを思い出したのは、たった一つの挨拶だけ。それも、聖なる日に限定の。
「私がいた国ではね、今日のこの日は、こう挨拶するの」
ルイカはそう言って、綺麗な笑顔をライムに向けた。朝陽に照らされて、金色の髪が光を弾く。
「メリークリスマス。良い一日を」




