前夜
少しですが、「前夜」の方に乱暴なシーンが出てきます。苦手な方はご注意下さい。
夢を見たよ、とレオは言った。
ほとんど息だけで囁かれたその言葉に、メイトはそっと彼を見た。彼はベッドに横たわったまま、半分ほど開けた目で宙を見つめている。薄暗い部屋に揺らめく暖炉の灯りが、彼の褐色の瞳に気まぐれに紛れ込む。早く返事を返してやらないと、さっきの彼の囁きが時間に覆い隠れされてしまいそうだった。
ベッド脇の椅子に腰掛けたメイトは、彼の額に絞った冷たいタオルを乗せながら「今のは寝言かい?」と静かに訊いた。
レオは少しだけ頬を緩め、風が動かしただけかと思うほど小さく首を振った。静かな夜だ。窓の外で降っているであろう雪の欠片を想像しただけで、うるさく思える。
「マッチ売りの少女に会った」
最初の寝起きの時よりは幾分芯の通った声で、レオは言った。相変わらず天井を見つめている。
「そうか。寒そうだったかい?」
今日するレオとの初めての会話だ。少しは相手になってあげようと思い、メイトは話に乗った。レオは布団を鼻先まで引き上げ、もぞもぞと身体の向きを変えてメイトと目を合わせる。厚い布団によって、彼の声に曖昧さと暖かさが増す。
「寒そうだったよ。だから、僕は自分のコートを着せてあげた」
「そうか」
「コートだけじゃない。マフラーもしてあげたんだ。彼女には長いマフラーだから、後ろでちょうちょ結びにしてやったよ」
「随分優しいじゃないか」
「誰かに似てたんだ。だから、なんだか放っておけなくて」
咄嗟には返せなかった。メイトは自分に向けて、心の中で舌打ちをした。
そうだ。ルイカはいつも、彼にマフラーを巻いてもらっていた。後ろでちょうちょ結びにしてもらうのが、彼女は大好きだったじゃないか。自分の迂闊さに腹が立った。
彼女に繋がる可能性のある話題を避けようと、メイトは「腹が減っただろう。何か食べるか?」と話を逸らした。彼は今日、ずっと眠っていたのだ。いくら床に臥せっているとは言え、何かを胃に入れなければ治るものも治らない。
「空いてないんだ。けど、きっと君は無理やりにでも食べさせるんだろ?」
「よく分かってるじゃないか。俺がこんなに甲斐甲斐しく看病してやってるんだ、お前も少しは治る努力をしろよ」
冗談っぽい響きを混ぜてレオの額をタオル越しに小突くと、彼は幼い少年のように肩を竦めて小さく笑った。泣いているみたいに見える笑顔だった。
「なあ、メイト」
水が温くなったたらいを持って部屋から出る時、レオが弱々しく名前を呼んだ。その声音に少なからず嫌な予感がして、メイトは聞こえない振りをして出ていこうかと思ったが、その声のあまりの心許なさに思わず振り向いてしまった。
「なんだ」
「僕には、本当に君以外の兄弟はいなかったのか?」
そしてメイトは後悔する。きっと、さっき見た夢のせいなのだろう。レオがこんなことを訊いてくるのは久しぶりだ。
溜息を一つついて、何度も繰り返された質問にいつもと同じ答えを返す。ついた溜息は、呆れたように見えただろうか。本当は、メイト自身を落ち着かせるための溜息なのだが。
「いないよ」
「本当に?」
「ああ。どうしたんだ、今更。もうとっくに納得したことだろう。この家に、他の誰かが住んでいた形跡があるか?」
「……そうか。そうだよな」レオは明らかに腑に落ちない顔をして、それでも眉を下げて崩れそうな笑顔をメイトに見せた。「悪い。夢の女の子が、本当に誰かに似てる気がしたんだ。誰か、僕が大事にしなきゃいけないような人に。それで、なんだかどうしても気になっちゃって」
たらいを片手で持っていたために重さでしびれてきたが、そこで会話を途切れさせるには気が引けた。レオをこのまま置いていくと、本当に崩れ落ちてしまいそうな気がしたからだ。メイトは、少しでも部屋の空気を明るくしてから台所に行こう、と思った。
「じゃあ、その子は未来のお嫁さんかもな」
「はは、よしてよ。君ならともかく、戦いにも行けないこんな能なしには遠すぎる未来だ」
精一杯の冗談も、自分を卑下するレオの言葉の前では何の役にも立たなかった。この部屋で変わらず明るいのは、不安定に揺れる暖炉の炎だけだ。
「俺だってここに残ってる。お前と一緒だ」
思った以上に先程の夢はくせ者のようだ。レオの言葉が気に食わなくて、メイトは思わず反論した。
「君は僕とは違う。みんなに必要とされてる」
「いい加減にしろよ。お前は、少なくともこの俺に必要とされてる。それじゃ不満か?」
確かな怒りが灯ったメイトの言葉に、レオは更に泣きそうな笑顔になった。それを見てやるせない気持ちになったメイトは、「飯、何か作ってくる」とだけ呟いて部屋を後にした。
扉を閉める直前、「ありがとう、兄さん」と言われた気がしたが、きっと気のせいだろうと、たらいを反対の手に持ち直して廊下を歩いていった。
「ルイカとは喧嘩したことが一度もない」と言うのが、レオの自慢だった。血が繋がっていないどころか、歳が七つも離れていれば喧嘩をしないのは不思議なことでもないけれど。
そのルイカ自身は、レオの自慢の妹だった。メイトの、自慢の妹でもあった。
ルイカとレオとメイトの三人は、誰とも同じ血を分けてはいない。けれど、戦争で溢れ返るようになった孤児からすれば、血が繋がっているかどうかなど何の意味も持たなかった。
住んでいた場所が、同じ住宅棟の同じ階だった。それだけが、彼らがお互いを「兄弟」と呼んだ理由だった。
レオやメイトが生まれるよりも数十年昔のこの土地は、それはそれは恵まれて、飽食の時代と呼ばれていたそうだ。人と物に不足はなく、情報は溺れるほどあって、贅沢な不満だけが蔓延る世界。
誰もいない台所に入って手探りで蝋燭とマッチの場所を探しながら、もしもその時代に生きていたなら、今レオが臥せっている風邪などいとも容易く治せてしまうんだろうな、とメイトは思う。火が灯った蝋燭は、メイトの目に寒々しい食器たちをぼんやりと映し出した。
今は、まともに日の光も拝めない世の中だ。
その平和な飽食の時代を、メイトは知らない。生まれた時から空は黒く、時々その空を溶かしたような黒い雨が降る。石造りの要塞に、同じ境遇の人々と共に住み、その人々は頻繁に顔ぶれが変わる。若い男たちは特に。
メイトの父親も、レオの父親も、ルイカの父親も、まるでシャッフルをされるかのように消え、代わりに新しい男たちが住宅街に入ってきた。
男が消えると、近しい女も消えることが多かった。隣の住宅棟に住む男がいなくなった時、その男と一緒に住んでいた若い女もいなくなった。まだ幼かったメイトに、母親は「彼女が自分で望んだことなのよ」と説明した。
今ならメイトにも分かる。きっと、自殺をしたか、さもなければ戦いに行ったのだろう。戦いに出るのに、男女の隔てはないのだ。
メイトたちは、実は自分たちのいる世界のことをよく分かっていない。情報など何処からも入ってこない。だからこそ、母親たちの言う話だけが世界の全てだった。
今から四十年程前に、『この世界の住民ではない何か』が突然やって来て、人々を惨殺していったこと。
彼らは途方もなく強く、信じられないほど冷酷で、見ていられないほど醜いこと。
今自分たちが住んでいる要塞は、彼らと対峙するのに、戦士たちの拠点として使っていること。
この拠点には、別の拠点から移り住んでくる戦士もたくさんいること。
空から降る黒い雨には触れてはいけないということ。
決して防壁の外に出てはならず、夜はしっかりと雨戸を閉めて、中の光を漏らさないようにすること。
これらは全て、母親たちから聞いたことだ。そして、メイトたちが世界について知っていることは、これらが全てだった。
残り少ない冷ご飯で、レオのために雑炊を作る。蝋燭の火をコンロに移して、料理を始めた。
コンロの火と蝋燭の火を見比べながら、メイトはレオの部屋の暖炉の火を想った。
ノックをして入ると、レオは上体を起こして窓を眺めていた。雨戸を閉めているため、何も見えはしないのだが。
「お待たせ」
部屋に入ってもこちらを見ないレオに、メイトはスプーンを差し出した。レオがそれを受け取るのを待って、彼の膝の上に薄い台を、その台の上に雑炊の器を置く。
「ありがとう」レオはゆっくりとメイトに顔を向け、ほぐれた笑顔になった。
スプーンを口に運び、息を吹きかける仕草を見て、メイトはやっとほっとした。食べてくれる。まだ生きようとしてくれている、彼は。
レオはしばらくの間、黙々とスプーンと口を動かしていた。時々、メイトが片手に持った水を飲ませる。
半分以上食べたところで、レオはスプーンを置いて、申し訳なさそうに「あのね」と言った。仮にも二十年以上の間、彼の兄を名乗ってきたメイトには、次に彼が何の話をするのか嫌と言うほど分かった。
「昔話をしたいんだ。君がこの話をしてほしくないってのは分かってるんだけど、今は、何だかとても懐かしい気分なんだよ。……ごめん。看病してもらってる上に、こんなの我儘すぎるかな」
まっすぐメイトを見る彼の顔の右半分が、暖炉の火で赤く染まっている。メイトの顔は左半分が染まっている。
メイトは呆れたように笑って、水差しを持っていない方の手でレオの頭を優しく撫でた。
「仕方ないな。弟の我儘を聞いてやるのは兄貴の役目だ」
レオは安心したような表情になって、また一口雑炊を食べた。
「僕たちのお母さんってさ、平和な時代の人たちなんだよね」
「そうだな」
レオとメイトがする昔話は、ほとんどが彼らの母親のことだ。それぐらいしか、話の種がない。二人共、父親は言葉も分からぬ子供の時分に失っている。
「ねえ、お母さんたちの写真って、どこに仕舞ったんだっけ」
「さあな。置いてる物が少ないんだから、探せばすぐに見つかるだろ」
「じゃあ探そうよ」
「朝になったらな。暗いだろ、今じゃ」
しゅん、と残念そうに目を伏せるレオの幼い仕草を見ると、メイトの胸はひどく疼いた。何年も前のレオを見ているようだった。いや、もう何年も、メイトは昔のままのレオを見てきた。
「お前の母親は優しい美人だったよ」
「それは僕も思い出した、写真と君のおかげでね」メイトが、レオの記憶を少しでも取り戻すために見せた母親たちの写真。自分たちを写真に写す機会はなかったけれど、母親たちの写真はほんの少しだけ遺されていたのだ。写真の面影を思い浮かべるかのように、レオは宙を優しい眼差しで眺めた。
「君のお母さんは凛々しい人だったよね。見た目も、心も。君にそっくりだ」
「それを言ったら、お前も母親に似ているよ」
「そうかな」
「そうだよ。誰もが見惚れる美男子だ」少し意地悪な表情を浮かべて、メイトはレオをからかった。
レオは、力なく少しだけ口角を上げた。左右対称の顔を真正面から見ていると、本当に息をして動いていることが時々不思議になる。
「そんなの、この世界では何の役にも立たない」
「分からないだろ。お前のその綺麗な微笑みが、何処かで女の子を救うかもしれないじゃないか」
先程のからかう態度とは程遠い、真剣な声音でメイトは言った。これは彼の本心だった。レオが嬉しそうに優しく微笑むと、その美しさに、スッと胸がすく思いがするのだ。メイトはレオを見る度に、見た目の美しさで彼の隣に並べなくても、せめて生き方は、心だけは同じくらい美しくあろうと思う。少なくとも、レオの美貌はメイトを救っている。
「やめてよ。強くて賢くて優秀な君が隣にいれば、自分が誰かを救えないことくらい、僕にだって分かるんだよ」
「剣だけが人を救えるわけじゃない。俺なんか、ダントさんがいなかったら、危険なガキとして首をちょん切られてただろうよ」
メイトは水差しを床に置き、レオの頬を両手でそっと包んだ。祈るように目を瞑り、額と額をくっつける。レオはまだ少し熱があるようだった。
「お前は純粋で、美しくて、優しい子だ。本当に。俺の自慢の弟だ」
少しの間、照れくさそうに目を閉じてじっとしていたレオは、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、お母さんたちのあの写真、あともう一人いなかった? 僕のお母さんと、君のお母さんと、あと一人」
あの写真は、この三階建ての住宅棟の三階に住む、三世帯の母親たちで撮ったものだった。メイトの母親と、レオの母親と、そして、ルイカの母親。
「ああ、そうだな。あの人も儚げな美人だった」
「確か、子供はいなかったんだよね?」
「ああ。……いなかったよ」
「そっかあ。子供がいたら、その子、きっと可愛かっただろうね。だってあの人、とっても変わった髪をしていたじゃない? あれ、すごく綺麗だった。瞳もとても不思議な色だったよね」
ルイカの母親は立派な金髪で、瞳は青色だった。この要塞で、メイトたちの目に彼女の存在はとても異質に映ったけれど、母親たちは普通に接していた。彼女は違う国の人で、そこの国では金色に輝く髪も、青い瞳の色も珍しいものではないのだ、と言う。
「あの瞳、海って所と同じ色だって、母親たちが言ってたな」
「海って、前に君が話してくれたね。あの目の色と同じなんて、きっととても綺麗な所なんだろうなあ」
「俺も知らないけどな。空と同じ色だったってことも、母親伝いに聞いた」
「空があんなに綺麗な青色? なんだか嘘みたいな世界だね」
レオはプッと吹き出した。真っ黒な空しか知らないレオたちは、それが綺麗な青色になっているところを想像すると、そのあまりの突拍子のなさに可笑しさを覚えるのだ。
「いいなあ。きっとそれだけで、生きるのが楽しかっただろうなあ」
「そうだな。そうなったら、お前は一日中空を眺めてそうだけどな」
体調を崩して寝ている時は、レオは決まって窓の外ばかりを気にする。ろくでもない世界しか見えないのにも関わらず。
「あはは、絶対そうだね」
レオはとても嬉しそうな顔になった。きっと彼は今、大事だった人たちを想像の青空の中に見ている。
「だって、そんなに綺麗な空なら、お母さんたちがそこにいそうな気がするじゃないか」
メイトたちの母親は、夫を失った後、要塞に遺した子供たちを顧みずに戦場に赴いた。
思えば、ちょうど彼女らの青春時代に『侵略者』たちが来たのだ。敵の姿もろくに知らないメイトたちとは違い、その悲惨な時代の幕開けをその目で見ていた親たちは、敵に対する憎しみもひとしおだったのかもしれない。
自分の親も死んだ、夫も死んだ。これからどんどん侵略は激しくなるだろう。そんな状況で、『侵略者』たちの姿とその殺戮の酷さを知っている彼女たちは、城塞でその魔の手が伸びてくることをおとなしく待っていることなどできなかった。各々手に手に武器を持ち、同世代の他の女たちと共に、子供たちに禁じた防壁の向こう側へと駆けていったのだ。
そして、父親たちと同様、返ってくる者は一人もいなかった。
母親たちが去ったその日、子供たちはみんなひとかたまりになって泣いた。子供たちの大半が父親を既に亡くしている。母親とも、もう二度と会えないことを知っていたのだ。
母親たちが消えたことも充分に悲惨な出来事だったが、メイトとレオにはそれ以上の悲劇が襲った。妹として可愛がっていたルイカが、母親たちと共に姿を消したのだ。
女たちが一揆を起こし、止めようとする護衛兵や戦士たちを振り払って外へと飛び出す混乱の中、メイトとレオとルイカは三人、手を繋いで住宅棟の三階の、ルイカが住む部屋に身を隠していた。
悲鳴や剣をぶつけ合う音や発砲音が混ざり合った騒音を聞きながら、メイトとレオはまだ小さいルイカを安心させるように、両側から手を握っていた。
しかし、途中でルイカがトイレに行きたい、と言い出した。それは生理現象だ、仕方ない。トイレは一つの階に一個しかない共同のものだ。彼女が怖くないようについていこうとしたレオは、幼いなりに見栄を張ったルイカの「女の子のトイレにまでついてこないで」と言う一言でおとなしく待っていることにした。
それが間違いだった。
いくら待ってもルイカが帰って来ない。十分経ったところで、二人はトイレを見に行った。そして、そこに誰もいないことを確認すると、二人は揃って顔を真っ青にした。
急いで窓に駆け寄り街を見下ろすと、狭い住宅路をスルスルと走るルイカが見えた。彼女は母親に似た見事な金髪だったから、すぐに見つけることができたのだ。ルイカは要塞の正門に向けて一目散に駆けていく。
騒ぎが始まってからずっと、メイトとレオは「お母さんの所に行く、お母さんについていく」と言って聞かないルイカを宥めるのに必死だった。やっとおとなしくなったので油断していたら、これだ。
当時レオは十五歳、メイトは十七歳だった。分別をわきまえることができる歳の二人に、ルイカの母親は「娘をよろしく頼むわね」と言って出ていった。メイトとレオの母親たちも、自分の娘同然だったルイカに別れのキスをして「お兄ちゃんたちをよろしく」と笑った。
ルイカは勘の良い子供だった。自分の母親の台詞に、兄の母親たちの笑顔に、何かしらの違和感を感じ取っていたのだろう。母親が出ていってすぐ、「自分も行く」と騒ぎ出したのだ。
メイトとレオは死に物狂いで追いかけた。正門前は混乱を極めている。そんな所に、あんな小さなルイカが紛れ込んだら、必ず怪我をしてしまう。ましてや、運悪く武器が当たって死んでしまうことだって。
二人の頭の中には最悪の事態がぐるぐると駆け巡っていた。それを薙ぎ払うように、腕を振り回しながら走った。焦ってもつれる足に殺意にも似たいらつきを感じながら、必死に走った。
そして正門前に着いところで、二人は目を見張る。
そこには二人が想像していた以上の多くの人集りができており、武器を持った者たちの怒鳴り声や悲鳴が錯綜していた。武器を持った戦士や護衛兵も、武器を持たない一般人も入り乱れている。
この中に、ルイカはいるのか? どうやって見つければ?
「なあ!」真っ先にメイトが前に躍り出て、近くにいた護衛兵の一人に飛びついた。「子供を見なかったか? 金髪で、青い目の!」
「あ? お前らも子供だろ!」護衛兵は兜の隙間から鋭い目で睨みつけ、メイトを力いっぱい振り払った。「どけ! 子供を置いてく無責任な女共を、サッサと門の外に出さないといけねえんだ!」
「門の外? 今、門が開いてるのか!」
最初は女たちの勝手な出陣に待ったをかけていた護衛兵たちも、これだけの騒ぎになったため、仕方なく折れることにしたらしい。『侵略者』と戦うために手にした武器で、人間同士が傷つけ合うなど馬鹿らしい。
けれど、ここで門を開けて女たちを出させたら、飛び出していったルイカが母親を追うために門の外についていってしまうかもしれない。それは、もうほとんど死を意味していた。
「妹が! 妹が母親の後を追っていっちゃったんだ! 外に出ちゃうかもしれない! 門を閉めて、確認させてくれよ!」
場の喧騒にかき消されてしまいそうになりながら、後ろからレオも大声で叫ぶ。それに対して護衛兵も大声で返した。
「外に出ようと思う子供なんぞ、ここにいたってろくなことはねえ! 外に出るなら自己責任! 自分の身は自分で守れってんだ!」
「何を! ルイカはまだたったの八歳なんだぞ! ふざけるなよ、どけ! 自分で探してやる!」
護衛兵の暴言に、メイトは激昂して人垣に突っ込んでいった。レオもメイトに続いたが、後ろから数人の護衛兵に取り押さえられてしまう。
「おい、余計なことすんな、ガキ共! やっと場が収束しそうなんだ、おとなしくしてろ!」
「離せ! ルイカが! 妹がここにいるんだ、母親を追って外に出るかもしれないんだ!」
「ルイカ! 離せ! 離せえええええええええ!」
二人は声の限りに叫び、力を振り絞ってもがいた。しかし、鎧を着込んだ大の男たちには敵わない。
メイトはもがきながら、最後の手段に出ることにした。最後の手段の、力づく。
後ろで押さえられている手をどうにか腰の近くまで移動させ、上着の下に仕込ませていたナイフに手をかける。柄を掴んだ瞬間、叫び声もピタリと止め、いきなり全身の力を抜いた。
その一瞬、訝った男の押さえつける力が、僅かに緩んだ。メイトはその瞬間を逃さなかった。
一気に腕に力を入れ、後ろ手に渾身の一撃を突き立てる。背後から「ぐっ」と呻き声が聞こえ、拘束は解かれた。急所かどうかなんて気にしなかった。とにかく、この男の手を抜けて、ルイカを探し出すのが第一だった。
「こんな世の中だろ。ガキでも武器の一つや二つは持ってるんだ!」
メイトは腹を押さえて苦悶の表情を浮かべる男を押しのけて、レオを押さえつけている護衛兵にナイフを向けた。その切っ先から、真っ赤な血が滴り落ちる。
「やってくれたな、このクソガキ!」
兜の上からでも分かるほど顔を真っ赤にした護衛兵が、レオの両腕を足で踏みながら腰の剣を抜いた。血走った目が、まるで赤い蜘蛛の巣のようだ。獲物がかかるのを待とうともしない、獰猛な殺意が容赦なくメイトを襲った。
男が発する殺意でメイトが危険だと分かったレオは「兄さん、逃げて!」と叫びながら、足を目一杯曲げて男の脛を蹴った。鎧を着ている男からすれば痛くも痒くもない攻撃だが、血に高ぶった彼はその動きを鬱陶しく思ったらしい。腕を踏んでいた鎧の足を振り上げ、思い切りレオの頭を踏んだ。何かが壊れたような、奇妙な音を発して動きを止めたレオに、続けざまに反対の足で頭を蹴った。地面に赤黒い染みが浮き上がる。それを見て、メイトの目の前は空の色よりも真っ暗になった。
「やめろおおお!」
メイトは何も考えず、感情のまま、力任せにナイフを振りかざして男に突進した。
そして、そこで世界は暗転する。
目を覚ますと、そこは見覚えのない天井だった。ここは何処だろう、と思うよりも先に、消毒液の匂いが鼻をつく。
目だけを動かして横を見ると、白衣を着た髪の長い人がベッド脇に座っていた。メイトと目が合うと、ほっとしたように肩を下げた。
「良かった。目を覚ましたんだね」
髪の長さで女の人かと思ったが、声からしてどうやら男のようだ。「大丈夫? 何か、覚えていないことある?」と顔を覗き込んでくる。
なよなよした印象を受ける男だな、とぼんやり思った後、唐突にさっきまでの自分の状況を思い出した。ガバリと男の腕を掴む。
「レオ! レオは? レオ、怪我して、頭蹴られて! それに、ルイカも……ルイカは何処だ?」
「ちょ、ちょっとちょっと。落ち着いて」
顔を引き攣らせるその男に、メイトは尚も詰め寄った。
「レオとルイカは! 二人共無事なのか?」
「おい、静かにしろ。仮にもここは病院だ」
その時、野太い声が二人に割り込んできた。扉の方を見ると、扉よりも大きい、ずっしりとした大男が仁王立ちをしてこちらを睨んでいる。黒い髭が、大男に更に貫禄を与えていた。
「ダントさん! 良いところに来てくれましたね。この子は異常がないようなので、説明、任せましたよ!」
メイトが大男に気をとられた一瞬をついて、白衣の男はするりと部屋を出ていった。物が少ない無機質な部屋に、強面の男と二人きりになる。メイトはハッと我に返り、今度はそのダントと言う男に駆け寄って縋りつく。
「弟と妹の居場所を知ってるんだな? 教えてくれ!」
ダントは、胸倉を掴んで見上げてくるメイトをしばらく見つめた後、無言でその頬に平手を張った。
屈強なその腕から繰り出される平手の威力は凄まじく、メイトはよろめいて床にへたりこんだ。何が起きたかよく分からず、座ったままダントを見上げる。
「これは、お前に腹を刺された俺の部下の分だ」
その重みのある言葉で、メイトは段々と気を失う前までの感覚を思い出してきた。ナイフを握った右手、人の身体に突き刺した感触、すぐ後ろの呻き声、血。
「う、うわっ、う……」
声にならない恐怖が襲ってきて、メイトはぶるぶると震える自分の手のひらを見る。血が付いているかと思ったからだ。もしかして、俺は、人を、殺した?
「安心しろ、死んじゃいねえよ。てめえの弟もな」
メイトの心を読んだかのようなタイミングでダントが言った。しかし、そこで初めてメイトから目を逸らし「ただ……」と複雑そうに口篭る。
「ただ……? 何だよ?」
「……ついてこい。見せた方が早え」
レオは、メイトがいた部屋よりも大きい部屋に寝かされていた。頭には真っ白な包帯が巻かれている。
意識はもう戻っているようで、メイトとダントが部屋に入ると、すぐに視線を二人に向けた。
「レオ! 無事だったんだな、良かった、本当に良かった!」
ベッドに駆け寄ったメイトは、そのままレオを抱きしめようとしたが、直前でレオが発した言葉に、ピタリと足を止めた。
「あなたが、メイトさん?」
まるで、メイトを誰かの口伝いにしか聞いたことがないかのような他人行儀な口振りに、メイトの顔から笑顔が消える。
「な、何変なこと言ってるんだよ? そうだ、メイトだよ。お前の兄貴だ!」
動揺し、震える声で言ったメイトに、レオは困った顔をして言った。
「はい。ダントさんから聞いてます。僕は、レオ、と言う名前なんですよね?」
それを聞いて、メイトはゆっくりと後ろのダントを振り返る。その時のメイトはきっと、神に祈るような情けない顔だった。ダントは腕組みをし、深刻な表情で口を開く。
「そうだ。その子は記憶を全部失ってる」
それから一ヶ月、メイトとレオはその病院で過ごした。家からレオに関係するありとあらゆるものを持って来て、メイトは自分の知っている限りのレオのことを毎日話して聞かせた。
ただ、その中で、ルイカのことだけは話さなかった。ルイカが見つからなかったからだ。
ダントは要塞を守る護衛兵の中でも上層部に所属している偉い人らしく、権力を行使して要塞中を探してくれたが、結局ルイカに繋がる手がかりも見つからなかった。あの混乱の中、外に出てしまったのに違いない。
ダントは見た目に寄らず親切な男で、「これは、お前の弟さんを蹴っ飛ばして記憶喪失にした俺の馬鹿部下の分だ」と言って、二人の治療代も当面の生活費も出してくれた。レオを蹴った男に飛びかかったメイトを止めてくれたのもダントだと、後に白衣の男に聞いた。その際、手加減を忘れて殴ってしまったので、あんな怖い顔をしながら、レオよりも長く眠っているメイトを心配していたんだ、ということも。
それだけではなく、「事情があったとは言え、お前さんの行動は褒められたもんじゃねえ。下手したら人殺しになってるぞ。力はそうやって使うもんじゃねえ。俺が鍛えてやる」と言い出し、メイトを護衛兵に入隊させてくれたのだ。彼の下で、メイトはめざましい成長を遂げ、今や要塞を預かる立派な重鎮となった。
母親たちの出陣で親を失った子供たちは、それぞれの住宅棟に一人はいた、面倒見の良い年配の女たちに預けられた。一気に複数の孤児を任された彼女たちの気苦労は想像に難くないが、彼女たちは立派に子供たちの世話をした。
記憶を失くしたレオのことも、護衛兵に対して傷害事件を起こしたメイトのことも、温かく包んで見守ってくれた。メイトが護衛兵の仕事で忙しい時も、何かとレオの世話を焼いてくれていた。
周りの人々の助けもあって、レオは少しずつ、記憶を取り戻しつつあった。
けれど、ルイカの記憶だけは思い出さないよう、メイトは細心の注意を払って彼に接していた。ルイカは大切な妹だ。思い出せば、絶対に、レオが悲しむ。
話し疲れたのか、レオは起きている時よりも数段幼い顔をして、小さな寝息を立てている。きっと、明日の朝には風邪も治っているだろう。メイトが心の中で昔のことを思い出しながら話している間、レオの方は睡魔と戦っていたようだ。
メイトはぼんやりとレオの顔を見つめた。
記憶がほぼ戻ってきつつあるとは言え、この八年間、レオはずっと十五歳であるかのような幼さを見せてきた。だから時々、錯覚する。今自分はまだ十七歳で、頼れる母親がいて、可愛い妹がいるんだと、そんな幸せな錯覚を。
元々身体が強い方ではなかったレオは、成人して何年も経つ今も、こうして時々風邪を引く。だから戦士として除外されているが、本人はそれを負い目に感じているようだ。
そんなことはないのに。こうして時々、レオが頼ってくれなければ、メイトは寂しさでどうにかなってしまいそうだった。
ゆっくりと、レオの顔から、部屋を温かく包み込む暖炉の火に目を移す。
あの暖炉には。
今、あの燃え盛る炎の中には、彼らの妹の写真がくべてある。写真だけではない。寝る前にいつも聞いていたオルゴールも、泣く時に顔を埋めるのが癖だったくまのぬいぐるみも、決して多くはない、彼女が大事にしていたものたちが、全て。
メイトはずっと、ルイカの消息を探していた。レオが記憶を失くしてしまってからも、ずっと。
戦士として経験を積み、外に出してもらう機会が増えてからは特に、何処かからひょっこりルイカが顔を出すんじゃないか、もしかしたら要塞の門のすぐ外にいて、自分に見つけてもらうのを待っているのではないか、と思えてならず、探すのを諦められなかった。
けれど一ヶ月前、決定的なものを見つけてしまった。
黒く変色した血にまみれたルイカの上着を、要塞から数キロ離れた枯れた森の中で見つけた。見つけてしまった。傍には、人骨が散らばっていた。ルイカのではない、と何度も何度も確認したが、裏地に彼女の母親が丁寧に縫い込んだ、彼女の名前を見つけてしまった。紛れもなく、世界でただ一つの、ルイカの上着だった。
ルイカを見つけたかった。こんな物を見つけるために、探していたのではないのに。
いつ『侵略者』が現れるやも知れぬ暗い森の中で、メイトは独り、泣いた。
帰って来てから、病院に検診という名目でレオを送り届けた後、自分の部屋に隠しておいたルイカのものを、全て暖炉の火にくべた。子供のように泣きじゃくりながら。
メイトは、『侵略者』を滅ぼすために外に出ることはしない、と決めた。ここを守るために、弟を守るために、ずっとここにいる。自分の力はそう使う。
けれど、とメイトは思う。いつか、『侵略者』たちがここを滅ぼしに来た時は、きっと自分は全力で戦うだろう。その時に、レオが隣にいてさえくれるなら。
レオもきっと勇敢に戦うはずだ。メイトが心配して止めたとしても、言うことを聞かないに違いない。
自分たちは格好良くあらねばならない、と、メイトは人知れず背筋を伸ばした。
もしも何処か彼方から、ルイカが自分たちを見ることがあった時、彼女が人に誇れる兄でありたい。
時計を見ると、ちょうど零時を過ぎたところだ。今日が昨日になり、明日が今日になった。
少し口元が緩む。まだ母親たちがここにいた頃、教えてくれた。平和な時代の今日のこの日は、聖なる特別な日だったそうだ。
昨日、レオが会った夢の少女は、ルイカだろうか。今日も会ってくれるだろうか。できれば、自分とも。
幸せな夢を見るといい。レオも、ルイカも。
メイトは、そっと身を乗り出して、タオル越しのレオの額に小さくキスをした。そして、外に降る黒い雪にしか聞こえないような小さな声で呟いた。
遠い昔のいつかの夜に、レオがルイカにしていたように。
「メリークリスマス。良い夢を」




