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あなたの足元は、まだアスファルトですか?――幸福な悪夢夢里(むり)への招待状  作者: 都桜ゆう


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第七章:校正済みの人生

 静かだった。

 あれほど街中に響き渡っていたアヤを称える数万の歓声も、現実を塗り替える際の耳障りな地鳴りも、今はすべてが遠い潮騒のように、輪郭を失って消えていった。


 視界を満たしているのは、柔らかな、どこまでも慈悲深い乳白色の光。

 私は、自分の手を見つめている。

 そこには、サオリという女が長年抱えてきた、ペンだこも、乾燥によるひび割れも、生活に疲れた爪の形も、何一つ残っていない。指先は透き通るように白くなだらかな曲線を描き、爪には真珠を溶かし込んだような繊細な光沢が宿っている。


 ――ああ、美しい。


 ふと、脳の片隅で、誰かが叫んだような気がした。


『戻って! それはあなたの手じゃない!』


 掠れた、ひどく耳障りな、醜い声。

 私は眉をひそめた。その声の主が誰なのか、もう正確には思い出せない。ただ、その声はサオリという、不吉で低俗な響きを持った名前に紐付いていることだけが、朧げに分かる。

 けれど、そのサオリという概念さえも、今は剥がれかけの古い壁紙のように、私の意識からヒラヒラと剥落し続けている。


「アヤ、顔色が悪いよ。まだ、あの悪い夢の後遺症が残っているのかい?」


 レンが、私の背後から腕を回した。彼の胸から伝わる拍動は、もはや鼓動などではなく、物語を刻むメトロノームのように正確で、冷ややかだった。だが、今の私にとって、その冷たさこそが唯一の正解であり、安らぎだった。


「……レン。私、なんだか、とても大切なものを、どこかに置き忘れてきたような気がするの」


 私の口から出た言葉は、アヤの、あの鈴を転がすような至高の旋律だった。自分の声なのに、自分の声ではない。いいえ、逆だ。今まで私が自分の声だと思っていた、あの低くて自信のないサオリの声こそが、喉に詰まった不快な異物だったのだ。


「何も置き忘れてなんていないよ、アヤ。君はただ、自分ではない誰かになりきって遊んでいた代償を払っているだけだ。

 あの暗くて、狭くて、愛のない場所……東京、だったかな? あそこは、君が自らの美しさを再認識するために書き出した、ただの習作だ。ゴミ箱に捨てた紙屑のことを、わざわざ拾いに行く必要はないだろう?」


「東京……」


 その言葉を口にした瞬間、私の視界に、一瞬だけノイズが走った。

 雨の夜。コンビニの青白い照明。一人で啜った、伸びたカップラーメンの湯気。締め切りに追われ、充血した目で眺めたパソコンのモニター。


 ――ああ、汚らわしい。


その光景を思い出すだけで、全身の細胞が激しい拒絶反応を起こす。あんな醜悪な場所が、現実であるはずがない。あんな惨めな生活が、私の人生であったはずがない。

 アヤとしての意識が、一気に膨張し、脳内の隙間を埋め尽くしていく。サオリの記憶は、もはや私の所有物ではなく、図書館の隅に放置された、破れかけの他人の日記のようになっていた。


 私は、街の中央に広がる聖なる広場へと歩き出した。足元に広がる石畳は、私の歩みに合わせて、祝福の歌を歌う。広場に集まった住人たちは、私を見た瞬間に跪き、地に頭をこすりつけた。


「「「アヤ様、お帰りなさい。我らが語り部、我らが世界の真実よ」」」


 その光景を見て、私は深い悦びに満たされた。そうだ。私は、選ばれた存在なのだ。この世界の法であり、唯一の真実であり、光なのだ。

 ふと、広場の噴水の水面に、自分の顔が映った。銀色の髪、知性を湛えた額、吸い込まれるような碧い瞳。……完璧だ。

 けれど、その瞳の奥の奥、暗い井戸の底のような場所に、まだそれはいた。


 小さな、縮こまった影。震える指で、必死に自分の胸をかきむしり、何かを叫ぼうとしているサオリの残滓。彼女は、最後の抵抗として、私の脳裏に強烈な痛みを走らせた。


――ズキン。


「……っ!」


 私は額を押さえた。痛い。サオリが、彼女の30年間の苦渋と執着のすべてを一点に凝縮し、鋭い針となって私の意識を刺している。


『私はサオリ! 私はアヤじゃない! 私はサオリ……私は……私は……!』


 彼女が名乗ろうとした、その大切な名前。

 だが、それを思い出すための神経回路が、背後に立つレンの冷徹な意志に同調するように、一本ずつ、丁寧に切断されていくのが分かった。彼がそこに存在しているだけで、世界の理が書き換わっていく。サオリの悲鳴は、形を成す前に語り部の滑らかな思考へと溶かされ、消滅していく。


「まだ抵抗するのかい、ゴミ屑くん」


 レンの声が、私の内側から響いた。恐ろしいことに、彼は私の外側に立ちながら、同時にアヤという人格の守護者として、精神の中枢にまで深く根を張っていたのだ。

 彼の言葉一つで、私の脳内にあるサオリの累積された記録が次々と不要と判断され、消去されていく。


 ――もう、痛くない。


 あれほど激しかった針の痛みは、いつの間にか穏やかな凪へと塗り替えられていた。


「アヤ、目をつぶるんだ。あの醜いサオリが持っている唯一の武器は、その惨めな未練だけだ。

 彼女の人生に、何があった? 誰に愛された? どんな功績を残した?

 ……何もない。ただ、誰かが作った物語をなぞり、誰かの顔色を窺い、独りで朽ちていくだけの、空っぽの器だ」


『違う……! 私は……私は確かにそこにいたわ! 誰かの言葉を直し、形を整えて……あのアパートで、私の生活を刻んでいた!』


 サオリの意識が、最後の力で校正者としての自分という概念を掴み取った。だが、レンはそれを、壊れた玩具を見るような目で冷笑した。


「ああ、あの細かな文字を追う受動的な作業のことかい?

 あれはアヤ、君がこちらの世界で本物の神話を紡ぐための、退屈な準備運動に過ぎない。君がサオリとして費やした時間は、すべてこの夢里という完璧な物語を構成するための、単なる下書きを整理する時間だったんだ」


 その瞬間、私の右手に、重厚で冷ややかな感触が宿った。


「君が握っていた無機質なペンは、今、アヤとしての銀の筆に変わった。その事実に抗う理由など、どこにもないはずだよ」


 私は、自分の手元を見つめた。そこにあるのは、サオリが仕事で使い古した、100円ショップのプラスチックのボールペンではない。この世界の理を書き換え、確定させるための、神聖な銀の筆。それは、サオリという人間の人生を修正し、完結させるための、残酷な支配の道具だった。


 私は、自分の内側に潜むサオリを見つめた。彼女はもう、言葉を失っていた。ただ、目から透明な、けれど毒のように熱い涙を流している。その涙が、私の白く美しい頬を伝い落ちる。


「……汚いわね」


 私は、冷淡に言い放った。その一言が、サオリの心臓に止めを刺した。

 自分の存在を、自分自身(アヤ)に徹底的に否定される。これ以上の絶望が、この世にあるだろうか。


 サオリの意識は、ガラス細工が砕けるような音を立てて消滅した。

 彼女が大切に抱えていた記憶の欠片――両親の控えめな笑顔、木村さんの不器用な励まし、誰かの物語を一番近くで支えたいと願った、校正者としての静かな矜持。それらはすべて、無意味な情報の断片として背景へと消えていった。


 ――私は。

 ――私は、誰?


 サオリだった影が、最期にそう問いかけた。けれど、それに答える者は、もうこの世界のどこにもいなかった。


 私の視界が、急激に解像度を上げた。広場の石造りの彫刻の一彫り、一彫りまでが、神々しいまでの存在感を放ち始める。空からは、白い濁りではなく、黄金の粉のような光が降り注ぐ。

 私は、ゆっくりと深呼吸をした。肺に満たされる空気は、甘く、清らかで、一点の不純物もない。


「ああ……世界は、こんなに美しかったのね」


 私は、確信した。今まで私が現実だと思っていた、あの重苦しくて灰色の日々こそが、深い、深い眠りの中の、たちの悪い悪夢だったのだ。私は今、ようやく目覚めた。長い、長い彷徨を終えて、本来の玉座へと戻ってきたのだ。


「おめでとう、アヤ。完璧な目醒めだ」


 レンが私を抱きしめる。今度は、その絶対的な冷たさが、この上なく心地よかった。この世界の住人には、生温かい血など必要ない。物語を動かすための、純粋な意志と、美しい設定さえあればいい。


 私は、ふと足元に落ちている、場違いなほど小さな物体に気づいた。それは、サオリが最後まで握りしめていた、古びた、色あせたお守りだった。


(……お守り?)


 私はそれを拾い上げ、不思議そうに眺めた。中には、汚れた文字でサオリと書かれた小さな紙片が入っている。


「……サオリ? 誰かしら、それは」


 私は首を傾げた。その名前を口にした時、胸の奥で一瞬だけ、微かな痛みが走ったような気がした。けれど、それは風が吹いて肌を掠める程度の、取るに足らない感覚。

 私は、そのお守りを汚物でも扱うかのように、無造作に噴水の中へと投げ捨てた。

 ポチャリ、と小さな音がして、お守りは水の底へと沈んでいった。水面に広がった波紋は、すぐに消え、再び鏡のような、何一つ汚点のない静寂が戻る。


 私の脳内から、最後のサオリという署名が完全に消去された。彼女がいた場所には、今やアヤとしての完璧な歴史が、金色の文字でびっしりと上書きされている。

 私は、自分が東京で働いていたことも。校正という、他人の言葉を拾う仕事をしていたことも。サオリと呼ばれていたことも。

 すべて、忘れた。いいえ、最初からそんな低俗な事実は、この宇宙に存在しなかったのだ。


「さあ、アヤ。今日の、そして永遠の物語を始めよう」


 レンが促す。私は優雅に頷き、聖なる広場の演壇に立った。数万の住人たちが、息を呑んで私を見つめている。

 私は、銀の筆を掲げ、白く濁った空に最初の一行を綴った。


『むかしむかし、あるところに、鋼の街を夢見る悲しい影がありました。

 けれど、その影は、光に照らされて消えてしまいました。

 そして、世界は永遠の幸福に包まれたのです――』


 私の声は、世界中に響き渡った。

 もはや、境界はどこにもない。夢が現実を飲み込み、消化し、完全に同化した。


 私は、アヤ。

 私は、物語そのもの。

 私は、この美しい悪夢の、唯一の正解。

 サオリ。その名前を持っていた何かは、もう、どこにもいない。


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