9話 吉田は惑う
佐藤が感情を露わにしているところを、俺は初めて見たかもしれなかった。
佐藤が、泣きわめいている。佐藤が、叫んでいる。佐藤は俺のことが、本当に大嫌いなのかもしれなかった。
時折、佐藤が口に出す≪タカユキ≫という名は、俺の周囲でも話題に上ることがあった。それが誰かは、佐藤に聞いても答えてはくれなかった。今日初めて知ったことは、俺とその≪タカユキ≫が似ている、ということだ。単なる偶然だが、俺の下の名前も≪タカユキ≫だ。貴族の貴に、幸せと書いて、タカユキと読む。俺は名字で呼ばれてしまうタイプの奴だから、基本的に下の名前を自分からは名乗らない。佐藤も俺の下の名前は知らないはずだ。俺は教えていないから。
「タカユキじゃないのに」
と、佐藤が言った。俺の名前はタカユキだ。でもそれは佐藤の知らないことだ。そして佐藤が≪タカユキ≫と呼んでいるそいつは、俺の知らない誰かで。難しい。
「佐藤」
佐藤の肩に手を置いた。思ったより細くて、弱そうで、今にも折れてしまいそう。雨のせいか冷たくて、佐藤の目は濡れていた。
「…………吉田さんの人たらし。……馬鹿、クズ!……何が、佐藤は佐藤、だよ!」
佐藤は俺の目を見てはくれなかった。佐藤は普段、何かにとりつかれているのではないか、と思うくらい、人と目を合わせないと会話ができない人間だ。だから目を合わせられないときは、必ず何か、深い闇なり、傷なり、人に見せられない何かが隠れている。
「佐藤は俺に、何を求めてるの?」
いつか、里咲に聞かれたように、聞いてみる。それは好奇心で聞いているのではない。純粋に、佐藤が自分で自分に、折り合いをつけてほしいから、その手助けをするために。
「佐藤は俺に、何をしてほしいの」
佐藤は唐突に、傘を持っていた俺の左手に、自分の右手を重ねて、
「吉田さん…………、私、吉田さんが好きです」
愛の告白を、始めた。
佐藤の手の冷たさが、左手からいなくなった。佐藤は下を向いたまま、しばらく黙っていたが、
「私前に、こういう告白、したんです。……あの、振られるってわかってるっていう、そういう、告白を」
たどたどしい言葉を、紡ぎだした。それはまるで俺に向けられた言葉ではなく、≪タカユキ≫という誰かに向けられた、懺悔の様で。どうして、意地の悪い質問をしてしまったのだろうと、後悔した。
「……先生が相手でした。独身だったんだけど、年上の人が好きな人で。……司書の人と、付き合ってたの」
佐藤の苦しみを受け止めてあげるだけの度量は、多分俺にない。佐藤の辛いという経験を、俺はしたことがないから。
「付き合ってほしいみたいな意味で、好きって言ったんじゃないのでそこは……あの……」
佐藤の顔が赤かった。それは恥に耐えている赤さなのか、ただこの寒い中にいて体温が上がってしまったが故の赤さなのか。俺には判断しかねた。
「……俺も佐藤は好きだよ。里咲とは全然違う意味で」
佐藤が息を吐いた。綺麗だった。佐藤は俺を見上げて、よかった、と言った。佐藤の目は、言葉とは裏腹に、悲しそうに、辛そうに、潤んでいた。