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死後(デッドイン)  作者: 糞袋
第四章・断罪
113/113

砂の混ざった雪だるまはテンション下がるぐらい汚い

 そう思いませんか。

 しんとした夜である。月はもう随分と傾き、太陽に空での居場所を譲ろうとしている。

 真っ暗である。都市部は依然として明るいが、このアパート・サリヴァンの付近は闇に包まれており、人の影も無い。皆、寝ているのだろう。

 アパートの手前、黒い道路はまるで時でも止まったのかの様に、その景色を動かさない。数時間前より、ずっとそうである。静かな道路は、まるでそれで完成しているとでも言うように、無音と無人を誇らしげに湛えて――。

 そこに、どろりと何かが溢れた。

 液体、である。茶色と黒の中間にある様な液体が、次から次に湧き出す。粘性をもったそれは、瞬く間に湧いた地点から盛り上がり、

 人の形を成した。

 人の形と言っても、それはシルエットがあくまで似ただけであり、細部は全くと言って良い程に違う。目、耳、口があるべき箇所には、昏い空洞が存在するばかりである。眼球、耳たぶ、唇。その他の人の特徴を形成する要素は、ことごとく欠落している。

 四肢はある。しかし、それはまるで子どもが怠けて作った泥人形のように、指の造形も歪で、脚に至っては膝関節のある円柱のようであった。

 それが、のっぺりとした足裏でもって、一歩踏み出した。アパートに向かって、である。

 その泥人形が向かったのは、アパートの正面ではなく裏側であった。泥人形の歩行速度は存外に早く、あっという間に建物の壁の手前まで来ると、その両掌をぺたりとつけた。

 そして、まるでヤモリのように壁に張り付き、ペタペタと平面を移動し始めた。

 移動しながら、それは空洞の両の眼で、ベランダを覗く。ベランダ越しに、部屋の中の様子を伺う。伺いながら、また移動する。これを繰り返す。無音で繰り返す。

 止まったのは、103号室のベランダの前であった。

 ダイゴとレアが眠る部屋の、前であった。

 音もなく、透明なガラスの引き戸に張り付く。それから、その泥人形は己の指を、戸の隙間に当てた。

 すると、見る見るうちに指の腹は薄くなって、隙間を通り抜けた。その板のような泥の指先がするりと伸び、戸に付いた鍵の方へ。

 がちゃり。

「そこの住人に用があるのかい」

 泥人形の頭上に、声が降ってきた。

 その声は泥人形にも聞こえたようだった。耳の箇所に開いた穴から音を拾い上げたそれは、目の箇所に開いた穴を上へ向ける。

 そこに居たのは――。

「まさか、愛の告白でもしにきたのかよ。お前の性別や告白の対象によっちゃ、ホモかロリコンだなあ。嫌いじゃねえよ、そういう性癖は。中々、ロックな性癖だからよお」

 ギター片手に口角を吊り上げる、オールバックの男の姿であった。

 キーオの姿であった。

 だがよお。キーオは口角を少しばかり下げて、言った。

「こんな時間にこっそりとってな、ちょいとおどおどしすぎじゃねえか。もっと堂々としようぜ。それとも何か、寝込みを襲って無理矢理ってハラか。流石にレイプは不味いぜ、レイプは」

 そこで人形が、再びどろりと溶けた。黒茶色の液体が素早く壁を昇り、キーオの方へ。即ち、アパートの屋上へと流れた。

 アパートの屋上には、特に何もない。掃除もそれなりになされているようで、あまり汚れてもいない。ただ風に運ばれたいくらかの砂で、少々じゃりじゃりとするばかりである。

 そのじゃりじゃりとした砂の上で、泥は再び人の形を象った。

 それを見て、キーオの口角は再び上がった。

「あらま、お前もしかして、俺に用があんのか。だったら良い時に来たぜ。丁度月が綺麗だもんで、ギターでも弾こうと思ってたとこだ」

 泥人形は何も言わない。その口にある空洞に、発声機能があるかどうかは分からぬが、ただ無言を貫き通す。

 静かな観客に対して、キーオは自分の手元にあるギターをくるりと回転させ、両手に携える。左手がネックに、右手がボディーに。直ぐにでも弾けるような体勢をとる。

 きっとこれが、彼の臨戦態勢なのだろう。それとも、本当に目の前の泥人形に対して、己の響きを聞かせてやりたいだけなのか。

どちらにせよ。

「楽しんでいってくれや。騒音の苦情は必至だが、そんなのに怯む俺じゃねえぜ」

 ひどく、迷惑な話である。

 草木も聴かぬひっそりとした深夜の音楽会は、まず屋上の地面に沸いた泥によって始まった。

 キーオの瞳が泥の盛り上がりを映す。その盛り上がりは二つであった。既に出来ている泥の人形の後ろに、二つ。それらは直ぐに、同じように人の形を形成した。

 同じ形をした泥の人形が、これで三体出現したことになる。どうやら、これは一人の人間が泥の人形に変化したというよりは、一人の人形が複数体の泥の人形を召喚したという可能性の方が、高いようだ。キーオの目がそう語っていた。そしてその目は、少しつまらなそうであった。

「こりゃあ、直接心象の使い手が来たわけじゃねえみてえだな。全く、ライブの良さが分かってないと言わざるをえんぜ。CDや動画サイトへの違法アップロード、ダチの口伝えで満足しようとすんじゃねえや」

 その軽口が終わるよりも先に、一番先頭に立っていた泥の人形が、倒れ込むようにしてキーオとの距離を詰めてきた。

 勢いそのままに、粘性を帯びた拳が、顔面に向かってくる。キーオはそれを避けようとはしなかった。今までの相手の動作からして、向かってくるそれの硬度が大したものではないと、だから避けるに値しないと、そう思ったのだろうか。ともかく、彼は動くことなく、泥人形の拳を待った。

 その時である。キーオの目の前で、迫ってくる茶色い塊は少し、小さくなった。縮小したそれはキーオの鼻頭を捉えると、“確かな硬度”と共に、彼を殴り飛ばした。

 鼻から血を迸らせながら、キーオの体が宙を舞う。彼は特に受け身を取ることもなく、無造作にどさりと、屋上の地面に落ちた。

 それだけであった。

 次の瞬間、キーオは何事もなかったように、反動をつけて飛び上がるようにして立った。そして、鼻血を拭いながら笑った。

「何だ、思ったより良いパンチしてんじゃねえか。ロックだなあ、おい」

 泥人形は何も言わない。己の十分な硬度を持った拳が、十分な速度で以て殴ったのにも拘わらず、目の前の男はぴんぴんしている。そんな状況を前にして、何も言わない。

「しっかし、便利なもんだなあ。その泥の体、柔らかくすることも、固くすることも出来んのかよ。ま、大方泥に含んでる水分を調節できるとか、そういうカラクリなんだろうが」

 己の形態変化のシステムについての考察を垂れられても、何も言わない。それが正解か不正解か、それを答える必要性も利益も、どこにもないからだろう。

 泥人形は無言のまま、再びキーオに向かって駆けた。そして、先程と同じ体重の乗ったジョルトブローを放つ。硬質化させた右拳によって、である。

「活きが良いなあ。楽しいライブ客だぜ」

 その拳を、キーオは左掌を相手の手首に押し付けるようにして、軌道を逸らした。破壊力の分かっている攻撃を、敢えて受ける必要はない。そう考えたのだろうか。

 また、彼はそれだけには留まらず、右腕で逆手に持ったギターを、横に払った。まるで枝きれでも振る様な軽さと速さで動かされたギターは、しかし確かな重量をその内部に秘めていた。

 結果、キーオのギターは泥人形の腹部を薙ぎ払い、その上半身と下半身を繋ぐものが、泥の糸引き数本という状態にした。

 だが、それで終わりではなかった。後ろに泥の人形が、まだ二体控えているから、と言う訳ではない。単純に、

 攻撃を受けた泥人形の腹部の空白が、直ぐに断面から湧いた泥によって埋まり、元通りになったからである。

 自己再生を終えたその個体は、拳を上段に振りかぶって、相手の頭部目掛けて打ち下ろした。石のように固いその拳が、キーオの頭蓋骨を捉え、首を強制的に下へと曲げさせた。

 影が伸びるように、後ろにいた泥人形が静かに素早く前進し、キーオに向かって拳を出した。それは左右からくる攻撃であった。一体が右フックを、もう一体が左フックを、それぞれキーオの俯いた頭部へと放ったのである。双方向から力を加えることで、キーオの頭を潰す気なのだ。

 髪に風を感じたところで、キーオは思い切り背を逸らした。結果、彼は頭頂を床に自ら叩き付けることになったが、それでも床より硬い二つの拳を回避することが出来た。

 追撃は来なかった。キーオの眼前に立っている三体の泥人形、その全ての腹が抉られていたからだ。ブリッジと同時に彼は、ギターを返す刀で再び振り払ったのだ。

 それがどうしたと言わんばかりに、三体の泥人形は自己再生を始める。上半身と下半身がごぼりごぼりと繋がっていく。

 そんな三体を他所に、キーオは素早く横に転がると、勢いよく立ち上がった。動きの一つ一つがばねの様に忙しない。

「良いなあ。楽しいぜ」

 キーオは純粋に、とても純粋に笑った。その言葉通り、彼は掛け値なしに、この戦いを楽しんでいるようであった。体を石のように固められ、かつ何度でも自己再生できる泥人形を、しかも後から後から追加される可能性の高い泥人形を、目の前にしながらである。

 それが意味する可能性は二つ。一つ、キーオが逆境すら楽しめるような、非常にロックな精神の持ち主であるという可能性。

 一つ、キーオにとって今の状況は、逆境でも何でもないという可能性。

「んじゃあ、余興は終わりだ」

 そして彼は、泥人形を相手取って初めて、ギターの弦に手をかけた。


〈俺達は翔べる(ウィーキャンフライ)〉


 アップテンポな曲が、その紫と黒のギターからぎろんぎろんと奏でられる。その音一つ一つが、まるで透明な繭のようにキーオの体に被さっていき、その重なりに引っ張り上げられるようにして、彼の体は宙に浮いた。

 この曲は、キーオに見えない翼を授けるものなのだ。

 瞬間、自己再生を終えた泥人形の内の一体が、彼に向かって走り出した。何かアクションを起こされる前に、潰してしまおう。そう考えたのかもしれない。とにかく、泥人形は風のようにキーオに接近すると、勢いそのままに宙に浮いた彼へと飛び掛かった。

 キーオは特に何をするでもなかった。ただ、姿勢はそのままに数メートル、上へと空間移動しただけであった。それだけで、泥人形はキーオを捕らえることが出来ずに、地面に着地した。

 だが、泥人形の行動はそれで終わりではなかった。着地した勢いで大きく膝を曲げると、そのまま空にいるキーオに向かって跳ね上がったのだ。その勢いたるや、キーオが先程の速度で上空へと空間移動をしても、中途で捕まってしまうと思われるほどのものであった。

「真っ直ぐだなあ、お前」

 それでもキーオは、凄まじい速さで接近してくる人形に慌てることなく。宙に浮いたまま、右手でネックを掴み、ギターを振り上げた。間髪入れずに、彼の左手の指がまるで別の生きもののように蠢いて、六本の弦を爪弾く。

 そして生まれた曲は、燃え盛る様なサウンドで構成されていた。


〈突っ走り(ランニングファイア)


 泥人形に目はない。空洞があるばかりである。だが、もしもその茶色い眼窩に潤った眼球が嵌っていたならば、それは紫色に輝いたことであろう。

 月の柔らかな光の下、毒々しい色のギターに、激しい炎が灯った。

 紫色の火炎を纏ったギターを、キーオは泥人形に向かって振り下ろす。刹那、ボディーからいくらかの炎の束が分離して、蛇のような軌道を描きながら泥人形へと襲い掛かってきた。

 人形は空中で体の向きを変えることも出来ず、その熱に飲まれた。数秒後、動かなくなった泥の塊が、ごとりと屋上の地面へと落下した。

「やっぱり、水分でもって硬さを調節してたんだな。こんがり焼いたら固まって、動かなくなっちまったぜ」

 宙に浮きながら、キーオは下にいる二体の泥人形を見る。その関節部分を見る。彼の視界に映る茶色いその部位は、どうやら水分が多く含まれている箇所のようであった。

「人間の動きを再現するためには、柔らけえ部分が必要になるからな。それを水気含んだ柔らかい泥で代用したんだろ。んで、殴る時には水気抜いた固い部分で殴る。うん、単純明快だ。何の矛盾もないぜ」

 まあ、全部が固まったら動けなくなっちまうみたいだがよ。そう言って、キーオは下に転がっている黒焦げの人形を見下ろす。

 その時である。転がっている黒焦げの人形から、夥しい白い煙が湧き出した。

「おっと、こりゃあたまげた。黒焦げになっちまっても、心象使ってる奴の胸三寸で、追加の水分を含みこませることができるみてえだ」

 でも無駄だぜ。キーオはまだ動ける二体の泥人形を見て、その向こう側にいる心象の使用者を見て、言った。

「その黒焦げの泥人形の中に、火を残してある。心象で作った火だ、その人形が炭になった後でも、俺の意志次第で延々と燃やし続けることが出来んだよ。だからお前が水気を生んだ傍から、蒸発させてんだ」

 もっとマジになって水気を加えねえと、片っ端から水蒸気だぜ。キーオは楽しそうに笑った。

 次の瞬間、焦げ付いた泥人形は跡形もなく消失した。まるで蠟燭の火が消えるように、あっという間に消えた。心象の使用者が、魂気の供給を絶ったのだ。これ以上残しておいても仕方が無い、そう考えたのだろう。

 代わりに、残された二体の泥人形の周囲に三つ、泥の盛り上がりが出来た。次の瞬間、泥の人形は五体になっていた。

「客が増えんのは嬉しいなあ」

 増援を前にして、それでもキーオは軽口を叩く。その手には紫の松明のようなギター。振り下ろす。毒々しい焔が、弧を描くように相手に迫る。

 これが直撃すれば、泥人形達はなすすべなく固まってしまう。増援も無意味になるだろう。そんな未来が容易に予想できる現状、この一瞬。

 それを前にして、まず四体の泥人形が動いた。それらは残りの一体と炎の間に割ってはいる様に立ち塞がって。

 ばしゅう、と弾けた。

 四体の泥人形が、まるで空気に溶ける煙のように、その場で体積を増やしていく。そして、どうやら彼らは体積を増やすごとに、色を薄めているようであった。まるで、泥が多くの水を含んで、色の薄まった泥水となっていくように。

 あっという間に、四体の泥人形は膨大な量の泥水へと変化した。そしてその質量で以て、火炎を迎撃した。

大きな蒸発音と共に、もうもうと水煙が上がっていく。煙とキーオとの距離が、詰まっていく。

そして、その距離が一メートルを切った時、煙を抉るようにして、泥人形が飛び掛かってきた。助走は十分についているようで、その速度はかなりのものであった。

ギターを横に凪ぐ。キーオに動揺は見られない。急に目の前に現れた泥の塊へ、火炎を放つ。

刹那、泥人形が再び弾ける。だが、先程の泥水と比べると、ややその色は濃く、体積も小さい。どうやら水分の含有量が少ないようだ。

液体と固体の中間のような泥は、火炎で一部を焦がされながらも、残りの部分の流動性でもって、キーオの体に纏わりついてきた。

そして、石のように固まった。

「やるなあ、お前」

 キーオが感心したような声で呟く。その声のトーンとは裏腹に、彼の状況は厳しいものとなっていた。

彼の両肩から十指に掛けて、満遍無く泥がへばりついていた。しかもその泥は、先程の泥人形の拳のように硬質化している。岩の中に両腕が埋まったような状況だ。当然、その箇所を動かすことは出来ない。

それは即ち、今の彼が腕でギターを弾くのは、不可能であるということだ。

「ライブ客だったら、まあこの上なく不正解だけどよ。でも、敵だったらこいつは大正解だ。敵をぶっ倒す上で、敵のアクションを封じ込めるなんて、定石中の定石だしよ」

 その軽口の間に、再び彼の前に泥人形が生まれる。その数は四体。動きを封じる役割を果たしているものを合わせれば、五体。

「お前が誰かは知らねえけどよ。今お前がやったことは、今お前が知ってる情報束ねて出せる一番正しい行動だと思うぜ。やるなあ、お前」

「そのお喋りは時間稼ぎか」

 そこで、初めて一体の泥人形が喋った。というよりは、泥人形の口に開いている穴が、まるでスピーカーのように、何者かの声を伝達しているようだった。それは、低い男の声であった。

「何だ、お前喋れんのかよ。俺ぁてっきり、その泥人形にそんな機能ついてないもんだと思ってたぜ」

 目を丸くしたキーオの言葉に、泥人形は何も答えない。ただ、一方的に喋る。

「時間稼ぎだとするならば、とっとと片付けた方が良さそうだ」

「片付けるって、どうすんだ。殺すのか?」

 キーオが軽い調子で問う。泥人形は答えない。キーオが続ける。

「殺しても良いが、お前直ぐに捕まるぜ。この世界は死んでも終わりじゃねえからな。死人に口なしは通用しねえ。それとも、あれか。もしかしてお前、この世界の法的機関を、例えば獄犬敵に回しても構わねえくらいに、でかい組織に入ってんのか。昇る太陽か? それとも無限大蛇?」

 泥人形は答えない。キーオはまた続ける。

「でもよ、獄犬本気にさせたらヤバいぜ。どんな巨大組織に居ようが、地獄の果てまで追っかけて、お縄にしちゃうぜ。それに、すっげえ高ぇ地位にいる奴なら分かんねえけど、大体の構成員は組織の方から切り捨ててくんだろ。だってそうだろ、獄犬敵に回して発生する被害と、構成員一人を組織に残しておく利益じゃ、前者の方が甚大だもんな」

「その靴を脱いでいるのは、逃げる為か」

 泥人形の言葉に、キーオは悪戯が見つかった子どものように笑った。

「俺のトークに聞き入らせて、足から集中逸らせようと思ってたんだけどなあ。ばれるとは思わなかったぜ」

「その靴を脱いで、何になるんだ」

 キーオの軽口を無視して、男の声は続けられた。

「飛ばして、俺の視界を遮るつもりか。だが、そんなことをしても意味はないぞ」

「知ってるよ。だって俺の靴は二つ。お前は四人。どうやったって、無理だよなあ」

 にやにやと笑うキーオ。その表情は、楽し気だ。

「じゃあ、何で靴を脱ぐんだ。裸足になった方が、早く逃げられるとでも思ってるのか」

「馬鹿野郎、こんなにじゃりじゃりしたとこで、誰が好き好んで裸足でお前と追いかけっこなんかするかよ」

 てかさあ、とキーオが言う。

「お前が急に喋り出したのは、勝ちを確信したからだよな、多分。そりゃあ流石に甘いぜ。油断しすぎだ。大不正解だ。ライブ客相手にも、敵相手にもやらねえ方が良い」

 先程までよく喋りながら戦闘を行っていた男のものとは思えない発言である。

 そんな彼の行動と発言の不一致に対しては特に言及することなく、泥人形は言葉を紡ぐ。

「甘いっていうのは、どういうことだ。この状況で」

勝つつもりかよ――。泥人形の言葉には、男の言葉には、ある種の確信が見え隠れしていた。きっと彼は、今のキーオの言葉通り、勝ちを確信したからこそ喋り始めたのだろう。

そして、その確信は正しいものである。武器を用いて戦う相手から、その武器を振る腕の自由を奪い取ったのだから。肉弾戦に持ち込まれる場合もあるが、それでも両腕を動かせない相手との近距離戦など、大して怖くはない。

 だから、彼の雄弁は基本的に肯定されるだろう。雄弁に至るまでの状況づくりは、肯定されるだろう。

「ったりめえだろうが。そうじゃねえと、ロックじゃねえ」

 相手が、キーオでなければの話であるが。

 刹那、砂利が巻き上がる。屋上に散らばっているそれらが、月光に煌めきながら方々に吹き飛ばされる。その星屑のような砂粒の中で、

 キーオの体に絡み付いていた泥の塊が、粉々になって弾け飛んでいた。

 空気が震える。振動の源は、音。音の源は、

 キーオの足元に出現した、毒々しいギター。

「足でギターが弾けるのかよ、お前は」

 泥人形が喋る。目の前で自分の心象が粉々にされているにも拘わらず、その口調は冷えている。生身で戦っていないからだろう。キーオとその声の主との距離が、そのまま落ち着きに還元されているようである。

「そうだよ。ロックだろ?」

 一方のキーオもまた、弾んではいるが落ち着いた声で言った。その顔は若干紅潮しているが、脳細胞は冴え渡っているのかもしれない。

「しかし、まだまだ慣れてなくてよ。足じゃあ複雑な曲は弾けねえんだ。だから、今のみたいな単純明快な曲しか使えねえ」

「それは俺に言っていい情報なのか」

 泥人形の言葉に、キーオが笑う。

「お前がどこの組織の人間かは知らねえけどよ。お前がどやどやと仲間引き連れてくるまでに、練習して弾けるようになっとく。だから言ったって問題ねえ。それに今は」

 この曲だけで十分だと、彼は続けた。それは不敵な挑発のようでありながら、どこか期待のようなものが垣間見えるものであった。こんなことを言われて悔しいだろう、悔しかったらもっと全力で挑んで来い、というような。

 泥人形はその熱を持った挑発に対し、沈黙と接近によって答えた。喋っていた個体が、一人キーオに向かって疾駆する。

 それを、やはり彼は笑顔で出迎えた。その足には依然としてギターがあり、その弦には五本の足指が引っかかっており。

「やっぱ一番気持ちが良いのはよ」

 その指でもって彼は、

「力任せに、弦を開放することだよな」

 勢いよく、地に臥すギターを引っかいた。


全身全霊(ハートビート)


 力一杯引っ張られた六弦が、弾性の解放と共に暴れまわる。その荒々しい蠢動が空気を揺らす爆音を生み出し、爆音は周囲の空間を弾き飛ばすほどの衝撃波を吐き出した。

 ギャウンッ! という音と共に、男の声を奏でていた泥人形は粉微塵になって吹き飛んだ。その衝撃波は水は水のままで、塊は塊のままで、それぞれ粉々にしてしまいそうなほどの圧を含んでいた。  

そして実際、その余波によってキーオの背後に生まれようとした泥水の盛り上がりも、霧散してしまっていた。

 土煙と水煙の複合の中で、人影が一つ。それはどうだよとでも言わんばかりに、不敵な笑みを作っている。キーオは口の端を吊り上げながら、言った。

「な、言ったろ。この曲だけで十分だってよ」

 さあ、どうする。次はどんな手で来る。目が爛々と輝き、そう語っている。

 だが、彼の瞳の光は長くは続かなかった。形勢が逆転したからではない。仮にそうなったからと言って、彼の瞳は闇に飲まれることなく、むしろ一層輝くであろう。ならば、どうして彼の瞳から光が絶えたのか。

 どろりと、彼の数メートル向こう側に一体の不定形が出現した。それは土の色をしていたが、人の形は成していなかった。戦う形を、してはいなかった。

「参った」

 非戦闘的な造形の泥は、その向こうにいる男はあっさりとそう言った。そこからお道化は感じない。淡々と、事実を述べているような、そんなトーンでの降伏であった。

 一方のキーオは、まるで友人と遊んでいるのを何らかのアクシデントで中断せざるをえなくなった子供のように、非常に私的な不服を、その唇の尖りにて表現した。

「何だよ、もう終わりかよ。まだまだやれるだろーが。お前が戦わせてんのは泥人形で、ぶっ壊れるのも泥人形。お前には蚊に刺されるよりも安全な行為なんじゃねえか。この戦いはよ」

「勝てない上に意味のない戦闘だ、これは。そんなことをしたって、時間の無駄だ。そう判断した。それだけのことだ」

 うぞうぞと泥人形は言う。どこまでも打算的で冷静なその言葉に、キーオは更に唇を尖らせる。しかし、そんな彼の表情の変化にも感情の変化にもまるで興味がないというように、その不定形は言葉を媒介した。

「お前、強いな。何なんだ、お前」

 その言葉は、意外なことに称賛であった。キーオは少しだけにやけた。それが演技なのかどうかは分からない。ただ、次に発せられた彼の言葉は、その声色は少々踊っていた。

「ロッカー兼獄犬隊員の、キーオってんだ。イカすだろ?」

 泥人形はキーオの心情を共有することなく、言った。

「良いのかよ、そう簡単に素性を明かして」

「後ろめたいことがねぇからな。それに、隠してうじうじすんのは性に合わねえ。少しのデメリットとテメェの性なら、俺は性を優先するぜ」

 胸を張って鼻息を放つキーオに対し、次に放たれた泥の言葉は若干の低温を帯びていた。

「馬鹿なんだな」

「ロックだ」

「じゃあそれでいい」

 泥は否定しない。ただ言葉を続ける。

「なあキーオ。お前はどうして、俺と戦った。獄犬が悪人と戦うのは当たり前だとか、そういう理屈で動くようには見えないがな」

 馬鹿野郎、とキーオは肩を竦めた。まるで旧知の悪友に対してするような、冗談めかした仕草であった。

「俺だって、これでも組織の人間だぜ。気が向いたら、組織にスジ通すさ。今回だって、結構気が向いてたんだ」

 そう言ってから、キーオは視線を少し下に逸らした。

「だが、まあそれだけじゃねえよ」

 泥はそんなキーオの視線の移動を、彼の隙とは判断しなかったらしい。依然として不定形のまま、問う。

「じゃあ、他にどんな理由があったんだ」 

 その質問の意図は汲めない。キーオにとっても、そうだったのだろう。彼は人の心を読む心象の保持者ではない。だが、キーオにとってはそんなことどうでもよかったのだろう。聖職者に、受刑者に、神に、悪魔に言うように、彼は泥に対してもこう言った。

「お前が入ろうとした部屋の住人な、俺のダチなんだよ」

 泥は答えない。反応しない。聞いているのかも分からない。それでもキーオは視線を下に、下で眠っているであろう自分の友人に向けつつ、続けた。

「そんでよ。よく分かんねえんだけど、俺そいつを知らんうちに悩ませちまってたみたいなんだわ。俺ぁ、よく考えずにもの言う癖があるからよ」

 この癖は死ななきゃ治んねえな。キーオはそう言ってから、もう死んでるからその希望も潰えてんのかと、歯を剥いて笑う。泥はその行動を反映させることなく、言う。

「罪滅ぼし、と言ったところか」

「違ぇよ」

 キーオは笑みを深くする。それは誰に対する嘲笑でもなかった。ただ、彼は笑った。笑って言った。

「単に、俺の知らんうちに悩ませちまってたみたいだから、あいつの知らんうちに助けてやろうと思っただけだ。そうすりゃ何か、フェアっぽいだろ」

 ま、今掲げてるこの理屈も、明日になったら忘れてるかもしれんがよ。キーオは言う。笑っている。

「刹那的だな」

 泥は言った。キーオが下で眠る少年を、ダイゴを助けた理由は一日限りのものかもしれない。そんな期間限定の動機で、余裕があるとは言え、無機質な泥人形複数相手に大立ち回りが出来るものなのか。そう思ったのだろうか、それとも呆れたのだろうか。あるいは、キーオのことを狂っているとでも判断したのだろうか。そんな内情など欠片も匂わせず、泥は声をキーオに渡した。

「刹那に命懸けるのも、ロックだと思わねえか」

 無味無臭な言葉に対して、あくまでキーオは自分の匂いをふんだんに纏った答えを返した。誰が相手でも、この男は同じようにするのだろう。そんな考えを抱かせる空気を、今の彼は纏っていた。

「俺は思わないよ」

 泥はそのキーオの色をした空気ではなく、外気という化学式で証明できるレベルの現象ばかりを含みこみ、数多の気泡をその身に拵えながら、ただ、と漏らした。

「少しだけ、羨ましいかもな」

 水気を帯びた気泡が煌めいた。それだけであった。

 数多の気泡を押しつぶしながら、泥が潰れていく。底面から順々に、消失していく。

「じゃあな、獄犬。精々、星の数ほどいる転生者の組織に、限られた目玉凝らしとけ。疲れた時に、その首落としてやるよ」

 最後の捨て台詞には、人間の温度が感じられた。そんな声であった。

「おう、今度は生身でやろうぜ。その方がロックだからな」

 刹那の人間味に対し、キーオは未来永劫続くであろう彼らしさが滲んだ言葉を返した。それが届いたのかどうか分からないまま、泥は掻き消えた。後には屋上の砂粒ばかりが残った。

「このことは明日になったらダイゴに伝えてやろ」

 知らないうちに云々というのは、どうやらダイゴが眠りこけているこの数時間限定の理屈であったようだ。直ぐに遠のくであろう彼の刹那を、下に転がる塵芥のみが見つめていた。



 石の混ざった雪玉を当ててくる人も、意識レベル下がるぐらい汚いと思います。

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