そして歪んだ歯車は回り始める piangente -泣くように-
全然進みませんでした
「……ただいま」
「お帰りなさいませ、奥様」
疲れた様子で帰ってきた女を、一人の侍女が迎え入れる。広い屋敷の玄関で、たった一人の出迎えは異様だ。しかしそれが、この家のいつも通りの姿だった。
「奥様は止めてって言ってるでしょう…」
頭を下げる侍女に、首を降りながら嘆息する。
「申し訳ございません」
女の言葉を受けて頭を下げ続ける侍女に、女はちらりと目を遣った。侍女の黒い髪が一筋、さらりと零れる。
自分には似合わないと知りつつ、女が密かに憧れている清らかな黒髪だった。
それを自然に目で追い、溜息を吐く。
「…ごめんなさいね、八つ当たりだわ」
女は自身の額に手を当て、目を瞑った。
夫を亡くした女にとって、『奥様』と呼ばれることは苦痛以外の何物でも無かった。しかし、かと言って『お嬢様』と呼ばせる訳にもいくまい。
『御主人様』も却下だ。
彼女の『御主人様』は、別にいる。
勿論、現在侍女を雇っているのは自分であり、その権利として『御主人様』と呼ばせることは可能だったが、それは気が進まない。
ならば、『奥様』で我慢するしかないのだ。
そう、自分に言い聞かせて、侍女から目を逸らした。
「…じゃあ、私は部屋で夜会の支度をしているわね」
「…あの、奥様。子爵様からお手紙が届いておりますが。いつものように廃棄いたしますか?」
自室に入ろうと女が歩き出したところで、侍女がおずおずと切り出したその言葉に耳を疑った。
「…あの男…。……ええ。そうしてちょうだい」
今宵の夜会でまみえるだろう男に、女は隠すことなく舌打ちした。
(……今夜あたり、風邪でもひかないかしら)
「……はあ、あたしも馬鹿ね」
「はい?何かおっしゃいましたか?」
「……なんでもないわ」
苦く微笑んで踵を返した女に、侍女は首を傾げた。
女は、田舎者が嫌いだった。
厳格な階級制度があり、王都に位の高い者が集中しているこの白の匡では、大方の貴族は意味もなく田舎の人間を嫌っているが、女の場合は違う。
歴とした『原因』が存在するのだ。
(田舎者って、みんなこうなのかしら?)
そして、その『原因』は、今女の目の前でダンスを乞うて跪いているこの男、正にその人だった。
「いやはや、以前お会いしたときよりも更にお美しくなられたようだ…。この私めと、踊ってくださいますか?女神よ」
つまり。
わけのわからない戯言を垂れ流すこの田舎者のことが、女は嫌いなのだ。
「……あら、お久しぶりですわ」
「ええ、久しく。貴方に会えなかった時間が、まるで地獄でしたよ」
「そんなことをおっしゃって、貴方様に憧れる御令嬢は大勢いらしゃるのではなくて?」
周囲を見渡せば、期待の篭った諸令嬢の視線とぶつかる。目を輝かせ、頬を上気させた少女は皆美しいと、女は思った。
自分はもう、とうに失ってしまった美しさだ。
と、同時に、近くの壁際に控える女の侍女がちらちらとこちらを伺うのもわかった。
綺麗な長い髪は、硬く後ろに纏められていて見えない。
「嗚呼、たしかに今宵は美しい姫君が多い」
大仰に視線を遣る男。女は男と出会ってから初めて、この男を褒めてやりたいような気持ちになった。
(そうよ、そのまま…。どの令嬢でもいいから、私以外なら誰でもいいから選んで!)
女にとってはまとわりつく蛾のような存在でも、若い令嬢には憧れの存在らしい。
若い娘の考えることはよくわからない。
男は集まる令嬢に流し目を送りながら、女に向き直った。
「しかしやはり女神は貴女だ。身に余る栄誉とは存じておりますが、どうか貴女のお相手に選んでいただくことは?」
舌打ちを必死で堪えながら、女は笑みを作った。
(やはり馬鹿は馬鹿以外にはなり得ないのかしら……。いいえ、期待した私が馬鹿だったのね)
「……喜んで」
楽団の奏でる音楽に併せてステップを踏めば、すぐに人垣が割れた。
繊細な旋律に併せて控え目に広がる女のドレスは、まるで夜の闇を切り取ったような漆黒だった。
他の誰よりも暗い色合いでありながら誰よりも目を引くドレスを纏った女は、男の言う通り、女神の如き美しさだ。
艶のある黒い布地に雪よりも白い肌と輝く金の髪が映え、さながら月の女神と言ったところである。
そんな女に挑戦するような無謀な令嬢が居るわけもなく、皆示しを合わせて大人しく身を引いたのだった。
(……奥様は、やはりお美しいわ……)
壁の花となっていた侍女は、思わず自分の仕える主に見惚れた。
華麗にステップを踏む男女は、誰が見てもお似合いで。
普段は見せることのない、楽しそうな表情の男に、侍女は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
おこがましいと分かっていながら、その笑顔が自分に向けられれば、という思いが胸をよぎる。
主は、間違ってもあの男を愛してなどいない。好意すら持っていない。それどころか、親の仇ーーー否、汚物のように思っている節すらある。
そして、主はそのことを決して表に出さない。美しい主は美しい顔しか見せることはない。
優雅に踊り続ける主の表情は、向かい合うあの方の自然なそれとは違い、鉄仮面のように微笑んだ形で一ミリたりとも動かない。
おそらく、今すぐにでも重なり合った手を振り払って逃げたいに違いないのだ。
しかし、そんな行動を取ることは天と地が反転してもないだろう。
そして、主のそんな思いに、あの方が気づくこともないだろう。
侍女からすれば、歪だった。主も、あの方も。
それでも、月光を浴びる二人に近づけない。
侍女は、棄てずに懐に潜ませておいた手紙を、服の上から握り潰した。大切に、大切に胸元にしまった手紙。
ぐしゃり、という音が音楽にかき消される。
もう、安いインクで書かれた文字は、滲んで擦れて読めなくなってしまっただろう。
それでも、もう良かった。
一体今まで、何通の『棄てられた筈の手紙』を読んできただろう。その度に侍女は胸を焦がし、涙を流した。
そんな自分の行動が、あまりにも惨めで、あまりにも哀れだった。
(あの方は、あんなにも幸せそうに笑っている…)
侍女は、自分が歪み始めていることに気づいていた。
それでも、止めることは出来なかった。
知らず、纏めていた髪を弄る。
侍女が唯一自分自身の誇りとしていたのが、長い、美しい髪だった。
主が時々、羨ましいと言って触れるその髪だけが。
(……奥様には、アルス様がいらっしゃるわ…。でも、私には、誰もいない……)
暗い色に染まる瞳を誰にも見咎められることもなく、侍女は独りひっそりと、自身の紡ぐ思考に囚われていった。