2:入力遅延は0.5秒後に
『警告。被検体の現実係留値が著しく低下。アバターの物理演算に致命的なエラーが発生。当たり判定が消失します』
直後、神骸の巨大な鉄の腕が小春を完全に押し潰した――ように見えた。
轟音の中、小春の体は砂嵐のようなブロックノイズに変換されていた。
物理法則をすり抜けてあらゆる攻撃を完全に透過する、絶対無敵のバグ挙動。
彼女の「現実への執着の無さ」が、システム側に「彼女はそこに存在しない」という強烈な演算エラーを引き起こしたのだ。
だが、この規格外のバグには、ある致命的な副作用が存在した。
「っ……きたきた。この視界のズレ」
無傷で鉄の腕を通り抜けた直後、小春の視界がガクンと大きく揺れた。
脳の命令に対して、システム側の同期処理が追いつかず、出力が0.5秒から1秒遅れる現象――『入力遅延』だ。
普通のダイバーならパニックに陥り、コンマ数秒の遅れで命を落とす。
だが、小春の口角は微かに上がっていた。
「あの超絶クソゲー『呪われし剣士』の常時30フレーム遅延に比べたら、有線接続並みにサクサクじゃん」
彼女は重度のクソゲーマーである。
小春は視界のラグを完全に無視し、脳内で先の動きを計算して『先行入力』を開始した。
傍から見れば、その動きは完全に狂っていた。
彼女のアバターは無表情なTポーズのまま、カクッ、カクッとフレームを飛ばしながら瞬間移動を繰り返す。
神骸の薙ぎ払いが来る0.5秒前にスライドし、すべての「判定の穴」を潜り抜けていく。
「だいたいさ、こんな巨大ボスが水面叩いたら、飛沫のパーティクル処理で絶対にフレームレート落ちるんだよね。ほら、モーション止まった」
小春の読み通り、神骸の動きが一瞬、処理落ちで硬直する。
「……ん、視界の端にインベントリアイコンあるじゃん。説明書もないけど、とりあえず初期装備くらい入ってるでしょ」
小春は視界の空中で適当に指を滑らせ、特務機関から支給されている初期武装【V-ARC(可変式アサルト・レプリカ・コード)】を実体化させた。
状況に応じて銃とブレードに変形する標準兵装だが、小春はそれを構えもしない。
Tポーズのまま、銃口を神骸の足首のテクスチャの隙間――ポリゴンの結合部に直接めり込ませた。
「武器振るモーションなんてコスパ悪い。壁抜けして、内部判定で暴発させりゃ多段ヒットするっしょ!」
ガガガガガガガッ!!
システムが悲鳴を上げ、神骸の巨大な体が激しく明滅し――
『エラー。神骸の概念データに致命的な矛盾が発生。崩壊処理に移行』
断末魔すらない。神骸はポリゴンの破片となって呆気なく霧散した。
水没した渋谷に、再び静寂が戻る。
「ふぅ……。まあ、時給換算なら悪くない労働だったかな」
ラグが収まり、Tポーズを解除して首を鳴らす小春。
日給5万円の「安全な非肉体労働」としては割に合わない命懸けの戦闘だったが、来月の家賃が払えるなら文句は言えない。
早急にログアウトの申請を出そうとしたその時、脳内に無機質なAI音声が響いた。
『ミッションクリア。神骸のレアドロップ(概念データ)の回収を確認。規定に基づき、基本給与に加え、高額インセンティブを付与します』
「インセンティブ? ああ、ボーナスね。いくら?」
『特別報酬――100万円が、応募時に登録された貴方のアカウント指定口座に振り込まれました』
「…………は?」
小春の動きが、現実世界の処理落ちのように完全に停止した。
100万。100万円。100蔓園!!??
深夜のコンビニで廃棄弁当を啜り、理不尽な客に頭を下げ、それでも家賃の引き落とし日に怯える日々。
その約1年分の生活費が、たった数分のバグ利用で手に入ったのだ。
『生存本能:攻撃性が致死レベルに到達。ヒロイズムを0%に再設定』
小春の目に、明確な「強欲」の炎が宿った。
ドライな省エネフリーターは死んだ。
ここにいるのは、生活と金への執着で理不尽なボスに自ら特攻を仕掛ける、最悪の俗物ハンターだ。
「……運営さん。次の敵は、どこに湧くの?」
◇◆◇
同時刻。現実世界の第2センター管制室。
数人のダイバーたちが、モニターに映る戦闘ログを絶句して見つめていた。
「……何ですか、あのふざけた挙動は!?」
悲鳴のように叫んだのは、ダイブ用の漆黒のプラグスーツに身を包んだ長身の青年だった。
彼の名は夏目勇太。24歳。
誰よりも王道で正統派な戦闘スタイルを誇る、特務機関のトップランカーである。
「アハハッ! 歩行モーション全カットに、壁抜けからの内部多段ヒット! 見事な変態ゲーマーっぷりじゃん!RTA走者とかかな??」
ゲーミングチェアの上であぐらをかく先輩隊員・猫山愛が、キャンディを舐めながら爆笑する。
「笑い事じゃないですよ猫山先輩! あの新人、わざと処理落ちやバグを誘発させてる! あんな精神負荷のかかる無茶なダイブを続けたら、彼女の脳が焼き切れてしまいます!」
「でも100万って聞いて目の色変えてたよ? あの子、絶対まだ狩る気だね」
「命と金を天秤にかけるなんて……馬鹿げている!」
夏目は額に汗を滲ませ、モニターを睨みつけた。
彼にとって、神骸との戦いは世界を守る聖戦であり、誰も死なせたくないという強い責任感がある。
こんな日給目当てで自滅しかねない素人を野放しにはできなかった。
「俺が直々に助けに行きます。彼女を強制ログアウトさせないと――」
その瞬間、けたたましいサイレンが管制室に鳴り響いた。
『緊急事態。都内複数箇所にて次元断層が拡大中。新たな神骸のポップを確認』
「チッ……! また余震か!」
夏目は即座にヘルメットバイザーを手に取った。
「先輩、俺は出ます。渋谷にポップした神骸は俺が引き受ける。あの新人テスターを死なせるわけにはいかない!」
「はいはい、気をつけてね。それじゃ、夏目クンは渋谷の増援(お守り)よろしく」
夏目はダイブカプセルへと向かって走り出しながら、悲痛な決意を胸に抱いた。
(待っていろ、新人。俺が必ず、君を安全な現実へ帰してやる……!)
――王道を重んじる生真面目なエリートと、金のためなら仕様も理屈も破壊するクソゲーマー。
最悪で最強の凸凹バディが出会うまで、あと数分。




