20 夏 ヒマワリ 2
拓と茜は、依頼者である老人、岩尾銀次のアパートを訪れた。
「緑高校? 高校生が俺に何の用だ」
半袖シャツにステテコ姿の男は、上から下まで拓と茜を眺めた。
「何の用って……、岩尾さんが電話していらしたんじゃないですか。ゴーヤーで緑のカーテンを作りたいって」
拓は唖然とした。
黙って隣りに立っている茜も、ただでさえ大きな目を当社比、いや当部比数倍くらいに見開いている。
「ん、緑のカーテン、だと……? おう、今日だったか」
男は拓との約束を思い出したようだった。
拓と茜はようやく、岩尾銀次の家の中に入ることができた。
外よりは涼しいものの、中は蒸し暑く、エアコンはついていないようだった。
玄関に入ると鄙びた匂いがした。
「荷物は玄関に置いて、こっちに来てくれ」
言われるままに拓たちは靴を脱いで家に上がった。
すぐ右手に流しとガスレンジ、左手にトイレがある。流しには、茶碗や油の残った皿、フライパンなどが雑然と積み重なっている。
流しとトイレの間の細い通路を抜けると、正面に大きな窓がついた部屋があった。
部屋の中央に置かれたちゃぶ台は、新聞、煙草の吸殻てんこ盛りの灰皿、ビールの空き缶などで埋め尽くされている。
ザ・親父原型。そんな言葉が拓の頭に浮かんだ。
フローリングの床は、隅の方に新聞や雑誌が積み重ねられているものの全体的にきれいで、その間を扇風機や出しっ放しのストーブのコードがうねうねと這っている。
「あっ」
茜が床の上の電気コードに躓いて拓の腕にしがみついた。
「大丈夫か?」
「うん」
「コード類は俺も躓く。気をつけてくれ」
振り向くと、銀次は無愛想に言った。けれども、やんちゃな目つきと身軽な動きのせいか、どことなく愛嬌がある。
ちゃぶ台の向かいにテレビ台があり、テレビと仏壇が並んで置かれていた。仏壇の中には、優しそうな中高年女性の写真とともに、拓とほぼ同じ年頃の少年の写真が飾られている。……というよりは、半ば無理やり押し込められている。
拓は写真に目が釘付けになった。けれどもすぐに視線を逸らし、平静を装った。
部屋の左側にもう一つ部屋があった。境目の襖が開かれ、畳に敷かれた布団や箪笥が覗いていた。
「緑のカーテンとやらを作ってもらいてえのは、この外側だ」
銀次は窓まで行った。レースのカーテン越しに眩しい光が入ってくる。
「そもそも緑のカーテンってどういうもんなんだ? 言葉は聞くけどよくわからねえんだが」
「ゴーヤーやヘチマ、アサガオなんかのつる性の植物をネットに這わせると、ネット全体に葉が茂りますよね。その茂った葉で、カーテンみたいに日の光を遮るってものです」
「ふうん」
銀次は、まだ充分にはわからないといった表情のまま、窓を開けてベランダに出た。ベランダの手摺の向こうは広めな庭になっていて、草がぼうぼうと生えていた。
拓と茜も、銀次のあとについてベランダに出た。
そのときである。
――よっ。
拓と同じ年頃の少女が手摺に凭れかかっていて、ニカッと笑った。
髪はショートカット、真っ黒に日焼けした顔の中で、子猫のように黒目がちで大きな目が光っている。背は日本の高校生の女性としては、決して低い方ではない。
黄色いタンクトップに鮮やかな緑のミニスカート姿の彼女は、太股はほどよく引き締まり、脚はすらっと長い。
銀次も茜も、まったく彼女に気づいていないようだ。 ということは。
拓は手摺の外を端から端まで見渡した。
手摺のすぐ外の右側、隣家との境目にあるブロック塀のそばに、背の高いヒマワリが群れて生えていた。まだ少しだが、花が咲いているものもある。濃い緑の葉と目に沁みるような黄色い花とのコントラストが眩しい。
―-お前、ヒマワリの精か?
少女に視線を戻し、胸のうちで拓は呟いた。
――正解。あたし、ヒワコってんだ。あんたは?
威勢のいい、弾むような声が返ってきた。血がつながっているわけでもないが、なんだかヒワコは銀次に喋り方が似ている。
拓が名乗ると、ヒワコは親指で銀次を指差した。
――このじいさん、全然エアコンつけないからさ、あんた言ってやってよ。つけないとぜぇ―――ったい、熱中症になるって!
――お、おう。
本当に銀次の孫みたいだ、と拓は思った。
「おい、聞いてんのか!」
いきなり頭にげんこつが飛んできた。
「は、はい! すみません」
痛みをこらえて拓は頭を下げた。茜もすみません、とお辞儀していた。
「仕事中にぼうっとすんじゃねえ。高校生でも、仕事は仕事だ」
「はい」
――あっはははは! 怒られてやんの!
ヒワコは、腹を抱えて笑っている。……くそっ、誰のせいだと思ってるんだ、と拓は口に出さずに独りごちた。
「この手摺のすぐ外側に、ゴーヤーで、緑のカーテンを作ってくれ。幅は窓と同じくらいで。土に直に植えるんじゃない方がいいな」
「ゴーヤーの苗はもう、買ってきてあります。このあいだ電話で、ゴーヤーで、っておっしゃってたんで」
拓は、生成りのバッグを置いた玄関の方に目を遣った。
「そうか。そいつぁよかった」と銀次は小さく笑った。笑うと垂れ目がいっそう垂れてとたんに人懐っこい顔になる。
「だけどよ、緑のカーテンってほんとに効果あんのかい? 大家のばあさんが涼しくなるからってしつこく勧めっから承知したけどさ」
銀次は腕組みをして顔を顰めた。
「ありますよ。ただ、日陰になるだけじゃないんです。植物には蒸散作用っつって、吸い上げた水分を葉から出す働きがあります。で、暑いときはそれで葉の温度を下げて、葉の温度を一定に保つんですよ。それに、出された水分が蒸発するときに周りの熱も奪うんで、辺りが涼しくなるんです」
「ほぉ。確かに、コンクリートや車のボンネットが焼けるように熱いっつうのは聞くけど、葉っぱが焼けるように熱いっつうのは聞かねえなあ」
顎を撫で回しながら、感心したように銀次は頷いた。
「でも、緑のカーテンに頼りすぎちゃだめですよ。ベランダはともかく、部屋、相当、暑かったです。ゴーヤーが育って緑のカーテンになるまでには、まだ時間がかかります。エアコンをつけないと、熱中症になりかねません」
ヒワコが頭の後ろで手を組み、横目でニカッと拓に笑いかけた。
「ん? 俺は別に暑くないけど、そんなに部屋の温度、高かったか」
銀次は、今度は茜を見た。
「はい……」
困ったような顔で、茜は肩をすくめた。
「じゃ、ちっと中に入るか」
半信半疑の様子の銀次とともに、拓は部屋に戻った。
大股で窓ガラスをすり抜けたヒワコが、部屋の隅近くの方を親指で指した。
テレビの脇の壁に、古びた温度計がかかっている。黄色くて、大きな長方形だ。
「三十二度です」
「えぇ?」
怪訝な顔で温度計を覗き込んだ銀次は、眉を大きく持ち上げた。
「ほんとだ。暑くねえのになあ」
「あのぉ、年を重ねると、誰でも暑さ寒さを感じにくくなるそうですよ。うちの祖母も、すっごい熱い温泉に入っても、ぬるい、とか言いますし」
茜が、さっきの演劇部の鬼上級生口調とはまったく違って、優しく気遣うように言った。




