【夢と現】
松太朗との生活は、まさに夢のようだ。
現実味がしない。
それは夜伽の相手をしていても、また然り。
いつまでも、いつまでも、夢のようであるのだ…。
「なぜ、そのような顔をするんだ?」
「え…?」
松太朗が床の中で不意に織りの顔を見ながらそう言った。
「そのような…とは…?」
織りが戸惑っていると、松太朗の手が伸びてきて、彼女の頬に触れる。
「俺を見ながら、不安そうな…悲しそうな顔をしているではないか」
自分の頬に触れる松太朗の手は、大きくて温かい。織りは、その手にほっとしている自分を自覚し、やはり、自分はきっと松太朗が言うような表情をしていたのだろうと思った。
「時々…すごく…不安になるのです」
「ふぅん。なぜ?」
目を伏せて言う織りに、松太朗は優しく尋ねる。
「松太朗さまとの生活がまるで夢のようだから」
松太朗は一瞬瞬きも、呼吸をすることすら忘れてしまった。
「毎日がただ夢のように過ぎてゆくようで…」
「織り殿は、まだ俺との生活に慣れておらんのか…?」
驚いたように言う松太朗に、織りは一瞬考えたのち、小さく首を振る。
それには、松太朗もまた怪訝な顔をした。
「違うのです…。夢のような生活を送っていたのに、松太朗さまとこうして枕を並べて休むことが当たり前になってきて…。わたくしも、やっと松太朗さまの奥方なのだと思えるようになってきたのでございます」
恥ずかしそうに言う織りは、チラリと松太朗を見た。
「あ……は……?」
織りの言葉に、松太朗は珍しく言葉にならない相槌を打った。――というより、かろうじて、そう言葉を発していた。
織りが、自分に嫁いできて一年弱。
愛する織りがいつも送り出しては迎えてくれるこの生活が愛おしかった。茜の作った食事を談笑しながら食し、何気ない生活の相談をし、着るものの相談をし、他愛ない話を庭の移ろいを見ながらする。
たまに織りをからかい、愛でる。
数少ない夜伽で、織りをずっと近くに感じ、妻であること、家族であることを噛みしめながら抱きしめるのだ。
まぁ、織りが自分と同じような気持ちでいるとは思わなかったが、まだ夢見心地でいるとも思わなかった。
松太朗は、また不安げに眉根を寄せる織りをそっと自分の布団に抱き寄せる。
「俺の奥方だと思えるようになって…よかったではないか」
腕の中で自分を見上げるどんぐり眼が、ふっとまた伏せられる。
「わたくしは、…松太朗さまの奥方としてこれからやっていける自信がございませんもの」
織りは小さな声でそう言うと、きゅっと松太朗の寝巻を掴んだ。
「それは…困ったなぁ。末は永いぞ」
「…わたくしの母は…あんな母ですけれど、立派な方だと思うのです。父を支えながら、わたくしたちをしっかりと育て、そして家のなかも切り盛りされて…」
「そんなの、慣れであろう」
「松太朗さまと床を共にした後、わたくしも少し冷静に考えられるようになったのでございます」
「……」
何とも返しにくい言い方をする織りの声音は至って真面目である。
松太朗の複雑な思いに気づかず、織りは続けた。
「わたくしの中で時が流れ始めたようなのです。これまではただただ『その時分』を生きているだけのようでした。でも今は…やっと松太朗さまとの夫婦としての生活が流れ始めたように感じるのです」
そこまで話て、織りは松太朗を見上げた。
織りの視線に気づいた松太朗は、黙って見返す。織りは、不安げに首をかしげて見せた。
「おなごの分際で、わたくし、大それたことを申しておりますわね…」
「いいや」
松太朗は、ゆっくりと首を振る。
「織り殿、どんな人間でも最初は不安がいっぱいに決まっている。俺は織り殿たちを守ってゆかねばならん。本当は何不自由なく過ごさせてやりたいにに、貧乏生活だ。なぁ、織り。こんな状態でややまで出来たらやっていけるのだろうかなぁ。俺に父親の威厳などあるのだろうかなぁ」
「松太朗さま…」
「およそ、誰しもが抱く不安ではあるまいか」
ふっと口元を緩めた松太朗は、織りを抱きしめ、織りの背をゆっくりと撫でる。
「でも、わたくしは本当に茜や母に甘えてばかりで暮らしてきたのです…。こんなに長い間、家族に頼らず生きて来たことなどなくて…」
いつもは気丈な織りが、珍しいほどにしおらしい。
松太朗は、織りをパチクリと見ると、わざとらしく大きなため息を吐いてみせた。
「も…申し訳ございません……」
あまりに大きなため息に、織りは思わず松太朗に謝っていた。
「織り。そなた、ちぃっとばっかり脳味噌が流れ出ておるのではないか」
呆れきった声音で、いつも織りが冗談めかして松太朗に言うようなことを、逆に松太朗は織りに大きな声で言う。
言いながら、わざとらしく耳の穴を覗き込もうとする素振りまで見せた。
「な…そんなことございませんわ!」
松太朗の腕を振りほどき、織りはガバリと布団から起き上がる。
松太朗は、頬杖をつくようにして頭を持ち上げると、どこか冷めて瞳で織りを見上げた。
「いやぁ、それか空っぽだと思うぞ」
「失礼な…」
「失礼だと?」
松太朗も、体を起こすと、織りの正面に胡坐をかく。そして、ピッと織りの胸に指を立てた。
「織りは俺の妻であろう」
「え…」
突然のことに織りは反応出来ずにいた。
「俺はお前の夫だ。俺たちは夫婦だ。ただ一緒にいる人間が変わっただけで俺たちはとっくに家族であろう。祝言を挙げたときから、俺たちは他人ではないのだぞ」
松太朗の言葉に、織りは目をマン丸くした。
構わず松太朗は続ける。
「俺たちは家族だから、これからはずっと共に過ごすのだ。織りが悩めば俺が支える。俺が病む時は織りが俺を助けるのだ。織りの食べ残しは俺が片づけるし、夜伽に励み、ややを成し、共に同じ墓に入るのだ。分ったか?」
しおらしい織りと同じくらい珍しい、語気も荒く饒舌な松太朗。
「義母上たちも家族かもしれんが、俺も織りの家族だ。俺に甘えておればよいのだ」
腕組みし、分ったか?と言う松太朗に、織りはただただ呆然と見つめ返すことしかできなかった。
そんな織りを松太朗はまたしっかりと抱きしめた。
「夢からさめれば、誰だって戸惑うものだ。しかし時は刻一刻と過ぎてゆく。現実として、だ。そろそろ、起き上がらねばならんな」
ポンポンと織りの頭を叩きながら、先ほどとは変わって柔らかい声音で松太朗が言う。
「松太朗さま…」
やっとの思いで声を発した織りは、潤む瞳で松太朗を見上げた。
優しく包み込むように微笑む松太朗の、美しさはさることながら、今の織りには安心できる微笑みだった。
ゆっくりと松太朗が頭を擡げる。
触れるように重なった唇はすぐに離れた。
そしてお互い見つめあい、微笑み合うと、再び織りに影が落ちる。
「…………。……何のつもりだ」
唇が重なる直前で、織りは松太朗の口に己の手を当てて制した。
半眼で尋ねる松太朗に構わず、織りは松太朗の唇に優しく指で触れる。
形のよい唇をなぞる織りを黙って見つめて、松太朗はしばしされるがままになった。
「松太朗さまの手は大きくて…しなやかだけれど、やはり殿方らしい手です。それにお綺麗なお顔立ちをされてるけれど、たまに、お髭で頬はチクチクします。きっとわたくしより武道はされていないだろうに、腕も肩もがっしりとされていて硬いし。首は太いし、喉仏が出てらっしゃる…」
一つ一つ言う織りの言葉に、松太朗は己の体のその部位を意識する。
「でも、松太朗の唇は、いつも優しくて柔らかいです」
暗くて分らないが、織りはおそらく頬を染めて松太朗にそう言っていた。
いつも、織りに触れる松太朗が言うことだ。
柔らかくフワフワとしている織りの体は触れてとても心地よい、と。
「なんだか…肩の荷が下りたような気が致します」
松太朗の唇から手を離し、織りはどこかすっきりした表情で告げた。
「うむ。一人でなやまずとも、なんでも俺に頼るといい」
「はい」
頼もしい頼もしい…美しい旦那さま。
そんな旦那さまは、織りに微笑みかけると、素早く織りを己の下にして床に横たえる。
「えっ…え…!?」
「今のこの尻がむずがゆくなるような、少女趣味な展開と雰囲気からはこの流れしかあるまい」
身も蓋もない言い方をする松太朗に、完全に織りの乙女モードの気持ちは萎えた。
「い…イヤでございます!!本当に松太朗さまは女心が分らぬお方です!!織りはもう知りません!!」
そう言うと、織りは自分にまたがる松太朗を完全に無視してうつ伏せになってタヌキ寝入りすることにした。
「うむ…難しいものだな…」
松太朗は心底困ったように呟くと、しぶしぶと織りの隣に横になったのだった。




