第97話 仕事をくれ〜アルブレヒト視点〜
宮殿は、想像以上に巨大だった。
長い廊下を歩く。壁には絵画が飾られ、窓からは庭園が見える。足音が石の床に響く。夏の陽射しが、窓から差し込んでいる。
護衛が扉の前で止まった。
「摂政殿下がお待ちです」
深呼吸をする。緊張で、汗が滲む。
扉が開いた。
謁見の間。天井は高く、窓は大きい。夏の光が部屋を満たしている。
あの化け物が、玉座に座っている。9歳の少女。帝国の摂政。小さな体。大きな椅子。足は床に届いていない。
だが──その目は、俺を射抜いている。
俺は、その前に立った。
「……俺に、仕事をくれ」
摂政は、無表情で俺を見た。
「人質として飼い殺しにされるのは、もう御免だ」
「……」
「何でもいい。働かせてくれ」
沈黙が、部屋を満たす。窓の外では、鳥が鳴いている。庭園の木々が、風に揺れている。
摂政は、こてんと首を傾げた。
「『くれ』?」
「……?」
「仕事を『くれ』、じゃなくて」
摂政の目が、俺を射抜いた。冷たい目だ。だが、どこか──面白がっているような光がある。
「あなたが何をしたいか、が大事じゃなくて?」
「……」
「私は仕事を与える機械じゃないわ」
摂政は、立ち上がった。小さな体が、椅子から降りる。窓際に歩いていく。小さな背中が、逆光に照らされている。
「あなたは何がしたいの?」
俺は、言葉に詰まった。
「俺は……」
「……」
「……」
「言えないの?」
「……」
「それとも、考えたことがなかった?」
「……っ」
図星だった。
俺は「仕事をくれ」と言えば、何かが与えられると思っていた。飼い殺しから抜け出せれば、それでいいと思っていた。
何がしたいか。考えたことがなかった。
王子として生まれ、王子として育ち、王子として生きてきた。「何をすべきか」は、いつも決まっていた。王位を継ぐ。国を治める。敵を倒す。
でも──「何がしたいか」は、考えたことがなかった。
摂政は待っている。急かさない。ただ、窓の外を見ながら、待っている。
ふと──ルッツの言葉が、頭に浮かんだ。
「ノルデンの民のこと、忘れないでください。殿下が帝国で出世すれば……その役目を果たせるかもしれません」
俺は、顔を上げた。少女の目を、まっすぐ見た。
「……俺は」
摂政が振り返った。俺を見ている。小さな体。幼い顔。だが──底の見えない目。
「ノルデン人が幸せになれるようにしたい」
「……」
「帝国に併合された。それは変わらない」
俺は、少女を真っ直ぐ見た。逃げない。目を逸らさない。
「でも、ノルデンの民は生きている。あいつらが、少しでもマシな暮らしができるように」
「……」
「元王子として……責任を果たしたい」
言葉にすると──不思議と、楽になった。これが、俺の答えだ。
摂政は、しばらく黙っていた。
窓から差し込む夏の光が、摂政を照らしている。小さな影が、床に落ちている。
そして──微かに、口角を上げた。
「……いいじゃない」
「……え?」
「そのためにやれることがあるなら、何でもやりなさい」
「……」
「邪魔はしないわ」
拍子抜けした。もっと何か言われると思っていた。「無理だ」とか、「諦めろ」とか。
「……本当か」
「嘘をつく理由がないでしょう」
摂政は、笑った。幼い少女の笑顔。だが──底が見えない。
「私は使える子は好きよ?」
「……っ」
煽られている。分かっている。「使える子」という言葉に、カチンと来る。
でも……悔しいが、否定できない。
俺は「何をしたいか」を考えていなかった。「仕事をくれ」と言えば、何かが与えられると思っていた。
……甘かった。
父上は違った。「民のために」と決めて、国を手放した。愚王と呼ばれる覚悟で、自分の信念を貫いた。
俺には……まだ「何のために」がなかった。今、ようやく見つけた。この化け物に問われて、ようやく言葉にできた。
この化け物は、俺の底を見抜いている。甘さも、弱さも、全部。
「じゃあ、まずは見届けなさい」
摂政が言った。
「見届ける?」
「これから帝国とノルデンの通貨統合の会議があるの。ノルデンの処遇を決める」
通貨統合。ノルデンの通貨が、帝国の通貨に変わる。それは──ノルデンが帝国に呑み込まれる、最後の仕上げだ。
「……俺が?」
「ノルデンのことを一番知っているのはあなたでしょう?」
摂政は、俺を見た。小さな体。幼い顔。だが──その目は、どこまでも深い。
「見届けて、学びなさい。それが最初の仕事よ」
「……分かった」
「期待してるわ、元王子さん」
振り返った摂政は、笑っていた。9歳の少女の笑顔。だが──底が見えない。
謁見の間を出た。
宮殿の廊下を歩く。夏の風が、窓から吹き込んでくる。暑いが、不思議と清々しい。
空を見上げた。青い空に、入道雲が湧いている。どこまでも広い、夏の空。
化け物め。
……でも。
悪い気はしない。
俺は、自分の意思で動くことを許された。「ノルデンの民のために」と言ったら、「いいじゃない」と言われた。邪魔はしないと言われた。
利用されているのは、分かっている。「使える子は好きよ」──その言葉の通り、俺は利用される。
でも、それでいい。
利用されながら、俺も動く。ノルデンのために。俺自身のために。
見てろ、父上。俺も──何かを成し遂げてみせる。
見てろ。必ず結果を出してやる。
足取りが、軽くなっていた。
帝国の首都が、少しだけ──違って見えた。




