第91話 処遇〜アルブレヒト視点〜
あの日のことが、頭から離れない。
夜、目を閉じるたびに蘇る。瞼の裏に焼き付いた光景。あの爆発。あの炎。あの──赤い霧。
眠れない。眠ろうとすると、あの音が聞こえる。轟音。悲鳴。そして──静寂。
警告の爆発。中間地点で大地が裂けた。
俺は──何が起きたか分からなかった。分からないまま、爆発がこちらに迫ってきた。轟音が耳を劈く。大地が揺れる。空気が震える。熱風が頬を撫でる。
5万の兵がいた。ノルデンの誇り。俺が率いた軍勢。
弓の射程に入る前に、前列が崩れた。遥か彼方から何かが飛んできて、兵士たちの胸を貫いた。音もなく。血飛沫だけが舞った。
「何だ、あれは──」
誰かが叫んだ。答える者はいなかった。
兵士たちが赤い霧になった。
目の前で。俺を守ろうとした護衛が、声も上げられずに消えた。人だったものが、肉片にすらならず、ただの霧になって散った。
彼の名前は──何だったか。思い出せない。顔は覚えている。若い男だった。俺より少し年上で、真面目な顔をしていた。
その顔が、一瞬で消えた。
あれが──あの化け物の力だった。
父上は、あれを知っていたのだ。3年前に。あの城で。だから「戦ってはならない」と言い続けた。
俺は聞かなかった。臆病者と罵った。
城に逃げ込んだ俺の前で、城門が溶けた。
あの白い炎。鉄を溶かすほどの熱だった。分厚い城門が、蝋燭のようにドロドロと崩れていった。何百年も国を守ってきた城門が、たった一瞬で。
熱気が顔を焼いた。目を開けていられなかった。
城壁の上にいた兵士たちが、悲鳴を上げて落ちていった。炎に包まれて。人の形を保てずに。
そして父上が現れた。
俺は震えていた。認めたくないが、震えていた。剣を握る手が、止まらなかった。
父上は俺の前に立った。その背中は、俺を守るように。
「俺は国王だ。お前に、この屈辱を負わせるわけにはいかん」
俺の代わりに、白旗を上げてくれた。
あのときの父上の背中は、小さく見えた。老いた背中だった。でも、俺より遥かに大きかった。俺には、あの場で白旗を上げる勇気がなかった。震える手で剣を握りしめることしかできなかった。
その後の交渉で──父上は従属を断り、併合を要求した。自分の首を差し出そうとして、「そんなもんいらないわ」と一蹴された。
俺には、何が何だか分からなかった。
従属ではなく、併合。なぜだ。なぜ、自ら国を終わらせる。
父上の顔を見た。疲れ切った顔だった。でも──迷いはなかった。
俺は今、帝国の王城で沙汰を下されている。
謁見の間は広かった。天井は高く、窓は大きい。陽光が差し込み、床の大理石を白く照らしている。壁には絵画が飾られ、柱には精緻な彫刻が施されている。
ノルデンの王城より──遥かに豪華だ。
「アルブレヒト。あなたには帝国の首都で暮らしてもらうわ」
目の前に立つのは、9歳の少女。
帝国の摂政。あの化け物だ。小さな体。幼い顔。肩まで届く黒髪。簡素な白いドレス。
どこにでもいる少女に見える。だが、その目は──底が見えない。暗い。深い。何かが蠢いている。
あの目が、5万の兵を殺した。
「……何?」
「保険よ。旧ノルデン領で反乱が起きないための」
「保険……?」
「王子が首都にいれば、反乱の旗頭がいないでしょう?」
摂政の声は、平坦だった。感情がない。事務的だ。まるで──天気の話でもしているかのように。
俺は、言葉を失った。
反乱の旗頭。確かに、俺がいなければ、ノルデンの民は誰を担いで蜂起すればいい? 父上は引退する。俺が首都にいれば、反乱の芽は摘まれる。
合理的だ。冷徹なほどに。
「悪い待遇にはしないわ。普通に暮らせる」
「……殺さないのか」
摂政は、不思議そうな顔をした。まるで、何を当たり前のことを聞いているのか、と言わんばかりに。眉をわずかに上げ、首を傾げる。
「あなたの父上を殺さなかったのに、どうしてあなたを殺さないとならないの?」
「……」
返す言葉がなかった。
5万の兵を率いて攻め込んだ。この少女を殺そうとした。なのに──殺さない?
「……父上は」
「田舎に屋敷を用意したわ。静かに暮らしてもらう」
摂政は、窓の外を見た。帝国の空は青く、雲が流れている。穏やかな光景だ。あの戦場の地獄が嘘のように。
鳥が飛んでいる。木々が風に揺れている。平和だ。あまりにも平和だ。
「あなたの態度次第では、会いに行くことも許可するわ」
「……」
選択肢はない。俺は首都に残らされる。
俺を縛る鎖は見えないが、確実に存在している。この少女の手の中に、俺の命がある。
謁見の間を出た。
長い廊下を歩く。護衛が前後についている。帝国の兵士だ。俺を監視している。
足音が石の床に響く。自分の足音が、やけに大きく聞こえる。
謁見の間を出ながら、俺は考え続けた。
あの化け物と戦ってはならなかった。父上の言う通りだった。
5万の軍勢が、あっという間に蹂躙された。弓が届く前に、兵士たちが倒れていった。大地が裂け、城門が溶けた。
父上はあれを知っていた。だから止めようとした。
「あれと戦ってはならない」
何度も言われた。何度も。
俺は……臆病者と罵った。罵ってしまった。
「父上は恐れているだけだ。ノルデンの誇りを忘れたのか」
そう言った。民の前で。貴族たちの前で。父上の顔に泥を塗った。
俺が間違っていた。それは分かる。そこまでは、分かる。
だが──分からないことがある。
なぜ、併合なのだ。
従属でよかったはずだ。属国になれば、国は残る。王位も残る。屈辱的だが、ノルデンは存続する。いつか力を蓄えて、独立を取り戻すこともできる。
なのに父上は、自ら「併合してくれ」と言った。数百年続いた王家を、自分の手で終わらせた。
「これで──俺で終わりにしよう」
父上はそう言った。
意味が分からない。今も分からない。
なぜ、そこまでする。俺の代わりに泥を被ったのか? 俺が愚かな戦争を始めたから、その責任を取ったのか? それとも──俺には見えていない何かがあるのか?
父上の顔を見ても、何も読み取れなかった。
ただ、疲れた顔をしていた。何年も、何十年も、重荷を背負ってきた顔だった。皺が深く刻まれ、髪は白くなり、目の下には隈があった。
あの顔を──俺は見ていなかった。「臆病者」と罵るばかりで、父上が何を背負っているのか、考えもしなかった。
俺は、帝国で過ごすことになる。軟禁のような扱いだろうか。
首都で暮らせと命じられた。拒否権などない。
屋敷に案内された。大きな屋敷だった。庭があり、噴水があり、花壇がある。立派な門構え。広い玄関。磨かれた床。
ノルデンの王城より──いい屋敷かもしれない。
「こちらがお部屋です」
使用人が案内してくれた。帝国の人間だ。丁寧な口調。敵意はない。
部屋は広かった。大きな窓。柔らかなベッド。机と椅子。本棚には本が並んでいる。
これが──人質の部屋か?
「何かご不便があれば、お申し付けください」
使用人は頭を下げて、部屋を出ていった。
俺は──一人、部屋に残された。
窓の外を見た。夕暮れが近い。空が赤く染まり始めている。
父上は田舎に屋敷をもらえるらしい。静かに暮らせるのだろう。
でも──俺は?
父上は国を差し出した。自ら併合を願い出た。帝国にとっては「話の分かる相手」だ。だから穏やかな隠居を許された。
俺は違う。
5万の軍勢を率いて攻め込んだ。あの化け物を殺そうとした。帝国にとっては「反逆者」だ。
父上と同じ扱いを受けられる保証など、どこにもない。
……どんな扱いを受けるのだろう。
地下牢に繋がれるのか。鞭で打たれるのか。見世物にされるのか。
ノルデンでは、捕虜はそういう扱いだった。地下牢に放り込まれ、ろくな食事も与えられず、時には拷問された。それが当然だと思っていた。敵は敵だ。
帝国も同じだろう。いや、もっと酷いかもしれない。あれだけの力を持つ国だ。捕虜の扱いも、想像を絶するものかもしれない。
「悪い待遇にはしないわ」
あの化け物はそう言った。
信じられるわけがない。あれだけのことをした相手を、なぜ良く扱う。何か裏があるはずだ。
油断させて、情報を引き出すつもりか。それとも──別の目的があるのか。
……怖い。
認めたくないが、怖い。
あの少女の目を思い出す。底の見えない、暗い目。あの目が、俺を見ていた。俺の中を、見透かしていた。
夜が来た。
ベッドに横になったが、眠れない。目を閉じると、あの光景が蘇る。赤い霧。白い炎。崩れる城門。消えていく兵士たち。
目を開ける。天井を見つめる。
暗い。静かだ。ノルデンの城とは、違う静けさだ。
窓の外には、月が昇っている。星が瞬いている。
帝国の空は、どこまでも広かった。
美しい空だった。穏やかな夜だった。
だが俺には──その空すら、恐ろしく見えた。
この空の下で、俺はこれからどうなるのだろう。
答えは、誰も教えてくれなかった。




