第121話 メイドの実家
私が生まれ育った家は、広い家だった。
父は男爵だった。大した家柄ではなかったけれど、領地があり、屋敷があり、使用人が何人かいた。母は父に嫁いできた人で、穏やかだけれど、それ以上の印象がない人だった。家族は三人。父と、母と、私。
廊下が長くて、足音がよく響いた。使用人たちは静かに歩いていたけれど、幼い私の足音だけが小さく鳴った。窓から差す光が廊下に長い影を作って、午後になるとその影がゆっくり動いていくのを、私はよく眺めていた。他にすることがなかったからだ。
父はいつも書斎にいた。書斎の扉はいつも閉まっていた。
「お父様は忙しいのよ」
母がそう言った。母はいつもそう言った。父は領地の経営で忙しかった。うまくいっていなかったのだろうと、今ならわかる。でも当時の私には、ただ扉が閉まっているという事実しか見えなかった。
私は人形を抱いて、書斎の前に立っていた。扉の向こうの物音を聞いていた。紙をめくる音。ペンが走る音。たまに溜息。私がここに立っていることを、お父様は知っているだろうか。扉越しに聞こえているだろうか、私の足音は。
「ね、マリー。今日もお父様、遊んでくれないね」
銀色の髪の人形は、何も言わなかった。でもいい。この子がいるから。
あの人形は──お父様がくれたものだった。誕生日だったか、何かの記念日だったか、もう覚えていない。ただ、あの日だけお父様が書斎から出てきて、私に箱を渡してくれた。
「すまない、忙しくて何も」
と言いながら差し出された箱の中に──銀色の髪の人形が入っていた。
マリー、と名前をつけた。青い目が硝子でできていて、小さなドレスを着ていた。美しい人形だった。銀色の髪が長くて、指先まで丁寧に作り込まれていて、ちいさな靴まで履いていた。お父様がこれをどこで見つけてきたのかは知らない。きっと忙しい合間に、どこかのお店で見かけて、ふと娘の顔を思い出したのだと思う。そうだといい。
私はぎゅっと、マリーを抱きしめた。それからマリーは、私の全部になった。
朝はマリーの髪を梳かすことから始まった。銀色の髪は細くて柔らかくて、丁寧にやらないと絡まった。服の皺を伸ばして、靴が汚れていないか確かめて、椅子に座らせて窓の方を向かせた。お日様が見えるようにしてあげたかった。
「今日はお天気がいいね、マリー」
窓の外を指さして教えてあげた。マリーの目は窓の方を向いている。見えているかはわからないけれど、見せてあげたかった。
「お父様、昨日は夕食に来なかったよ。でも今日は来るかもしれないね」
来なかった日は報告しなかった。来た日だけ報告した。その方がマリーも嬉しいだろうと思ったから。
「庭師さんが薔薇を切ってたの。綺麗だった。今度マリーにも見せてあげるね」
全部マリーに話した。返事はなかった。でも聞いてくれていた。そう思えるだけで、十分だった。
夜、寝る前にはマリーを枕元に置いた。横向きに寝かせると、硝子の青い目がこちらを見ているように見えた。「おやすみ、マリー」と言って、そっと銀色の髪に触れてから目を閉じた。
マリーは答えない。でも──居なくならない。朝起きたらそこにいて、夜眠る時もそこにいた。父よりずっと、そこにいてくれた。
食事の時だけは、父と一緒だった。父は穏やかな人だった。微笑んで、私の話を聞いて、「そうか」と言ってくれた。仕事で疲れた顔をしていても、私を見ると少しだけ表情が緩んだ。
私はその「少しだけ緩んだ顔」が好きだった。だから食事中はたくさん話した。庭で見つけた虫の話、使用人のおばさんが焼いてくれた菓子の話、マリーの髪をうまく結えた話。父は頷いて聞いてくれた。口数は少なかったけれど、聞いてくれてはいた。
でも食事が終わると──
「すまない、少し仕事が」
毎日だった。毎日「少し」と言って、朝まで戻らなかった。
椅子を引く音がして、父の背中が食堂の扉の向こうに消えていった。いつもの光景だった。母はそれを見送りもせず、黙って食器を片づけ始めていた。
食事が終わって部屋に戻ると、私はマリーを抱き上げて報告した。
「お父様、今日はちょっとだけ笑ってくれたよ」
それが食事の後の日課だった。マリーに報告すると、食事の時間が無駄ではなかったような気がした。
私は父を嫌いではなかった。嫌えなかった。善良で、忙しくて、でも結局──そこにいなかった。
母はどうだったろう。母はいた。食卓にいたし、廊下にもいた。でも、いるだけだった。「お父様は忙しいのよ」と言って、それ以上は何もしなかった。何かしてほしいと思ったことがあったかどうかも、もう思い出せない。
あるとき、庭師がいなくなった。しばらくして、料理人が一人減った。
私は子供だったから、理由を知らなかった。ただ廊下の足音が少なくなって、夕食の皿が小さくなった。庭の薔薇が伸び放題になった。父は相変わらず書斎にいた。ただ、溜息が増えた気がした。
使用人だけではなかった。家の中から、ものが消え始めた。最初に消えたのは客間の絵画だった。次に消えたのは銀の燭台で、その次は食器棚の皿だった。
「なくなったもの」を数えるのが癖になった。昨日あったものが今日ない。昨日まで廊下に飾ってあった花瓶が今日はない。応接間の椅子が一脚減っている。暖炉の上の時計がなくなっている。そういう暮らしだった。
母は何も言わなかった。何も言わないのはいつものことだったから、何が変わったのかわからなかった。
私は毎晩、マリーを抱いて眠った。この子だけは売らないで、と祈った。誰に祈ったのかは、わからない。父に言っても仕方がなかった。だってお父様は「すまない、少し仕事が」といつもの言葉を残して、書斎に消えていくだけだから。
あるとき、一番最後に残っていた使用人のおばさんが、玄関でこっそり話しているのを聞いてしまった。
「旦那様は人が良すぎるんだよ。保証人なんか引き受けるから……」
「相手はもう逃げたんだって。街を出たって」
父が人に騙されたのだと、そうして知った。
私は「ああ、やっぱり」と思った。
怒りは湧かなかった。悲しみも、少しだけ。ただ、「この人はそういう人だ」という確認だった。善良で、人を疑えなくて、だから騙される。私はとっくに知っていた。書斎の前に立って、溜息ばかりが増えていくのを聞いていたから。知っていて、期待していなかった。
その日の夜、書斎の扉の向こうで父が何かを落とした音がした。重い音だった。拾う気配はなかった。しばらくして、小さく嗚咽が聞こえた気がした。
私はマリーを抱いて、自分の部屋に戻った。
◆
私が十四になった年のある日、男たちが家に入ってきた。
三人だった。背広を着た男と、荷運び人らしい男が二人。背広の男は書類を手にしていて、家の中を値踏みするような目で見回していた。
残っていた家具を運び出し、書棚の本を箱に詰めた。父は書斎の隅で、何も言えずに立っていた。母は居間の椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。あの二人はいつもそうだ。父は黙って立ち、母はぼんやりと座っている。
私はマリーを抱いて部屋の隅にいた。大丈夫、と自分に言い聞かせていた。家具は持っていかれる。本も持っていかれる。でもマリーは大丈夫。マリーだけは。
男の一人が──こちらを見た。
「その人形も」
心臓が止まるかと思った。
「……え?」
「銀髪の硝子目だろう。値がつく」
腕の中のマリーを、きつく抱きしめた。硝子の目がこちらを見上げていた。朝、梳かしたばかりの銀色の髪が指に触れていた。
父が何か言おうとした。口が動いた。でも言葉が出なかった。あの人はいつもそうだ。言わなければならない時に、言葉が出ない。
母は──何も言わなかった。
私は──
マリーの顔を見た。硝子の青い目。銀色の髪。小さなドレス。ちいさな靴。毎朝梳かした髪。毎晩話しかけた相手。毎日抱きしめたもの。
──知っていた。こうなることを。ずっと前から知っていた。
「──はい」
マリーを、差し出した。
差し出せてしまった。泣かなかった。暴れなかった。
男がマリーを受け取った。片手で、無造作に。私が毎朝丁寧に梳かした銀色の髪が、男の指の間で乱れた。
「値がつく」と、男はもう一度言った。それだけだった。それだけのものだった。あの男にとって、マリーは。
そのマリーが、男の腕の中で逆さまになって、運ばれていった。銀色の髪が揺れていた。硝子の目が、最後にこちらを見た気がした。
私は立ったまま、動けなかった。
──何かが、空っぽになった。
胸の真ん中に穴が空いたような感覚だった。息ができないわけではない。立っていられないわけでもない。でも、何かが決定的になくなった。
その夜、手を伸ばした。枕元の、いつもの場所に──何もなかった。
「マリー」
声に出してから、いないことを思い出した。
それから毎晩、同じことを繰り返した。手を伸ばして、何もなくて、名前を呼んで、思い出す。一ヶ月くらい続いた。やがて手を伸ばさなくなった。名前も呼ばなくなった。
でも空っぽは、消えなかった。




