前編
息子を急いで保育園からお迎えして、いつものスーパーに夕飯の買い物に行くのが私の日常だった。
可愛い手をしっかりと握りながら私は息子に話しかけた。
「今日は何して遊んだの?」
「うーんとね……泥だんご!」
「へー、誰と遊んだの?」
「ゆきちゃんとー、こーたくんーと……まーちゃん!」
「楽しかった?」
「うん! たのちかった!」
「そっかそっか。お腹空いた?」
「うん! ペッコペコ!」
「そっか! 今日は、あなたの大好きなオムライスだよ〜!」
そう言うと、息子の瞳が宝石みたいに輝き出した。
「オムライス!」
「オムライス、食べたいひと〜!」
「は〜い!」
息子はオムライスが大好きだった。今日は夫が早く帰るのでこの子が一番好きなものを食べさせようと思った。飛び跳ねるように歩く我が子を見ていると、この笑顔が見たくて毎日作ってあげたくなる。
息子は好きな特撮ヒーローの主題歌を元気いっぱいに歌っていた。よほど機嫌がいいらしい。
「あ、パパだ!」
すると、息子は何かに気づいた。同じ方を見ると夫が手を振っていた。いつも行くスーパーを知っているから迎えに来たのだろう。これから三人で買い物ができると思うと嬉しくなった。
「パパ〜!」
しかし、その高揚感が気の緩みに繋がった。息子は私の手からスルリと抜けて一目散に横断歩道の先にいる夫の所へ駆けて行った。
「止まって!」
そう叫んだ瞬間、私は見てしまった。見てしまったのだ。
息子は赤のワンボックスカーに轢かれた瞬間を。
まるでスローモーションみたいに、私の半分にも満たない背丈の我が子が、倍以上はある赤い巨体に押し出されていた。
人は予想外の事があり過ぎると、たちまち役立たずになってしまう。
気がつけば、夫が必死になって私に呼びかけていた。ハッとして、辺りを見渡してみると、パトカーがランプを点滅させながら止まっているのが見えた。
野次馬が群がり、取材陣らしきものも見える中、私が注視したのはコンビニに激突した車だった。
私の子供をはねた車――店の自動ドアを木っ端微塵にした状態で、停止していた。
微かにエアバッグが見える。そこにも警察が何人かいて、その中に運転手と思われる人が彼らと話していた。
私は加害者の姿を見た時、許せない――という言葉が瞬時に浮かんだ。
加害者は、高齢者だった。顔や手の皺や腰の曲がり具合、そして馬鹿にデカイ声で話す時の喉のしゃがれ具合――まごうことなき高齢者だった。
残り数年で未来が終わる奴に、何十年も未来がある子が、将来を奪われたのだ。
そう思った瞬間、私は何かの線が切れたみたいに涙が止まらず、叫びに近い声を上げて、うずくまってしまった。
*
「アクセルとブレーキを踏み間違えたんだよ」
裁判長の前で、その男はそう証言した。加害者は七十代後半の老人で、一軒家で独り年金暮らしをしている。
よく通うスーパーで買い物をしようと車で向かっていた最中、赤信号が見えたのでブレーキを踏もうとしたが、加速してしまった。
そして、不運にも我が子が飛び出し来て、事故が起きてしまった。間違いなく加害者が悪いのだが、そう言いきれない厄介な問題が出てきた。
横断歩道が赤信号の時に我が子が飛び出したのだ。弁護士と検事が言い合った結果、私の方にも責任があるという事になり、加害者の賠償責任が軽減された。
懲役は歳のこともあってか、免れてしまった。この加害者からの損害賠償は、お墓を建てるつもりで貯めた資金から支払われた。
加害者からの謝罪もあったが、どこか人を死なせたという自覚を持っていない瞳をしていた。
傍聴席にいた私は怒りで煮えたぎり、息子の大好きだったヒーローの人形を力強く握りしめていた。
何がアクセルを踏み間違えただ。ふざけるな。そんな些細なミスで息子は車輪の下敷きになったんだぞ。
醜い魔法使いみたいな老人がハンドルを握ってしまったせいで、純粋な瞳をした妖精の我が子が消えたかと思うと胸が張り裂けそうになった。
隣にいる夫を見ていた。彼も犯罪者に息巻いていた。私と同じ気持ちを抱いてくれているのと嬉しく思う一方、もしあの時声をかけくれなかったら息子は命を失わずに済んだかもしれないという怒りもあった。
いや、私がもっとしっかり手を握っていれば。あの時離さすに引き止めていればこんな惨劇は生まなかったかもしれない。
痛憤、後悔、哀惜が合併し心がグチャグチャになりそうだった。
ふと私はさっきまで高齢者が立っていた所に息子がいる事に気づいた。私は信じられなかった。なぜあんな所に息子が立っているのか分からなかった。
私は小さくあの子の名前を呼んだ。すると、息子は嬉しそうに手を振っていた。その瞬間、私は涙が止まらなかった。あぁ、息子は帰ってきたんだ。私にバイバイするのが嫌で戻ってきたんだ。
しかし、夫は「どうしたんだ?」と心配そうに尋ねてきた。
「ほら、見えない? あの子が……あの子が帰ってきたのよ!」
私は再びその方を見ると、息子の姿はいなかった。その瞬間、私は夢だったのだと絶望し腰が抜けてしまった。
その後の記憶はあまりない。おそらく事務的な処理を済ませたのだろう。ほとんど茫然自失といった状態で家に帰り、ベッドに眠ったような気がする。
あの子の葬式もあまり覚えていない。やったようなやっていないような。喪服を来た私と夫の両親が宥めに来てくれたり、友人や知人も挨拶しに来た記憶があるから開いたかもしれない。
あんなに騒がしかった我が家がお通夜みたいに静かになったのが心苦しかった。
あの子のいない子供部屋。あの子のいないリビング。あの子のいない浴室――どこもかしこも空虚だ。子供用のシャンプーやおもちゃ、私と夫の似顔絵が貼られた壁があの子のいた痕跡を感じることができる。
これから一生息子のいない生活が始まると思うと、後を追いかけたくてしょうがなかった。
*
あの事件以降、私は亡き我が子の幻像の世界にのめり込むようになった。朝、空っぽの敷き布団で寝ている我が子を起こす所から一日が始まる。
いつもの通り、息子の分の朝食を作る。今日はトーストにスクランブルエッグ、ミニトマトとレタスのサラダ。
息子はミニトマトが嫌いなので、克服するためにフォークで刺して無理やり食べさせてあげる。
「ほら、あーんして、あーん」
当然のことながら我が子は座っていないので、食べる事はないが、私は何度も食べるように言う。
刺し方が甘いのか、フォークからミニトマトがこぼれる。コロコロと逃げるように転がって、コツンと壁にぶつかる。
私は「そんなことしちゃ駄目でしょ!」とムッとした顔をして、ミニトマトを拾う。
夫は哀れみと悲しみが入り混じったような複雑な顔をしてトーストを少しかじっていた。居心地が悪かったのか、早めに会社に向かっていった。
夫を見送った後は、息子を保育園へと連れていく。今日も通うはずだった場所に、手を繋ぐ仕草をしながら息子と会話――他者から見たら完全に独り言――を楽しんだ。
「今日は何して遊ぶの?」
「もうすぐ遠足だね」
「今日のお弁当は、あなたの大好きなハンバーグだよ」
徒歩10分間、一切会話が途切れる事なく保育園まで辿り着く。ちょうどお見送りの時間帯らしく、どの親も自分の子の手を繋いで先生の所まで連れていっていた。
チリンチリンと自転車で来る親もいた。前と後ろに子供を乗せているということは、年少か年中か、年長か――どちらにせよ、そのママは慌ただしそうに子供を降ろしていた。
子供の泣く声が聞こえる。その方を見ると、三つ編みの女の子がママと離れるのが嫌らしく、足を掴んで離さなかった。ママも先生も困った様子で、必死になだめようとするが、ますます泣くばかりだった。
それを見ていると、我が子の幻像が映し出される。
離れたくないと泣いてくれたあの日。ポカンとした顔をして見送っていたあの日。大人しく手を振ってくれたあの日。そんな当たり前だったあの日は二度と取り戻すことができなかった。
そんな事を思い浮かべていると、何人かのママが私の方を見て、ヒソヒソと話していた。
保育園の子をジッと見ているだけの不審者だと思われたかもしれないが、私は見えないフリをして「じゃあ、行ってくるね」と遠慮がちに手を振って、保育園を後にした。
この状態で家に帰ると気が狂いそうになるので、スーパーに寄って、夕飯の買い出しに出かけた。
今日はあの子が好きなオムライスにしてあげよう。私は卵とケチャップをカゴの中に入れて、スナック菓子のコーナーを通りすぎて、キャラクターもののお菓子が売っているコーナーに向かった。
すると、保育園にいるはずの息子が私の足元で、ねだってきた。
「なに? またあのフィギュアが欲しいの?」
駄目という顔をすると、息子が今にも泣きそうな顔をしていた。こういう時は何がなんでも買ってあげなかったが、今日は何個でも買ってあげたい気分だった。
「いいよ。その代わり、一個までね」
私はそう言うと、息子がよく見ていた特撮ヒーローのフィギュアを探す。けっこう人気の商品なので、売り場に無いとよく「ヤダヤダ!!」と喚いていたっけ。
だから、今日こそはあってくれ――と心の中で念じると、一個だけ見つけた。
「良かったね! あった――」
私は息子のいるであろう方へ向くと、そこにはあの子とは違う子供がいた。
指をくわえて不思議そうな眼差しで、私を見ていた。私はどうすればいいか眼をキョロキョロさせていると、「コラッ!」という声が聞こえた。
見ると、ふくよかな母親らしき女性がやってきて、「知らない人と話しちゃ、駄目でしょ!」と自分の子の腕を引っ張った。
すると、その子は急に「ヤダヤダ! フィギュア欲しい!」と喚き出した。
母親は『はぁ、またか』みたいな顔をして、「だから、無いって言ってるでしょ! どのお店にも売ってないんだから!」と無理やり連れて行こうとした。
私はとっさに「あの、これ」と最後の一個を差し出した。母親は驚き戸惑った様子で、私をジッと見ていた。
「えっと、あの、いいんですか?」
少し警戒しながら尋ねてきたので、私は「いいんです。息子の分はもう買っていましたので」と微笑んだ。
「あら、そう? ありがとうね!」
『息子』というワードに安心したのか、フレンドリーな雰囲気になって受け取ると、子供に「ほら、ちゃんとお礼を言いなさい!」と促した。
子供はモジモジしながら「ありがと」と、か細く言った。私は「どういたしまして」としゃがんで笑顔を見せた。
「息子さんはおいくつなんですか?」
すると、今度は母親の方から聞いてきた。私は立ち上がって、「三歳になります」と返した。母親は「へぇ! それじゃあ、うちの息子と同じだわ!」と満面の笑みを見せた。
「息子さんは保育園、それとも幼稚園?」
「保育園です。たった今、預けてきました」
「そうなんだ! じゃあ、あの五丁目の?」
「えぇ、そうです」
「同じです! 今日もそこに預けようとしたんですけど、息子が『フィギュア買ってくれなきゃ行かない!』とか言って言うことを聞かなくて、仕方なくスーパーに寄ってから……」
「そうなんですね」
こんな世間話をしたあと、母親は「それじゃあ!」と慌てた様子でレジの方に向かった。息子は私の方に手を降りながら引っ張られていった。
私は手を振り返した後、ふとあるはずのない未来を想像した。
もしかしたら、あの人とママ友になっていたかもしれない。気さくで良い人そうだし、カフェとかに行って夫や育児の愚痴を言い合ったりできたかもしれない。
息子もあの子と友達になって小学校に上がったのかな。ピカピカのランドセルを背負って。でも、それはもう叶わぬ夢だ。
軽く溜め息をつくと、商品二つしか入っていないカゴが米五キロ持っていると思うくらい重たく感じながら、おぼつかない足取りでレジに向かった。