後編
精算が終わり、スーパーから出ると、わざと路地裏を回ったり、変な道を進みながらフラフラと彷徨った後、帰宅した。
家の中は、ガランとしていた。墓場みたいに静まり帰っているリビングを見ていると、今にも吐きそうな気持ちに駆られた。
逃げるように冷蔵庫を開ける。中には、卵とケチャップが何十個も入っていた。卵は店に並べられているかのように半分くらい占拠していた。
ケチャップも同様で、飲み物を置く場にはもちろん、冷凍室にも未開封のケチャップでギッシリだった。
野菜コーナーは卵だらけで、隅っこにしなびたレタスと腐ったミニトマトがあるだけだった。
私は適当に買ってきたものを入れると、バタンと閉じて、ソファに座った。
洗濯物は溜まっている。どこもかしこも埃だらけ。こびり付いた汚れの食器の山――やる事は死ぬほどあるのに、何もやる気が起きない。
ただボゥとしている。寝る訳でもない。テレビを見る訳でもない。SNSをする訳でもネットサーフィンする訳でもない。
何か考える訳でもなく、ジッとテレビの上にかけている時計の針を見ていた。短針が『5』を指した時、私は立ち上がった。
再び外に出て、足早に保育園に向かう。考えるのは、保育園で過ごす息子のこと。
お友達と一緒に歌をうたっていたのかな。 縄跳びや鬼ごっこして遊んでいたかな。お弁当、残さずに食べたかな。
そんな事を考えながら歩いていると、目的地に着いた。
朝みかけたママや子供も何人かいた。ママと離れるのが嫌だと泣いていた子が一目散に駆けていって、抱き締められているのを見ていると、胸がキュウと苦しくなった。
「ママ!」
ふと聞こえてくる我が子の声。見ると、息子が私の方に駆けてきている。
「おいで!」
私はしゃがんで、両腕を広げて待ち構える。息子が飛び込むように私の胸へダイブする。私はギュッと包み込んで、我が子の汗っぽい匂いを感じる。
「おかえり」
その言葉を出した瞬間、我が子は蒸発してしまった。
虚しく空いた空間を見ていると、切なくなり、張り裂けそうになり、今にも慟哭してしまいそうになったが、グッと堪えて、その場を後にした。
でも、すぐに息子は私の手を握ってくれていた。今日起きた事を拙い言葉で話してくれた。
私は一つたりとも聞き漏らすまいと、耳を傾けながらウンウンと明るい相槌をうった。
「今日はあなたの大好きなオムライスだよ」
そう言うと、息子は飛び上がるように喜んでくれた。今日も明日も明後日も来週も作ってあげると思いながら、私と息子は帰路に着いた。
息子の手洗いとうがいを見守って、子供向けのテレビ番組とアニメを見させている間、オムライスを作る。
ここ最近の夕飯はオムライスしか作ってないから、流れ作業のように手早くできた。
まず、息子用の小さめのができた。ケチャップで、大好きなキャラクターを描いてみるが、なかなかうまくいかない。
「ごめんね〜! また失敗しちゃった」
そういって、息子の前に置く。私のも適当に作った後、息子と一緒にいただきますを言って食べた。
私は一口食べて、後は息子にアーンをさせる。ボトリとカーペットに落として、また食べさせる。
息子が全部食べ終わると、床はケチャップライスやグリーンピースなどが散乱していた。私は「また食べこぼして〜!」と嬉しそうな声を上げて、雑巾で掃除をする。
そして、自分のは何の躊躇もなくゴミに棄てた。
その後は、一緒にお風呂に入って歯磨きをさせる。今日も夫の帰りが遅いので、先に寝かしつける。
そして、私も眠る。眠ろうとする。
けど、できない。目を閉じれば、現実に引き戻される。息子が赤い車に、血の車に跳ねられた映像が鮮明に蘇ってくる。
何度も、何度も、何度も、何度も――延々と拷問のごとく繰り返される。
叫びを上げて、目を覚ますと、隣に眠っているはずの息子がいない。
私は息子の名前を呼びながらキッチン、お風呂場、クローゼット、玄関、トイレに探す。けど、いない。
もしかして鍵が開いていて、そのまま外に出てしまったのかと焦り、飛び出す。家の周りを探しても、よく行くお店の通りも、閉められた保育園の前にもいなかった。
大声で我が子の名前を呼んだ。叫んだ。けど、声が聞こえない。あの子の可愛い声が聞こえない。
(どこにいるの? まさか誘拐?)
母特有の第六感でそう感じた私は、すぐさま交番に駆け寄って、息子が行方不明である事を告げ、早急に捜索するよう願った。
が、お巡りは戸惑った様子で、「とりあえず、落ち着いてください」となだめるように言った。
「落ち着く? 息子が誘拐されたんですよ! あの子を取り返してください!」
私は叫ぶ。お巡りは必死になって、私を座らせようとする。が、私は振り切って、さらに大きな声で叫んだ。
「そうだ! 私、犯人を見ました! この目でハッキリと! 赤のワンボックスカーに乗って、私の子供を連れ去ったんです! 皺くちゃの老人が! 自分はまだ乗れると空元気している老人が! 私の……私の子供を……息子を……連れ去ったんです……」
段々あの時の悪夢が脳裏を過ぎり、その魔力に蝕まれて、私の声の元気がなくなってきた。
ついには、地べたに座り込み、「返してください……返してください……」と、どこにも焦点を定まらせずに囈言のように呟いていた。
その後は、夫が引き取って家まで連れてきてくれた。これで五回目だぞと怒られたけど、私は息子が起きるから大声を出さないでとお願いした。
すると、夫は呆れた表情、手に負えないよと言っているかのような顔をして、そのまま寝てしまった。
私は空っぽの布団の中で、子守唄を歌った。息子が大好きだった特撮、アニメの主題歌も歌った。
よく適当に歌詞を付けていたオリジナルの変な歌も歌った。一緒にお風呂に入った時に歌っていたのも全部。全部歌って、また繰り返した。
そして、朝になって、また息子を起こして、一日が始まる。
こんな錯乱した生活を何ヶ月も続いていくと、夫の精神が保たなかったのだろう。
ある日、離婚届を出してきて別れを告げられた。私は躊躇なくサインをした。
彼が出ていく日、私は養育費を振り込むように言ったが、無視して出ていってしまった。
私はシングルマザーになってしまった。パパがいなくなって哀しそうな顔をする息子を優しく抱きしめた。
「大丈夫。私が絶対に守ってあげるから」
その言葉を何度も繰り返した。
*
夫と別れて何日かしたある日、いつも通り、息子を見送って、スーパーで夕飯のオムライスの材料を買って帰ろうと歩いていた。
私の横で見覚えのある車が通りすぎたのだ。
最初は気のせいだと思って見過ごしたが、その車が赤信号で停まったので、何となく車内を覗いてみた。
そこにいたのは、息子を殺した加害者の老人だった。事故後も裁判所の時で、脳裏もまで焼き付けたから、ハッキリと覚えてた。
私は氷漬けにされたかのように立ち止まってしまった。加害者は私に気づく素振りをしめさずに、そのまま発進していった。
暫く時が止まった感じがした。頭の中で、あの事故と今の情景が交互に入れ替わる。
巻き戻せば戻すほど、私の血流が盛んになった。奥歯を強く噛み締め、握り拳を強くした。
アイツは性懲りもなく車を運転していたのだ。一人の未来ある子供を殺したというのに、アイツはまだ車に乗っている。
そう考えると、腹わたが煮えくり返り、買ったものを投げ捨て、風のように走って、我が家に帰宅した。
すぐさまキッチンに行き、包丁を取り出した。そして、近くにあったカバンに隠して、また家を出た。
足早に向かう。奴が行く場所は大体見当がついていた。この近くで駐車場が停められるスーパーがあるのは、コンビニより先にあるところだ。
自動ドアが木っ端微塵になったコンビニを通り過ぎ、チェーン展開されている大手のスーパーに着いた。
手始めにあの車を探す。車種もナンバーも覚えていたので、それほど苦労はしなかった。車内には誰もいなかったので、店内にいるだろうと考え、入り口へと向かった。
が、その近くにある自販機の隣のベンチで、アイツが座っているのを発見した。
呑気にボゥとしながら空を見上げていた。その姿を見ると、たちまち殺意が全身を巡った。カバンの中で包丁を掴み、ツカツカと歩み寄った。
私が近づいても、老人はうわの空だった。それがますます腹立たしく、脚が早くなる。
報いを受けさせてやる。我が子が理不尽に殺されたように。加害者のお前も理不尽に殺してやる。いや、正当だ。これは正当な殺人だ。
こいつは人を殺したにも関わらず、のうのうと生きている。しかも、また車に乗って。 反省の色が全く見えない老人に、私は死を与えてやる。
そう思いながら包丁の柄をギュッと掴んだ。
「ママ!」
その時、背後から息子の声がした。振り返ると、我が子が今までにないくらい哀しい顔をしていた。
私は立ち止まり、見つめあった。すると、息子はタッと駆け出してしまった。
「待って!」
追い掛けようと駆け出した――その時だった。
背後で爆発のような轟音が聞こえたのだ。バッと振り返ると、老人がいたベンチや自販機が一台の車に潰されていた。
たちまち人が集まり、何人かの男女が車内にいる運転手を外に出した。
老人だった。アイツと同い年くらいのお婆さんが事態を把握していないかのような顔をして、フラフラと歩いていた。
「お父さん!」
すると、今度は30代くらいの女性がエコバッグを棄てて、事故現場の方に駆けていった。その顔に見怯えがあった。確か裁判所の傍聴席にいた顔とそっくりだ。確かアイツの娘だったっけ。
アイツの娘はさっきまで父親がいた所が悲惨な状況になっているのを見て、パニックになっていた。
この時、私はアイツがハンドルを持っていない事を思い出した。つまり、あの事故の後、娘が運転してスーパーに連れて行ったということになる。
私は何だか可笑しくなった。絶対に不謹慎であろうと誰もが思うくらい声を上げて笑った。
「アハハハハハハ!!!! ざまぁみろ! 報いだ! 報いを受けたんだ! こいつは私の息子を殺した殺人者! 車で轢き殺したから、車で轢き殺されたんだ! 当然の報いよ! アハハハハハハ!!!!」
アイツの娘に睨まれても、周囲の眼が私をどんな風に見ていようと気にせず、笑い続けた。
嗤って、笑って、サイレンの音でかき消されるまで、私は嗤い続けた。
*
遠くの方で私を呼ぶ息子の声がした。我に返り、急いでスーパーの入り口へと進んだ。途中高齢者の娘が「どうして笑ったんですか?」と怖い顔をして通せんぼされた。
私は「息子が待っていますので」と言って無理矢理行こうとしたが、それでもなお邪魔して来たので、カバンの中にたまたまあった包丁を取り出して刃を見せてきた。
刃の効果はてきめんで、奴の娘は怯えた顔をして逃げてしまった。
アイツだけではなく周囲の人も寄せ付けなかった。私は護身用に持ったまま買い物を続ける事にした。
今日は息子の大好きなハンバーグにすることにした。オムライスもいいけど、確か寝る前に息子が「ママ。明日、ハンバーグが食べたい」とか言っていたので急遽変更する事にした。
お肉コーナーで大容量の合い挽き肉をカゴの中に入れ、野菜コーナーへと向かう。玉ねぎ、サラダ用のレタス、ミニトマトも入れた。いつもは混んでいるはずなのに今日はやけに人気がいない。
やっぱりこの包丁のおかげだろうか。これがあるおかげで悪い気を去ってくれる。
ふと私の息子が足元にいない事に気づいた。私はまたお菓子コーナーに一人でいったなとその方に向かうと誰もいなかった。
私は大声で息子の名前を呼んだ。カゴを置いて包丁を持ったまま小走りでスーパー内を駆け回る。
不思議な事に誰も人がいなくなってしまった。もう閉店セールなのだろうか。時計を見てもまだそんな時間ではなかった。
何やら外が騒がしかったが、今は息子を見つけることが最優先だった。隅から隅まで探した。
あの子はもしかしたら隠れんぼをしているのかもしれない――私はそう思い込んだ。
売り場内を隈なく捜索しても見つからなかった私はカゴとカバンを置いて、包丁だけを持ってバッグヤードの方に足を踏み入れた。
すると、物音がした。音のした方を見ると山積みになっているダンボールが揺れていた。私は瞬時に我が子だと思い、安堵の息を漏らした。
「もう。こんな所に隠れちゃだめでしょ? ほら、こっちに来なさい」
私は穏やかな声を出して呼びかけたが出てこなかったので、仕方なく近づいた。
「ほら、みーつけた……」
しかし、そこにいたのは全く知らない中年のおじさんだった。彼はガタガタ震わせながら両手を上げていた。エプロンの胸元に『店長』という肩書を見つけた。
一瞬思考が停止したが、営業中なのだからいるのは当たり前かと判断して冷静に尋ねた。
「うちの息子、知りませんか? 三歳くらいで大好きなヒーローTシャツを着ているんですけど……」
「し、知らない! 知らない!」
私は店長に息子の行方を来たが、過剰なほど否定してきた。
「何か隠しています?」
「隠してない! た、頼む! 命だけは助けてくれ!」
店長は猛獣に遭遇したかのように震えていた。この不可解な行動ますます怪しくなった。
私は第六感を働かせた。こいつが息子をさらったんだ。
「息子はどこ?」
「だ、だから、しら、知らないって!」
「とぼけるなっ! お前が攫ったんだろ?!」
「さ、攫うものか!」
「息子を返せ!」
私はいつまでも知らない素振りを見せる店長に果敢に立ち向かった。包丁を大きく振るが、あっさり避けられてしまった。それどころか、奴は姑息なことに山積みのダンボールを倒して私を行かせないようにしてきた。そして、ネズミのごとく売り場の方に飛び出してしまった。
「待てっ!!」
私は転がっているダンボールを蹴飛ばしながら追いかけた。店長はすでに入り口へと向かっていた。私は猫のように俊敏に走った。
が、大勢の機動隊が私の前に立ちはだかった。まるで私を猛獣みたいに透明の盾で取り押さえようとした。
「離して! 誘拐犯を捕まえて!」
私は張り裂けるほど叫んだが聞く耳を持たず、唯一の武器である包丁は弾き飛ばされ、私は怒声入り交じる中で手錠をはめられてしまった。
最初は何が起きたのか理解できなかった。私はただ息子を返してもらおうとしただけなのに。なぜ犯人みたいな扱いを受けなければならないのだろう。
そう思いながら警官二人に抱えられながら外に出た。大勢の人集りが出来ていた。警察官、報道陣が忙しなく動いていた。
その中に店長を見つけた。あいつが息子を誘拐したと叫んだが誰も聞く耳を持たなかった。無理やり車両に押し込められ、車が発進された。
報道陣らしき人達が私の方を見ている。その中に息子の姿がいた。私は窓に張り付こうとしたが警官達に抑えられてしまった。
息子の姿は泡のように消えていき、その瞬間、私は全ての力が抜け、ただ嗚咽を漏らすばかりだった。
完




