第3話:即席の医療と「水」の確保
「まずは、3時間生き延びる」
絶対的リーダーである九条蓮の冷徹な号令によって、凍りついていた天才たちの時間が再び動き出した。
極寒の風が吹き荒れる中、六人の全裸の男たちは、鬱蒼とした針葉樹林の中を歩き始めた。
目指すのは、風を少しでも凌げる場所、そして当面の生存に必要な資源の確保だ。
だが、未舗装の原始の森は、現代社会の温室で育った彼らの肉体に容赦なく牙を剥いた。
『……最悪だ。なんで俺がこんな目に』
ITエンジニアである東航平は、震える体を抱えながら、枯れ枝や鋭い石が転がる腐葉土の上を歩いていた。
普段は空調の効いた部屋で高級なアーロンチェアに深く座り、一歩も動かずに世界中のサーバーと繋がっていた彼にとって、この物理的な苦痛は拷問に等しい。
「痛ぇっ!……クソッ、なんだよこれ!」
突如、東が顔を歪めてしゃがみ込んだ。
「どうした、東」
九条が足を止め、冷ややかな視線を下ろす。
「足の裏を切った……。クソ、尖った石か何かを踏んだらしい。血が止まんねえ……」
東が持ち上げた右足の裏からは、赤い血がたらたらと流れ落ち、凍てつく土を黒く染めていた。
『冗談じゃない。俺の足はキーボードの下のフットレストに乗せるためのものであって、オフロード用じゃねえんだよ……』
痛みと寒さ、そして自身の不運に対する怒りで、東の顔が苦痛に歪む。
「動くな東。傷口から土壌細菌が入り込めば、この環境下では致命傷になるぞ」
鋭い声と共に、東のそばにしゃがみ込んだのは、冴島陸だった。
医学と生命科学のプロフェッショナルである彼は、血の流れる東の足裏を瞬時に観察し、顔をしかめた。
『傷自体は深くない。だが、現代の抗生物質も消毒液もない環境下では、わずかな破傷風菌や連鎖球菌の侵入が敗血症を引き起こす……。現代医療のバックアップがない以上、小さな感染症が即、死に直結するんだ』
冴島はすぐさま立ち上がり、周囲の植生へと鋭い視線を走らせた。
「おい、冴島……? 何探してんだよ、救急箱なんて落ちてねえぞ」
「黙ってろ。……あった」
冴島は数歩先の茂みから、ギザギザとした独特の形をした葉を持つ植物を数枚むしり取った。
「ノコギリソウの近縁種だ。こいつには強力な止血作用と、アキレアという殺菌成分が含まれている」
冴島はためらうことなく、その葉を自分の手のひらでゴリゴリと力強く揉み潰した。
青臭い、薬効成分の強烈な匂いが漂う。
「ちょっと待て、それをどうする気だ……?」
「歯を食いしばれ」
「ぎゃあああっ!!」
冴島は、潰して汁が滲み出た葉の塊を、東の傷口に直接押し当てた。
「痛い痛い痛い! 染みる! バカ、もっと優しくしろよ!」
「騒ぐな。アルコール消毒に比べればマシだろう。これで血はすぐに止まるし、化膿も防げる」
冴島の言葉通り、数分もしないうちに東の足の裏からの出血はピタリと止まっていた。
「……マジかよ。草の汁塗っただけだぞ?」
真野が信じられないという顔で、冴島の手当てを見つめる。
冴島は泥で汚れた手を払いながら、ずり落ちた眼鏡を直すいつもの癖で、鼻梁に指を伸ばした。
しかし、彼の指先は冷たい素肌に触れただけだった。
『……そうか。あの爆発で、愛用していたチタンフレームの眼鏡も吹き飛んだんだったな。……だが、不思議だ。裸眼のはずなのに、視界がやけにクリアだ。極限状態のアドレナリンのせいか……?』
冴島は自身の身体の違和感に微かに眉をひそめながらも、すぐに思考を切り替え、鋭い視線を真野に向けた。
「民間療法を舐めるな。現代の創傷薬の多くも、元を辿れば植物由来の成分を抽出・合成したものだ。……僕は今、利用可能なリソースで最適な医療行為を行ったまでだよ」
『……よし。応急処置としては完璧だ。まさか自分の知識をこんな原始的な形で使う日が来るとはな』
冴島の内心には、極限状態であっても自身の専門知識が通用したことへの、微かな自負と興奮が芽生えていた。
***
「見事な判断だ、冴島」
九条が短く賞賛の言葉を述べる。
「だが、東の傷が塞がったところで、我々の生存限界が数時間後であることに変わりはない。火を熾し、体温を確保する必要がある」
「なら、木の枝でも集めて摩擦で火を起こすか? サバイバル番組で見たことあるぞ」
鬼頭が周囲の枯れ木を見回しながら提案する。
「いや、その前に絶対に必要なものがある。……『水』だ」
九条は、全員の顔を順番に見渡した。
「火を起こすにも膨大な体力がいる。すでに極度の寒さとストレスで、我々の体内の水分は急速に奪われている。脱水症状によるパフォーマンスの低下は、この状況では死に直結する。さらに、傷口を洗い流す清浄な水も必要だ」
「水か……。雪でも舐めるか? いや、今は雪は降ってねえしな」
真野が空を見上げて呟く。
「任せとけ」
野太い声とともに、一歩前に出たのは郷田剛だった。
スーパーゼネコンの現場監督として、世界中の過酷な環境で巨大インフラを建設してきた男だ。
郷田は目を細め、周囲の地形、山の斜度、そして植生の偏りをプロの眼力で瞬時にスキャンした。
『……地形の傾斜角。広葉樹と針葉樹の境界線。そして、あの地層の露出の仕方……。間違いない』
「こっちだ。ついて来い」
郷田は自信に満ちた足取りで、森の奥へとズンズン進んでいく。
十分ほど歩いた時だった。
「ほらな、言った通りだろ」
郷田が指差した先には、岩肌から澄んだ水が湧き出し、小さな沢を作って流れている場所があった。
「すげえ……! マジで水脈を当てやがった!」
東が歓喜の声を上げ、真っ先に沢へ駆け寄ろうとする。
「待て! そのまま飲むな!」
冴島が鋭い声で制止した。
「いいか、どんなに澄んで見えても、自然の生水には寄生虫や未知の病原菌がウジャウジャいる。エキノコックスのような寄生虫を取り込めば、数年後に肝臓を食い破られて死ぬぞ」
冴島の恐ろしい警告に、東はビクッと体を震わせて沢から飛び退いた。
「じゃ、じゃあどうすんだよ! 煮沸しようにも、まだ火も鍋もねえぞ!」
「だから、俺の出番だって言ってんだろ」
郷田はニヤリと笑うと、近くに落ちていた太い白樺の倒木から、円筒状に樹皮を大きく剥ぎ取った。
それを漏斗のような円錐形に丸め、ツル草で縛って固定する。
「即席の『簡易浄水フィルター』を作ってやるよ。自然のメカニズムを人工的に再現するんだ」
郷田は沢の底から、粒の粗い小石を掬い取って樹皮の漏斗の底に詰めた。
次に、少し粒の細かい砂をその上に敷き詰める。
「石と砂で、物理的な不純物や大きな虫を濾過する。だが、これだけじゃ細菌は素通りだ。そこで……こいつの出番だ」
郷田が指差したのは、沢の湿った岩肌にびっしりと群生している、緑色のフカフカとしたコケだった。
「ミズゴケだ。こいつには強い酸性の成分が含まれていて、天然の抗菌・殺菌作用がある。水を浄化するには最高のフィルター素材だぜ」
郷田はミズゴケを大量にむしり取り、漏斗の一番上に分厚く詰め込んだ。
『小石、砂、ミズゴケによる三層構造。……ダム建設時の地盤改良や、浄水プラントの基礎理論と全く同じアプローチだ。物理法則は、どんな世界でも裏切らねえ』
「よし、完成だ。下で手を作って受け止めろ」
郷田が漏斗の上から、沢の水をたっぷりと注ぎ込む。
水はミズゴケの層を通り、砂を抜け、小石の隙間を伝って……。
ポタッ、ポタッ。
漏斗の先から、キラキラと輝く水滴が、東の両手の中に落ちてきた。
東は恐る恐る、その水を口に運ぶ。
「……ッ!!」
東の目が、驚きに大きく見開かれた。
「美味い……! なんだこれ、泥臭さなんか全くない。市販のミネラルウォーターより遥かに澄んでるぞ!」
「よし、俺にも飲ませろ!」
真野が続き、鬼頭が続き、冴島も匂いを嗅いでからこくりと喉を鳴らした。
極限の渇きと寒さの中で飲む、一杯の清浄な水。
それは、彼らの冷え切った内臓に染み渡り、消えかけていた生命力に再び火を灯すような、強烈な活力を与えた。
「……見事だ、二人とも」
最後に水を飲んだ九条が、口元を拭いながら静かに言った。
「医療によるダメージコントロール。そして、地形工学と土木知識によるリソースの浄化・確保」
九条の瞳の奥で、冷たい炎が燃え上がる。
「やはり、俺の目に狂いはなかった。お前たちの専門知識は、この未知の環境でも完璧に機能する」
絶対的リーダーの言葉に、五人の天才たちの顔つきが、先ほどまでの怯えた遭難者のそれから、プロフェッショナルの顔へと変化していた。
「さあ、次は『火』だ。凍死のタイムリミットまで、あと2時間少々」
九条が、見えない盤面を見据えるように、薄暗い森の奥を睨みつけた。




