第15話:消し炭とローマ字の魔法
外では再び夜の闇が深まり、時折強い風がオンドルの土壁を叩いている。
しかし、室内はかまどの輻射熱によって春のように暖かく、奇妙な静寂と安堵に包まれていた。
先住民のリーダーであるタラックとその部下たちは、腹一杯の焼肉を平らげ、神の御業としか思えない暖かな床の上で、完全に戦意を喪失してくつろいでいた。
『……信じられない。外は死の冬だというのに、ここは精霊の懐のように暖かい。彼らは一体、どれほどの魔法を操るというのだ』
タラックが畏敬の念を込めて部屋の隅を見つめると、そこでは異邦人の絶対的リーダー(九条)が、焚き火の傍らで何かをしていた。
九条は、燃え残った木の枝から「黒い消し炭」を拾い上げ、真野が石器で平らに削った数枚の石板を膝の上に並べていた。
『……言語の統一。それが、すべてのシステム構築の第一歩だ』
九条は冷たい瞳に理知的な光を灯し、ゆっくりとタラックの前に歩み寄った。
「……ッ!」
タラックが緊張して背筋を伸ばす。
九条は敵意がないことを示すように薄く笑い、手に持った消し炭で、オンドルのかまどで燃える「炎」を指差した。
そして、自身の口を指差し、はっきりと発音を促すジェスチャーをした。
『……炎。我々の言葉で、火を何と呼ぶか聞いているのか?』
タラックは戸惑いながらも、九条の意図を汲み取り、火を指差して発音した。
「チャルカ(炎)」
「チャルカ、か。……なるほど、巻き舌の破擦音が含まれているな」
九条は小さく頷くと、手にした消し炭を筆にし、平らな石板の上に「文字」を書き付けた。
『C H A R K A』
「なんだ、あれ……? 黒い線を描いている?」
タラックの部下たちが不思議そうに身を乗り出す。
九条は石板をタラックに見せ、そこに書かれた黒い記号を指でなぞりながら、寸分違わぬ正確な発音で復唱した。
「チャルカ」
『……!!?』
その瞬間、タラックの全身に雷に打たれたような衝撃が走った。
彼の目が驚愕に見開かれ、震える指で石板を指差す。
『魔法だ……! この男は今、目に見えない「声(精霊)」を、黒い模様にして石に閉じ込めたのだ!!』
文字を持たない先住民の文化圏において、「音声」とは発せられた瞬間に空気に溶けて消えるものだ。
それを物理的な形として記録し、後から全く同じ音を再現する。それは彼らにとって、魔法以外の何物でもなかった。
九条はタラックの驚愕を気にも留めず、淡々と次の対象を指差す。
床に置かれた水を入れた樹皮の器だ。
「ネア(水)」
タラックが震える声で答える。
『N E A』
九条は即座にローマ字に変換し、石板に刻み込む。
「ルタ(肉)」
「クワ(否定/敵対)」
「タワ(止まれ/待て)」
タラックが発する言葉の音素を、九条は一つ一つ正確に分解し、アルファベットという「世界で最も合理的で拡張性の高い記号」へと変換していく。
***
「……おいおい、マジかよ」
その様子を少し離れた場所で見ていた東が、呆れたような、それでいて感嘆を含んだ声を漏らした。
「あいつ、言葉の通じない現地人を捕まえて、いきなり『辞書』を作り始めやがったぞ。しかも一対一の単語マッピングで」
「ああ。九条の奴、相手の言語の文法構造と発音規則を、ローマ字に変換して片っ端からハック(解析)してるんだ」
冴島が眼鏡を押し上げる仕草をしながら、感心したように頷く。
「ローマ字ってのがミソだな」
郷田が腕を組んでニヤリと笑った。
「ひらがなや漢字みたいな複雑なもんじゃなく、母音と子音の組み合わせだけで全ての音を網羅できる。後で俺たちが彼らに『言葉』を教え込む時、一番合理的なインターフェースになるってわけだ」
「だが、気の遠くなるような泥臭い作業だぜ……。俺なら三日で発狂するね」
真野が苦笑いしながら首を振る。
東も同意するように深く頷いた。
「システム開発でも一番面倒くさくて誰もやりたがらないのが、こういう『既存のレガシーシステムの要件定義と仕様化』だ。……それを、プロジェクトのトップである九条自身が、誰よりも泥臭く最前線でやってやがる」
『……どんな巨大なシステムも、最初は一つの関数の定義から始まる。ここで手を抜くような三流に、世界は変えられない』
九条の耳には、仲間たちの会話は入っていなかった。
彼はただ冷徹に、そして異常なまでの執着を持って、未知の言語をローマ字という「現代のルール」へと落とし込み続けていた。
***
夜が更けていく中、石板には数十の単語がローマ字でびっしりと刻み込まれていた。
「……今日はここまでだな」
九条が消し炭を置き、小さく息を吐いた。
目の前のタラックは、すでに九条を「ただの人間ではない、恐るべき叡智を持った神か悪魔」として、完全に服従の眼差しで見上げていた。
九条は立ち上がり、オンドルの暖かな壁に背を預けながら、静かに燃えるかまどの炎を見下ろした。
『この脆弱な民を、まずは俺たちのシステムに組み込む。言語を統一し、労働力を最適化し、そして……』
九条の冷たい瞳の奥で、この未開の大地に鋼鉄の都市と絶対的な支配圏を築き上げるという、途方もない野望の炎が静かに、しかし確実に燃え上がり始めていた。
「ただ生き延びる」というサバイバルは、今ここで終わりを告げた。
これより始まるのは、現代の最高峰の知性を持つ6人の天才たちによる、この原始の世界を根底から書き換える「圧倒的オーバーテクノロジーによる覇権国家建国」の物語である。




