第12話:第一次接触・一触即発の交渉
極寒の静寂に包まれた雪の森。
弓を引き絞り、鋭い石器の槍を構える五人の先住民の戦士たち。
その圧倒的な殺気の中心へ、九条蓮は丸腰のまま、ゆっくりと歩みを進めていた。
「九条ッ! バカか、撃たれるぞ!!」
鬼頭が叫び、郷田が飛び出そうとする。
九条は振り返らず、右手を軽く上げて二人を制した。
彼の脳内では、すでに相手の戦力と「文明レベル」の正確なプロファイリングが完了していた。
『……武器は打製石器の槍と、単純な張力(単一素材)の弓。身に纏っているのは防寒性こそあるが、なめし技術も縫製も極めて原始的な獣の毛皮。金属器や高度な織物の形跡はゼロだ』
九条の冷たい視線が、瞬時に五人の戦士たちの動きをスキャンする。
『リスクマネジメントの基本は、常にワーストシナリオを用意しておくことだ。もし彼らが我々を上回る高度なテクノロジー……例えば銃器や鋼の刃を突きつけてきたなら、即座に服従の姿勢を取り、有用な「技術奴隷」として彼らの組織に潜り込み、内部からシステムをハック(乗っ取り)するプランに移行するつもりだった』
九条の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
『だが、その必要はない。圧倒的な技術格差はこちらにある』
『ならば、次は交渉だ。……ビジネスの基本。それは、まず相手の意思決定権者を正確に見抜くことだ』
九条は、引き絞られた弓の矢尻や、威嚇する男の顔を一切見なかった。
彼が観察していたのは、戦士たちの「視線の動き」と「立ち位置のベクトル」だった。
『一番体格のいい中央の男……ではないな。あいつは真っ先に槍を突き出してきた、いわば「現場の鉄砲玉」だ。威嚇している男も含め、全員の視線がコンマ数秒、必ず一番右端の小柄な男に向かっている。武器の構え方も、自分から攻撃するためではなく、右端の男の「指示」を待つ体勢だ』
九条は歩みを止めず、真っ直ぐに一番右端の、顔のペイントが最も複雑な男の眼を射抜いた。
「……お前が、リーダーだな?」
日本語での問いかけ。
言葉の意味は通じていないはずだが、九条に「見透かされた」と直感したのか、小柄な男の表情が微かに引き攣り、周囲の戦士たちの間に動揺が走った。
『ビンゴだ』
九条は、相手の「闘争本能」を刺激しないよう、歩幅を狭め、腕を下げたまま、リラックスした完璧な姿勢で歩を進める。
それは、現代のグローバルな商談の場で、立場の強いクライアントの懐に潜り込む際の、洗練された「無害のアピール」だった。
距離、残り五メートル。
リーダーとおぼしき小柄な男が、鋭い声で吠えた。
『クワ、マ・タワ!!』
その声に呼応し、全員の弓がギリギリと限界まで引き絞られる。
これ以上踏み込めば、確実に射殺される距離。
九条はピタリと足を止め、静かに口を開いた。
「言葉が通じない以上、理念や感情(お気持ち)での交渉は不可能だ。……なら、提示できるのは『実利』だけだな」
九条はゆっくりと、毛皮のコートの懐に手を入れた。
戦士団に極限の緊張が走る。
武器を取り出すと思われたのだろう。
だが、九条が取り出したのは、刃物ではなかった。
『ボトッ』
九条はそれを、相手のリーダーの足元、新雪の上に無造作に放り投げた。
「……なんだ、ありゃ」
後方で見ていた郷田が目を丸くする。
それは、焚き火でこんがりと焼かれた、分厚いプラティゴヌス(古代イノシシ)の肉の塊だった。
「九条の野郎……オンドルを出る前に、食糧の残りを持ってきたのか?」
鬼頭が驚きの声を漏らす。
「意思を持った人間がいると分かった時から、遭遇は想定内だ。……手ぶらで商談に向かう無能はいない」
九条は前を向いたまま、薄く笑った。
雪の上に落ちた肉からは、微かに脂が固まった匂いが漂っている。
未知の部族の男たちは、怪訝な顔で足元の肉の塊を見下ろした。
冬の森で、彼らがどれほど過酷な狩猟生活を送っているか。それは彼らの痩せこけた頬や、毛皮の下の浮き出た肋骨を見れば一目瞭然だった。
『……さあ、どうする?』
九条は冷ややかに観察を続ける。
リーダーの男が、部下の一人に顎でしゃくった。
部下の戦士が警戒しながら肉を拾い上げ、鼻を近づけ、そして……恐る恐る、端を少しだけ千切って口に運んだ。
その瞬間。
毒味をした男の目が、見開かれた。
『ン、ンマ……!?』
男は咀嚼するのももどかしいように、肉を飲み込んだ。
当然だ。九条たちが仕留めた肉は、冴島の知識で血抜きされ、真野の石器で適切に処理され、オンドルの火で完璧にローストされた極上のカロリーの塊だ。
極寒のサバイバルを生きる彼らにとって、これほど圧倒的な「実利(価値)」はない。
毒味をした男の反応を見たリーダーが、肉を奪い取り、自らも口に運ぶ。
そして、彼もまた驚愕に目を見開いた。
張り詰めていた彼らの殺気が、強烈な食欲と、未知の技術(こんなに美味い肉をどうやって作ったのか)への戸惑いによって、急速に霧散していく。
「……交渉成立だ」
九条は、相手の敵意が削がれた決定的な瞬間を見逃さなかった。
彼は自らの胸をポンと叩き、次に雪に落ちた肉を指差し、そして、森の奥にある「自分たちの拠点」の方角を指差した。
「もっと食いたければ、俺たちについて来い」
ジェスチャーの意味を理解したリーダーの男が、部下たちと顔を見合わせる。
弓の弦はすでに緩められ、槍の矛先も下がっていた。
「おい、九条。まさかあいつらを俺たちのオンドルに招き入れる気か?」
鬼頭が背後から警戒を含んだ声で尋ねる。
「そうだ。圧倒的な技術格差(力の差)は、言葉よりも雄弁だ」
九条は振り向き、冷たい笑みを浮かべた。
「我々が彼らの脅威ではないこと、そして同時に、我々が彼らとは次元の違う『文明』を持っていることを、物理的に理解させる」
九条を先頭に、鬼頭と郷田が続く。
そしてその後ろを、警戒しつつも「実利(肉)」に釣られた戦士団が、ゆっくりとついてくる。
静寂の雪の森で、異なる二つの文明が、ついに交わろうとしていた。




