第102話:ディーゼル機関車のロールアウト
建国7年の春。
帝都の中枢に位置する情報R&Dルームは、重工業エリアの喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
「……ツー、トン、トン、ツー。よし、これでアルファベットの『X』だ。ヨキ、記録しとけ」
「はい、東先生。これでローマ字の全26文字、および数字と濁点などのプロトコル策定が完了しました」
東航平は机の上で、真鍮の板とバネで作られた試作の『打鍵機』を指先で弾いていた。
カチッ、カチッ、と無機質な金属音が部屋に響く。
隣では、数学と経済学を修めた青年・ヨキが、植物紙の束に「長点」と「短点」の組み合わせをびっしりと書き込んでいた。
「しかし東先生。この『モールス信号』という暗号規則は、実に見事なロジックですね。使用頻度の高い『A』や『I』などの母音には短い信号を割り当て、使用頻度の低い文字には長い信号を割り当てる。……これなら、通信にかかる時間的コストを極限まで最適化できます」
ヨキが感嘆の声を漏らすと、東は気怠げに首を回しながらあくびをした。
「まあな。俺が考えたわけじゃねえが、よく出来たシステムだ。……真野や郷田の野郎が『機関車』ってバケモノで物理的な距離を圧縮するなら、俺たちは『電気』で情報の距離をゼロにする。……これで伝令のために歩かされることが激減するってわけだ」
東は試作機の配線を弄りながら、窓の外へと視線を向けた。
「そろそろ時間だな。……真野の最高傑作が、産声を上げる頃だ」
***
ズドドドドドドォォォォンッ!!
その時、帝都全体を揺るがすような、腹の底に響く重低音が轟いた。
重工業エリアの最も巨大な工房。その分厚い観音開きの鋼鉄扉が、ウインチによってゆっくりと左右に開かれていく。
もうもうと立ち込める黒煙を切り裂き、初春の陽光の下に姿を現したのは、黒光りする鋼鉄の塊だった。
巨大な直列6気筒ディーゼルエンジンを心臓部に宿し、リベット打ちの重厚な装甲で覆われた車体。
直径1メートルを超える分厚い鉄の動輪が、サイドロッドで力強く連結されている。
帝国が誇る陸の覇者、『第1号ディーゼル機関車』のロールアウトである。
「プァァァァァァァンッ!!」
真野の弟子のチャパが運転台で紐を引くと、圧縮空気を利用したエアホーン(汽笛)の音が、空気を震わせて鳴り響いた。
「……ヒィィッ! あ、悪魔だ!!」
「大地が怒っている……! 山の神の使いだ!!」
帝都の高くそびえるコンクリートの『外壁』のすぐ外側。
そこに吹き溜まっていたスラムの難民や移民たちは、壁の向こうから現れた黒煙を吐く鋼の巨獣を見て、腰を抜かし、泥の上に平伏した。
彼らの目には、それが人間の作った機械ではなく、怒り狂って咆哮する恐るべき怪物にしか見えなかったのだ。
未知のテクノロジーは、彼らにとって圧倒的な『恐怖』であり、逆らうことなど到底不可能な『神の権化』であった。
***
しかし、その巨大な機関車を、壁の外の難民たちとは全く異なる瞳で見つめている者たちがいた。
工房から少し離れた高台。分厚い防弾ガラスとコンクリートで守られ、空調まで完備された絶対安全な『見学デッキ』である。
「テツ、スズ。ほら、お父さんが作った『きかんしゃ』よ。すごいでしょ?」
真野の妻であるエルワが、3歳になった双子の兄妹を抱き寄せながら、窓の外を指差して微笑んだ。 エルワたちは、この絶対安全な居住区のデッキから夫の偉業を見守っていた。
だが、母親に抱かれたテツとスズの顔には、難民たちのような恐怖はおろか、子供らしいはとはしゃいだ様子すら全くなかった。
「……おっきい車輪、ぐるぐるしてる。お父さんが作った『きかんしゃ』」
「……けむり、くろいね。お父さん、『ふかんぜんねんしょう』って言ってた」
3歳児特有の舌足らずな言葉だが、彼らの瞳は機関車を「怪物」としてではなく、日常の一部として極めて冷静に見つめている。
親たちが日常的に口にする専門用語を、遊びの中でオウム返ししているのだ。
その横では、九条の長男であるシオン(3歳)が、静かに窓ガラスに張り付いていた。
「シオン? どうしたの? うるさくて怖い?」
母であるアナヒータが心配そうに頭を撫でるが、シオンは静かに首を振った。
「……怖くないよ、母様。あれは『僕たち』のモノだもの」
シオンの黒い瞳には、燃え盛るようなディーゼルの火や黒煙が映り込んでいる。
彼ら『第2世代』にとって、電球の眩い光も、ディーゼルの轟音も、鋼鉄の機械も、生まれながらにして存在する『当たり前の原風景』だった。
親たちの異常な知識と、圧倒的な暴力に守られた完全無欠のシステムの中で育った彼らは、大自然や未知に対する「畏怖」という感情を最初から持ち合わせていない。
「……あれ、すごい力だね。……じゃあ、お外にいる汚い人たちも、みんな『ぺしゃんこ』にできるね」
シオンがポツリと呟いた無邪気で残酷な言葉を、機関車の轟音が掻き消した。
帝国が生み出した物理的な暴力と、その庇護下で育つ異質な子供たち。
圧倒的な文明の力は、人類の生活を豊かにすると同時に、確実に新しい世代の『倫理観』を冷酷なものへと歪めつつあった。




