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三日三晩にわたって王都を濡らした雨が、ついに上がった。
分厚い雲の切れ間から差し込む朝日が、玉座の間に設けられた巨大なステンドグラスを透過し、私の足元に極彩色の光を落としている。しかし、その美しい光の絨毯の下には、拭いきれなかった黒ずんだ血の染みが、悍ましい模様を描いてこびりついていた。
「——完了いたしました」
静寂に包まれた広間に、絹を撫でるような声が響く。
私の前にひざまずくエグゼクティオの足元には、血の海に沈んだ分厚い羊皮紙の束が放り出されていた。それは、かつて私が手渡した「処刑者リスト」。元老院議員と騎士たち全員の名前が記され、そしてそのすべてに、彼自身の血塗られた指で『済』の印が引かれている。
「例の議員四名は、植民地で扇動し二万の兵を率いて最後の抵抗を試みましたが、見事粉砕してやりました。我が軍の死傷者は三千と軽微でした。敵は皆殺しです。約束通り、一人残らず地獄へ送ってやりました。彼らの絶望に歪んだ顔、命乞いの惨めな声。すべては君の御心を満たすための供物です。……さあ、私を褒めてくださいますか?」
エグゼクティオは顔を上げ、血走った赤い瞳で私を見つめた。
半年間、一睡もせずに殺戮を続けてきたというのに、彼の顔に疲労の色はない。あるのは、主人からの褒美を待ちわびる飢えた獣の熱情だけだ。
私は玉座からゆっくりと立ち上がり、彼のもとへ歩み寄った。そして、血と泥に塗れた彼の頬を両手で包み込み、深く、労うような口付けを落とす。
「ええ、よくやったわ、エグゼクティオ。私の誇り高き死神騎士よ」
「ああ……ヴェネフィカ。君の唇の温度だけが、私の狂気を鎮めてくれる」
彼が私の腰に腕を回し、顔を私の腹部に擦り寄せる。
復讐は、終わったのだ。
私を「娼婦の子」と蔑み、父の「寛容」を食い物にしていた寄生虫たちは、一人残らずこの世から消え去った。私の胸の奥に渦巻いていた怨念は、彼らの血によって綺麗に洗い流されたはずだった。
だが、私の心を満たしていたのは、達成感でも歓喜でもなく、ひどく静かで冷たい『虚無』だった。すべてを壊してしまった空っぽの玉座。そこに座る私を繋ぎ止めているのは、今私にしがみついている、この男の狂おしいまでの重みだけだ。
その時だった。
——パリィンッ……!
まるで巨大なガラス細工が砕け散るような、甲高い音が王都の空に響き渡った。
同時に地面が微かに揺れ、玉座の間のステンドグラスにピキピキと亀裂が走る。
「……始まったわね」
私は窓の外を見上げた。
本来であれば、帝国の空は『大結界』と呼ばれる不可視の魔力障壁に覆われている。しかし今、空には巨大な亀裂が走り、そこから紫色の魔力の粒子が、雪のようにハラハラと零れ落ちていた。
亡きインゲニウムが警告した通りだ。
国を支える上位の魔力保持者——つまり、大勢の議員や下級貴族(騎士)たちを一度に失ったで、大結界を維持するための魔力供給が完全に絶たれたのだ。帝国の絶対的な盾は、今まさに崩壊しようとしていた。
バンッ!!
そのひび割れた空の異変に呼応するように、王座の間の重厚な扉が荒々しく開け放たれた。
転がり込むようにして入ってきたのは、国境警備を任されていた下級貴族の青年、フィデリスだった。彼は全身を土埃と馬の汗に塗らせ、肩で息をしながら私の前に這いつくばった。
「じょ、女王陛下……! 申し上げます! 北の国境より、急報……!」
「騒々しいわね、フィデリス。結界が破れたことなら、ここからでも見えているわ」
私が冷淡に言い放つと、フィデリスは血の気を失った顔を上げ、震える声で叫んだ。
「結界だけではありません! 結界の崩壊を察知した隣国、アウィドゥス王国が、突如として国境を越えて侵攻を開始しました! その数、およそ五万! 対する我が軍の国境警備隊はわずか数千……すでに第一防衛線は突破され、敵軍は王都に向かって雷光の如き勢いで進軍しております!」
アウィドゥス王国。強欲なる王が治める、武力に長けた軍事国家。彼らは長年、我が帝国の豊かな魔力資源を狙っていたが、大結界に阻まれて手出しができず(戦費コスト)にいた。結界が消滅した今、彼らがこの機を逃すはずがない。
「女王陛下! 直ちに軍を招集し、騎士団の出撃命令を……!」
「無理よ」
私の言葉の意味を理解するまでに、数秒の時間を要したのだろう。
フィデリスの目が限界まで見開かれ、彼はガクガクと震えながら、玉座の間に広がる赤黒い染みと、血塗れの羊皮紙に視線を落とした。
「しょ、処刑……? 全員……? そ、それでは、この国を守る軍は……」
絶望に打ちひしがれ、その場に崩れ落ちるフィデリス。彼は正しい。この国は今、内戦を終えた直後で無防備な赤子も同然。五万の軍勢が雪崩れ込んでくれば、僅か二万程度の兵力では、王都は三日と保たずに火の海と化すだろう。
この国は滅びるのだ。
私の身勝手な復讐の代償として。
「……五万か」
その絶望的な数字を聞いて、私の腰を抱きしめていたエグゼクティオが、ポツリと呟いた。
彼はゆっくりと立ち上がると、腰の長剣の柄に手をかけ、楽しげに——本当に、心の底から嬉しそうに、唇を歪めて笑った。
「五万の命。五万の悲鳴。五万の絶望。……ああ、素晴らしい」
「エグゼクティオ?」
「ヴェネフィカ。私の愛しい女王。君の復讐が終わり、私は次なる供物をどうやって用意すべきかと思案していたところなのです。まさか、自ら首を差し出しに来る愚か者たちが五万もいるとは」
エグゼクティオはフィデリスの存在など完全に無視し、私の手を取って手の甲にうやうやしく口付けた。
彼の瞳に燃え上がっていたのは、防衛戦への悲壮感などではない。愛する女のために、さらなる虐殺を行えるという狂喜乱舞だった。
「私の率いる『静寂の不死隊』一万。彼らもまた、国内の鼠狩りでは血の飢えを満たせずにいました。ヴェネフィカ、私に命じてください。あの小賢しい羽虫どもを、一匹残らず焼き尽くしてこいと」
「……相手は五万よ。正面決戦の野戦で、無事で済むと思っているの?」
「誰に向かって口を利いているのです? 私は、君の愛した軍神だ。君が望むなら、世界のすべてを敵に回そうと、一人残らず血の海に沈めてみせる」
彼の狂気に当てられたのか、私の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
ああ、本当にこの男は、どうしようもなく狂っている。そして私も。
国が滅びるかもしれないというこの状況下で、私たちの間に流れているのは、ただひたすらに甘く、濃密な愛の予感だけだった。
「フィデリス、下がりなさい。これは女王の命令よ」
私が告げると、恐怖でへたり込んでいたフィデリスは、まるで化け物でも見るかのような目で私たちを凝視した後、這うようにして広間から逃げ出していった。
再び二人きりになった玉座の間で、私はエグゼクティオの首に両腕を回した。
「約束して、エグゼクティオ。私の世界に、私を脅かすものを一つも残さないで」
「勿論さ。アウィドゥスの兵どもが流す血で、君の新しいドレスを染め上げてあげよう」
空から魔力の粒子が降り注ぐ中、私たちは破滅の淵でワルツを踊るように、深く口づけを交わした。
これが私の選んだ道。
寛容という名の偽善を捨て、愛という名の狂気を武器に国を狂乱と共に終わらせる。
エグゼクティオが外套を翻し、戦場へと向かうその背中を、私は玉座から静かに見送った。崩壊する空の下、狂神の出陣の合図となる角笛が、遠く、高らかに鳴り響いていた。




