第6話 ファントム墜落事故と「東和の陰」崩れ始めた歯車――
1977年12月。
東和と奥野の共同で製造したB–747型機5機分、計20基のエンジンが、初めてPW社に納入された。
だが、懸念していた問題は静かに現実になっていく。
翌年の春頃から、奥野工業の生産力低下がじわじわと表面化し始めたのだ。
東和に出向した埼玉工場のベテラン20名が抜けたことで、製造工程の随所で不具合が生じる。
百里基地の偵察機に装備していたエンジンについても、防衛庁航空部からクレームが散発するようになった。
客先対応と製品の手直しに追われ、利益率は目に見えて低下していく。
それでも今年度決算は、PW社からの収入に支えられ、当初見込みの32%増には遠く及ばなかったものの、
12%の増収を確保することができた。
――まだ、踏みとどまれる。
奥野も宇野も、そう信じたかった。
しかし1979年1月。
奥野工業の命運を決定づける事件が起きる。
百里基地所属の偵察機ファントムが、霞ヶ浦上空でエンジン不調に陥り、そのまま湖面に墜落。
搭乗員2名が死亡したのである。
防衛庁の調査の結果、エンジン内部に重大な欠陥が見つかった。
そして、その製造元として奥野工業の名が浮かび上がる。
事故は国会でも連日取り上げられ、同年4月。
奥野工業は防衛庁航空部から全面的な取引停止処分を受けた。
それ以降、奥野の自宅はもちろん、埼玉工場にもテレビ局や新聞・週刊誌の記者が押し寄せ、無遠慮な取材攻勢が続く。
嫌がらせ電話も鳴り止まず、女性事務員たちは涙ながらに受話器を置く日々だった。
奥野と宇野は、亡くなった自衛隊員の遺族宅を何度も弔問した。
そのたびに、遺族や同僚たちから厳しい言葉を浴びせられた。
警察からも「業務上過失致死」の容疑で、奥野をはじめ、東和に出向している設計部長、埼玉工場長、製造担当責任者らが、
繰り返し事情聴取を受ける。
ふっくらとしていた奥野も静江も、みるみる頬がこけ、やつれていった。
奥野は、東和に出向させていた幹部とベテラン職人を呼び戻し、緊急幹部会を開く。
――善後策を協議するために。
しかしその席で、信じ難いことが起きた。
東和に出向していた設計部長・鋳造のベテラン職人・埼玉工場長らが、申し合わせたかのように辞表を提出したのだ。
「家族や親戚から『人殺しの会社に勤めている』と言われ、子供達は学校でいじめられています。
近所の目も冷たく、とても普通の生活ができません」
奥野も宇野も必死に引き止めた。
だが、終戦直後から何十年も苦楽を共にしてきた職人たちでさえ、「これ以上、この会社で働くことはできない」と
言い残し去っていった。
さらに埼玉工場の40名も辞表を用意していた。
今なら東和電機産業が、これまでと同じ待遇で全員の受け入れを約束しているという。
そして、追い打ちをかけるように――
長年付き合いのあった帝都銀行までもが債権回収に動き出した。
奥野工業は、一気に出口の見えない経営危機へと追い込まれていった。
―――――――――― 次回予告―――――――――――――――
宇野の胸に芽生える“確信”。そして、雪の夜奥野の最期。
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