第一章 エプロン少年の異世界移住とポポロ村の台所改革
異世界の限界集落と、おじいちゃんの護身棒
鼻腔をくすぐったのは、乾いた赤土と、どこか懐かしい青草の匂いだった。
「……えっ? ここ、どこだ……?」
赤木大地、十八歳。岡山県で葡萄農家を営む実家を手伝いながら農業高校に通う、ごく平凡な高校三年生である。放課後の実習を終え、いつものように愛読書を詰め込んだリュックを背負って通学路を歩いていたはずだった。だが、ふと足元がふわりと浮いたような感覚に襲われ、瞬きをした次の瞬間――大地は見渡す限りの荒涼とした赤茶色の台地に立ち尽くしていた。
空を見上げれば、地球では見たこともない巨大な天体が、うっすらと白昼の空に二つ浮かんでいる。風が吹き抜けるたび、ガラガラと錆びた音を立てる木製の標識があった。擦り切れた文字で、こう刻まれている。
『マンルシア大陸緩衝地帯・ポポロ村』
「ポポロ村……? 日本じゃない……っていうか、本当にどこなんだここ……」
混乱で心臓が早鐘を打つ。持っているものといえば、制服の上着の上に背負った黒いデイパック一つだけだ。中には筆記用具と、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の文庫本、そしてサイドポケットに収まった折り畳み式の細長い金属筒。
状況を把握しようと周囲を見回したその時、乾いた風に乗って、甲高い子供の泣き叫ぶ声と、下卑た男の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「うわぁぁん! ごめんなさい、おじちゃん、痛いよぉ!」
「あぁん!? 痛いじゃねぇよガキが! 耳を揃えて金を出せねぇなら、体で払ってもらうしかねぇんだよ!」
ビクッと肩を震わせ、大地は音のする岩陰へ視線を向けた。
そこには、粗末な布切れをまとった犬耳の小さな幼子が地面に組み伏せられ、頭を踏みつけられそうになっていた。その幼子を取り囲んでいるのは、ボロボロの革鎧を身につけ、腰に物騒な幅広の山刀を差した三人の大男たちだ。男たちの手には、何やら怪しげな木札が握られている。
「おい、泣いて許されると思ってんのか? 前村長のロップの野郎がトンズラこいたからってなぁ、オレたちの『暴行しない券』のサブスク契約が切れていい理由にはならねぇんだよ!」
「今月の更新料、銀貨五枚だ! 子供割引きを適用してやってこれだぞ!? 払えねぇなら、手前を帝都の闇ギルドに売り飛ばすしかねぇなぁ!」
「やだぁ! お母ちゃん……お母ちゃん助けてぇ!」
男たちの下品な笑い声が荒野に響く。
(ぼ、暴行しない券……? サブスク……? 何を言ってるんだあの人たち……!?)
理不尽極まりない恐喝の現場だった。前村長が村の予算を持ち逃げして治安が崩壊した結果、ならず者たちが勝手に「襲わない権利」を有料で押し付ける、悪質なみかじめ料の取り立てを行っているのだ。
男の一人が、幼子の小さな手を乱暴に踏み躙ろうと足を振り上げた。
「ぐずぐず泣いてんじゃねぇぞ、駄犬のクソガキが!」
ヒュッと息が止まりそうになる。大地の足がガタガタと震え出した。
怖い。逃げ出したい。自分は運動神経が良いわけでもなく、学校でも目立たない、どちらかといえば大人しくてからかわれやすい側の人間だ。見知らぬ異世界で、屈強な武器持ちの男たちに立ち向かうなんて、狂気の沙汰に思えた。
だが――脳裏をよぎったのは、幼い頃から繰り返し読んできた本の一節だった。
『世の中で一番美しいのは、正しいことを行うために、自分自身の恐怖と戦うことだ』――。
そして、厳しいけれど誰よりも優しかった祖父・赤木正宗の言葉。
『大地。お前は気が優しいから、喧嘩は好かんじゃろう。それでええ。じゃがな、目の前で小さな命が踏み躙られようとしとる時に、見て見ぬ振りをして逃げる男にはなるな。“義を見てせざるは勇なきなり”じゃぞ』
(逃げちゃ駄目だ。ここで僕が逃げたら……あの幼子は絶対に助からない!)
大地はぎゅっと目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
(落ち着け、赤木大地。パニックになったら体が動かなくなる。息を吸って……吐くんだ)
頭の中で四秒数えながら鼻から深く息を吸い込み、八秒かけて口から細く長く息を吐き出す。張り詰めていた交感神経がスッと落ち着き、心臓の激しい拍動が静まっていく。視界の端まで、驚くほどクリアに広がった。
大地は音もなくリュックの右サイドポケットへと右手を伸ばした。
指先が触れたのは、一見するとカメラの三脚や水筒ホルダーに見える、黒い筒状の物体。
――祖父が遺してくれた、伸縮式の護身用チタン合金棒。
親指でロックピンを弾き、手首を鋭く前方へスナップさせる。
――シャキィィィン!
小気味よい金属音と共に、何段ものチタンパイプが高速で噛み合い、一瞬にして長さ約百四十センチの頑強な一本の棒へと伸長した。
「そこまでだ! その子から足を離せ!」
澄んだ、けれど芯の通った少年の声が、荒野の静寂を切り裂いた。
ならず者たちが怪訝そうに振り返る。そこに立っていたのは、見たこともない奇妙な黒い学生服を着た、線が細く、およそ戦士には見えない東洋人の少年だった。
「あぁ……? なんだてめぇは。見慣れねぇ服を着やがって。迷子のガキが正義の味方ごっこか?」
「おいおい、手にしてるその細い棒は何だ? 杖か? 魔法使いの卵かよ!」
男たちがゲラゲラと下品に腹を抱えて笑う。だが、大地は笑わなかった。視線はブレず、両足は大地をしっかりと掴み、チタン合金棒を斜め中段に構えている。
普段の大地は気弱で争いを好まない。だが、理不尽に踏み躙られる弱者を庇う時、彼の内側から立ち昇る気迫は、窮鼠猫を噛むどころか、獰猛な龍をも一歩退かせるほどの絶対的な静けさを孕む。
「ガキの分際でオレたちのシマを荒らす気なら、まとめてぶち殺して売っ払ってやるよ!」
先頭のスキンヘッドの大男が激昂し、腰から抜いた錆びた山刀を振りかぶり、大股で突進してきた。頭上からの力任せの唐竹割り。まともに食らえば骨ごと断ち切られる凶撃だ。
だが、大地にはその太刀筋が、驚くほど緩慢に見えていた。
(力任せで、足が浮いている。……じいちゃんの言う通りだ)
大地は相手の刃に真っ向からぶつかることはせず、半身をわずかに滑らせて間合いを外した。
「赤木流・護身棒術、壱の型――」
大地のチタン棒が、風を切って下から斜め上へと柔らかく閃いた。
「――『野分』!」
香取神道流の鋭い巻き打ちに、宝蔵院流の間合いを狂わせる「引き」の動作を融合させた技。
振り下ろされる山刀の平(側面)に対し、大地のチタン棒が吸い付くように螺旋を描いて絡みつく。テコの原理で男の手首に強烈な捻転トルクがかかり、
――バキンッ!
「ぎゃあああっ!? て、手がァ!?」
男の手首から山刀が弾き飛ばされ、遥か十メートル後方の岩肌へと突き刺さった。
「な、なんだと!?」
「てめぇ、何しやがった!」
残る二人が色めき立ち、左右から同時に飛びかかってくる。一人は短剣、もう一人は角材を振り上げている。
大地は焦らない。弾き飛ばした反動をそのまま足腰の回転へと移し、低い姿勢でスッと前へ踏み込んだ。
「弐の型――」
チタン棒の先端が、まるで足元に咲く草花をそっと撫でるように、滑らかに地面すれすれを薙ぐ。
「――『露草』!」
相手の踏み込んだ前足の足首に、絶妙な角度と力加減で棒先が滑り込む。
決して骨を砕くような乱暴な打撃ではない。相手自身の突進する体重と運動エネルギーを利用し、支点だけを綺麗に刈り取る繊細な技だ。
「うおっ!?」
「ぶへぇっ!?」
二人の男は見事に宙を舞い、顔面から赤土の地面へ派手にダイブした。起き上がろうとするが、足首のツボを正確に突かれたせいで痺れが走り、力が入らない。
「ヒッ……な、なんだこいつ……! 化け物かよ!?」
武器を奪われ、相棒を一瞬で無力化されたスキンヘッドの男が、尻餅をついたままガタガタと歯を鳴らした。
大地はチタン棒をスッと引き、無言のまま切っ先を男の眉間へとピタリと突きつけた。息一つ乱れていない。瞳の奥に宿る、静かで揺るぎない覚悟。
「……その子のお金を奪うのも、乱暴するのも、二度とやめてください」
大地の静かな声が、男の心臓を直接掴むように響いた。
「次、この村で同じことをしたら……僕も、手加減ができるか分かりませんから」
「ひ、ひぃぃぃぃっ! お、覚えてろぉぉぉ!」
男たちは這いつくばるようにして立ち上がると、武器を回収する余裕すらなく、蜘蛛の子を散らすように街道の向こうへと逃げ去っていった。
敵の気配が完全に消えたことを確認し、大地はふぅーっと長く息を吐き出した。
「……はぁぁ……良かった……」
チタン棒のロックを外し、カチャカチャとコンパクトに縮めてリュックのサイドポケットに戻す。その指先が、今になって小刻みに震え出していた。やっぱり、ものすごく怖かったのだ。
大地は地面に座り込んでいた犬耳の子供の前に膝をつき、目線を合わせるようにして優しく笑いかけた。
「大丈夫? 怪我はなかったかい?」
「う……うあぁぁん! お兄ちゃん、ありがとうぅぅ!」
子供は大地の胸にしがみついて大泣きした。小さな体を抱きしめ、背中をポンポンと優しく叩いてやる。
「もう大丈夫だよ。怖い人たちはいなくなったからね」
その時だった。
タタタタタッ! と、驚異的な速度で荒野を疾走してくる軽快な足音が響いた。
「そこまでよ、悪党ども! ポポロ村でこれ以上の横暴は――って、あれれぇ!?」
現れたのは、真っ白な長い兎耳をピンと立てた、美しい少女だった。
頭には月兎族の特徴である愛らしい耳、腰には二本の頑丈なトンファーを差し、足元にはなぜか泥だらけの頑丈な「安全靴」を履いている。
少女は荒野に倒れ伏すならず者もおらず、見慣れぬ少年が村の子供を抱きしめてあやしている光景を見て、パチクリと丸い瞳を瞬かせた。
「あの……山賊たちは……? 子供の悲鳴が聞こえて走ってきたんだけど……」
「あ、ええと……あっちへ逃げていきましたよ。怪我はありません」
「えっ!? あなたが追い払ってくれたの!? あの凶悪な取り立て屋たちを一人で!?」
少女は驚きで兎耳を左右に揺らしたあと、胸元に手を当てて深々と頭を下げた。
「ありがとう……! 本当にありがとう! 私はこのポポロ村の村長、キャルル・ムーンハートです!」
「村長さん……? こんなに若いのにですか?」
「えへへ、色々訳があって引き受けることになっちゃって……。それよりあなた、怪我は!? 見慣れない服を着ているけれど、旅の冒険者さん?」
「僕は赤木大地。岡山から……あ、いえ、遠くの街から来た、ただの高校生です」
大地が立ち上がって頭を下げると、キャルルの長くて大きなお腹の虫が、
――グゥゥゥゥ〜〜ッ!
と、盛大に荒野に鳴り響いた。
「ひゃっ!?」
キャルルは顔を真っ赤にして兎耳を手でペタンと伏せ、両手でお腹を押さえた。
「あ、あの……これは、その……朝からずっと村の畑仕事と見回りで……その……」
見れば、彼女の服は擦り切れ、安全靴には泥がこびりつき、頬には疲れの色が滲んでいた。自分のことなど二の次で、村のために駆け回っていることが一目で分かった。
大地はふっと破顔した。
(なんだか……放っておけない人たちばかりだな、この村は)
「キャルルさん、村に台所はありますか? 僕、まだ簡単なものしか作れませんけど……何か温かいものでも作りましょうか」
大地の異世界での新しい暮らしが、この限界集落の荒野から、静かに幕を開けようとしていた。
【今日の大地のエプロン手帖】
今日のことわざ・格言
『義を見てせざるは勇なきなり(人として正しいと分かっているのに、保身や恐怖から行動しないのは本当の勇気がないということ/『論語』・『君たちはどう生きるか』)』
今日からできる生活の知恵
【パニックを鎮める4・8秒深呼吸】:緊張や恐怖で頭が真っ白になった時は、4秒かけて鼻から息を吸い、8秒かけてゆっくり口から吐き出しましょう。吐く息を長くすることで副交感神経が刺激され、心拍数が落ち着いて冷静な判断ができるようになります。
読んでいただきありがとうございます。
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