第21章 最強受付嬢と新たな刺客
アルヴェリア王国、王都。
冒険者ギルドは、今日も朝から賑やかだった。
「はい、次の方どうぞー! 依頼の報告ね? 討伐証明は……はい、確認したわ。お疲れさま!」
受付カウンターに立つマリアは、冒険者から提出された依頼書を確認し、にっこりと笑顔を向けた。
温泉旅行から戻ってひと月ほどが過ぎた。
ルナ、ティアナ、スカーレット、そして新たに仲間へ加わったリュシエラとの共同生活にも、すっかり慣れてきた頃だった。
……少なくとも、マリア本人はそう思っている。
「マリア様、こちらの書類もお願いいたします」
「はいはい、ティアナちゃん。こっちもお願いね!」
「はい!」
ティアナはきびきびと動き、実務が終わり、手持ち無沙汰と言うことで受付業務を手伝っていた。
その隣では、ルナが冒険者たちから依頼の相談を受けている。
「このお仕事でしたら、森に薬草がいっぱい生えてる所がございます。でも、奥の方は魔物が出るため、気をつけください!」
「おお、ありがとうな、嬢ちゃん!」
「いえ、お役に立てたなら何よりです」
ぺこりと頭を下げるルナ。辿々しい敬語ながら、仕事は様になって来ていた。
その頭の上では、大きな狼耳がぴこぴこと動いていた。
少し離れたテーブルでは、スカーレットが頬杖をつきながら、リュシエラの話を聞いている。
「それで、精霊というものは、どこまで遠くのものを探れるのじゃ?」
「そうですね。精霊との相性や、探したい対象によっても変わります。何でも見通せるわけではありませんよ」
「ふむ。なかなか面白いものじゃな」
「魔王様も、精霊術に興味がおありなのですか?」
「わしは魔族じゃぞ? 興味はあるが、精霊の方が寄ってこぬからな」
「……興味がおありの割には、先ほどからお酒やお菓子ばかり召し上がっていますが」
「これは思考を円滑にするための栄養じゃ栄養」
堂々と言い切るスカーレットに、リュシエラは小さく笑った。
そんな彼女たちの様子を眺めながら、マリアは満足げに頷く。
平和。
実に平和である。
温泉旅行ではいろいろあったものの、こうして仲間たちと過ごせる日常は悪くない。
むしろ、最高だ。
……ただし。
その平和な光景を、少し離れた場所からじっと見つめる者がいた。
フードを深くかぶった、痩せた男。
男はマリアを見ているわけではなかった。
その視線が向けられているのは、テーブルで菓子をつまむ少女。
スカーレットだった。
男の目が、ほんのわずかに細くなる。
そして次の瞬間。
何事もなかったかのように、人混みへと紛れていった。
その姿を、スカーレットは見逃さなかった。
(……今のは、なんじゃ?)
指先で菓子をつまんだまま、スカーレットの目が細くなる。
敵意。
それも、ただの冒険者が向けるものとは違う。
明確に自分を狙う、殺気を帯びた視線だった。
(わしを狙う者が、この王都におるというのか?)
魔王として数多くの戦場を経験してきたスカーレットには、相手の視線に含まれる感情がわかる。
偶然ではない。
あの男は、確実に自分を見ていた。
「魔王様?」
「……ん? どうしたのじゃ、ルナ」
「お菓子を持ったまま、固まってますけど、食べないんですか?」
「なんじゃー?食べたいのかワンコ?んー?」
スカーレットは何食わぬ顔で菓子をルナの口に運んだ。
マリアたちに余計な心配をかける必要はない。
相手の目的がわからない以上、まずは自分で確かめるべきだ。
そう判断したスカーレットは、男が消えた方向へ視線を向ける。
(さて……何を企んでおるのか、見せてもらおうではないか)
◇
ギルドを後にしたスカーレットは、ひとりで街を歩いていた。
わざと人通りの多い道を選び、時折、店先を覗き込む。
すると、案の定だった。
少し離れた場所に、先ほどの男がいる。
スカーレットが立ち止まると、男もまた足を止めた。
敢えて視線を合わせない様に立ち回る。
男は何事もなかったかのように歩き出した。
「……ふん」
スカーレットは口元に笑みを浮かべた。
スカーレットの足は、王都の外れにあるスラム街へ向かって行った。
崩れかけた建物。
薄暗い路地。
昼間だというのに、日差しが届かない場所も多い。
スカーレットは人目のない路地へ入り、そこでようやく足を止めた。
「……ここなら、よいか?」
スカーレットの声が響く。
「何のことでしょうか」
「とぼけるでない。ギルドからずっと、わしを見ておったじゃろう」
「人違いでは?」
「ほう?」
スカーレットの周囲に、薄紫色の魔力が揺らめいた。
「では、少しばかり身体に聞いてみるとするかの」
男の表情は変わらず無表情のままだ。
次の瞬間、男は懐から短剣を抜き出す。
その刃をスカーレットへ伸ばす。
だが、その刃がスカーレットへ届くことはなかった。
「遅いわ」
スカーレットが指先を軽く振る。
紫色の魔法陣が展開し、男の身体が見えない力によって地面へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
「さて。誰の差し金じゃ?」
男の顔の前に、魔法陣が浮かぶ。
「わしを狙うとは、なかなかいい度胸をしておる。じゃが、相手を間違えたの」
「……!」
「質問に答えよ。貴様、誰の命令で動いておる?」
スカーレットの瞳が、鋭く輝いた。
男は震えていた。
しかし、それは先ほどまでの無感情に殺気を乗せたものとは違った。
本当に怯えているだけの人間の顔だった。
「わ、私は……何をして……?」
「……何?」
「ここは……どこだ? 俺は、どうしてこんなところに……」
男の目から、疑念と困惑が色濃く感じ取れ、演技には見えない。
先ほどまで短剣を握っていた手が、困惑したように震えていた。
まるで、自分が何をしていたのか、本当にわかっていないかのように。
「おい。ふざけるでないぞ」
「ひっ……! あ、アナタは誰ですか!?金ならやるから、頼む命だけは、助けてくれ!」
スカーレットは男を見下ろした。
嘘をついているようには見えない。
少なくとも、先ほどまで自分を狙っていたときの気配は、完全に消えていた。
魔術による精神操作の類か。
いや、それにしては妙だった。
魔力の痕跡も、命令を受けた形跡も見当たらない。
そもそも、先ほどまであれほど明確に向けられていた殺気が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
「……気味の悪い話じゃな」
スカーレットは男を解放した。
これ以上問い詰めても、何も得られそうにない。
男は何度も頭を下げながら、逃げるように路地を去っていった。
その背中を見送り、スカーレットは小さく息を吐く。
(わしを狙ったことすら、覚えておらぬとは……)
単なる暗殺者ではない。
少なくとも、普通の人間が考えるような暗殺とは違う。
そして何より、スカーレットにはひとつの疑問が残っていた。
なぜ、わざわざ自分を狙ったのか。
魔族だからか?
それとも魔王だと知っているのか?
それとも、別の理由があるのか。
「……面倒なことになりそうじゃな」
苦虫を噛み潰した様な表情でスカーレットは空を見上げた。
◇
それから数日に掛けて
スカーレットは、何度も襲撃を受けた。
ある日は、買い物帰りに冒険者風の男が襲いかかってきた。
またある日は、食事をしていた店で給仕が突然刃物を向けてきた。
別の日には、路地の向こうから魔法が飛んできた。
しかし、どれも本格的な攻撃ではなかった。
刃物は簡単に弾き飛ばせる。
魔法は防御するまでもなく無効化できる。
そして、襲撃者を捕まえて問い詰めようとすると、決まって同じことが起こった。
襲撃者は我に返り、自分が何をしていたのかわからなくなる。
まるで、身体だけが勝手に動いていたかのように。
「……ええい、何なのじゃ、これは!」
◇
その日の夕方。
冒険者ギルドの食堂で、スカーレットはテーブルに頬杖をついていた。
向かいに座るマリアは、そんな彼女をじっと見つめている。
「ねえ、スカーレット」
「……何じゃ」
「どうして、今まで黙っていたの?」
スカーレットの指が、ぴたりと止まった。
「……何の話じゃ?」
「決まってるでしょ。ここ数日、何かあったでしょ?」
「さて、なんのことか」
「ここ数日、ずっと苛立ってるから、あなた」
「ぬしには隠し事は出来んな……」
「あなた、以前にわたしに協力してと言ったんだから、困り事ならわたしには話しなさいよ」
マリアの声は、いつもの陽気さを残しながらも、少しだけ真剣だった。
スカーレットは視線を逸らす。
「……おぬしに、余計な心配をかけたくなかったのじゃ」
「はぁ……」
マリアは額に手を当てた。
「アンタねえ……。そういうところ、妙に意地っ張りなんだから」
「わしは魔王じゃぞ。自分の身に降りかかる問題くらい、自分で処理するのが当然であろう」
「魔王だろうが何だろうが、アタシたちは家族でしょ?」
「……!」
スカーレットが顔を上げた。
マリアは、当たり前のことを言うように続ける。
「困ったことがあったら相談する。危ないことがあったら一緒に考える。それだけの話じゃない」
「……まったく、おぬしという奴は」
スカーレットは小さく息を吐いた。
「かなわんなぁ」
肩をすくめ、わざとらしく両手を上げたスカーレットを見て、マリアは満足そうに頷いた。
「それで、何があったのか、最初から詳しく聞かせてちょうだい」
スカーレットは、ここ数日の襲撃について説明した。
ギルドにいた男。スラム街での襲撃。何度も繰り返される、あまりにも中途半端な攻撃。
そして、襲撃者たちが決まって記憶を失ったような状態になること。
話を聞き終えたマリアは、腕を組んだ。
「なるほどねえ……。んーー確かに変ね、ただ殺したいだけなら、もっと確実な方法を考えるはずよね」
「そうじゃ。あやつらの攻撃には、妙な一貫性がある。まるで、わしの反応を調べておるようにも見える」
「それに、襲ってきた本人たちは何も覚えていないのよね?誰かに操っているとかってこのなのかしら?……そういう魔法もあるの?」
「無いくはないじゃが、魔法の残滓とでもいうか、それがほとんど残っておらぬ。わしの知る精神操作とは、まるで違う」
「スカーレットでも知らないのね……」
マリアは、ふむ、と唸った。
「そうだとしたら厄介ねえ。誰が敵なのかも、どこにいるのかもわからないんだもの」
マリアはグラスを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「でも、ひとつだけ確かなことがあるわ」
「何じゃ?」
「アンタを狙っている以上、アタシたちも無関係じゃないってことよね?家族の誰かが狙われても不思議じゃないわよね」
「冗談抜きで、おぬしが襲撃者になったら目も当てられんな」
スカーレットは、やれやれと言いたげに肩をすくめた。
「そうだわ!次に襲ってきたら、撃退する前に捕まえて話を聞きましょう。相手が操られているなら、何かわかるかもしれないし」
「簡単に言うが、相手が我を忘れて襲いかかってくるのなら、加減も難しいのじゃぞ」
「あら。アタシが受け止めればいいだけじゃない?」
「……クハハッ! おぬしなら、本当にやりかねぬな!」
スカーレットは楽しそうに笑った。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「じゃが、おぬしが言ったように相手がわし以外を狙う可能性もある。ルナやティアナ、リュシエラ、その時はどうする?」
「そうね。そこは…その時考えましょう…でもね」
マリアはグラスを置いた。
「誰かを操って、大切な人を傷つける。そんな真似をする奴がいるなら……」
笑顔のまま、目だけがすっと細くなる。
「アタシ、許せないわ」
「……うむ」
スカーレットも静かに頷いた。
「わしもじゃ」
二人は、しばらく無言で酒を傾けた。
そのときだった。
――ピシッ。
窓ガラスに、黒い影が映った。
「……ん?」
マリアが顔を上げた瞬間、窓が砕け散った。
飛び込んできたのは、短剣を構えた男。
その刃が、素早くスカーレットの首筋を狙う。
「まったく! ここは二階じゃぞ!」
スカーレットが魔力を放とうとする。
だが、その前にマリアが動いた。
「はい、そこまで!」
マリアは男の腕を掴み、そのまま身体を持ち上げる。
「人様のお酒の時間を邪魔するなんて、いい度胸じゃないの!」
ドンッ!
男の身体が床に叩きつけられた。
床板が大きく軋み、男は呻き声を上げたまま動かなくなる。
「……」
「……」
個室に沈黙が落ちた。
マリアは男を見下ろし、首を傾げた。
「んー……気絶しちゃったわね」
「……マリア」
「なあに?」
「撃退する前に話を聞くのではなかったのか?」
「………テヘペロ」
珍しくマリアが目を逸らしたのだった。
「じゃが…でかした。こやつ、今までの連中とは明らかに違う。動きも訓練を積んだ者のものじゃ」
スカーレットは男のマントを剥ぎ取った。
露わになった頭部には、魔族特有の角が生えている。
「……魔族ね」
「そうかそうか…なるほどな!合点が行った!なるほど、わしの居場所が完全に漏れているということか!」
スカーレットは嬉しそうな笑いを浮かべていたが、声が低くなる。
「これまでの襲撃も、ただの偶然ではあるまい。わしが王都におることを知り、探りを入れていたのじゃろう」
「なら、この人から話を聞きたいところだけど……」
マリアはスカーレットの顔を見た。
その目には、隠しきれない怒りが浮かんでいる。
「……スカーレット。今、かなり怖い顔をしてるわよ?」
「まさか、こんなにもわしは機嫌が良いのじゃぞ?」
「気持ちはわかるけど、まずはギルドに預けましょう。こういう事は得意な人に任せたほうがいいわ」
「何故じゃ?わし直々に『お話』をしてやるぞ」
「いまのあなた、この人を殺しそうなのよ…。わたしは家族にはそういうことをしてほしくない」
「……まったく、おぬしは甘いのぉ」
マリアの真剣な視線に小さくため息を吐きスカーレットは渋々ながら頷いた。
「捕まえたのはおぬしじゃ好きにせい」
「ありがとう」
「……ふん。まったく、おぬしは、本当に甘いやつじゃ」
その夜、男は冒険者ギルドを通じて王国側の拘束施設へ引き渡された。
しかし翌朝、男は留置中に死亡しているのが発見された。
結局、男から有益な情報を得ることはできなかった。
◇
同時刻。
夜だというのに、王都の大通りはいつもと変わらぬ賑わいを見せていた。
露店の呼び声。行き交う人々の足音。焼きたての串焼きの香り。
その中を、ティアナ・ガーランドベルは今日の仕事が一段落し、家に向けて歩を進めているところだった。
そのとき。
「……たすけて……」
影の落ちた路地の入り口から、小さな呻き声が聞こえた。
ティアナは足を止める。
「誰かいるのですか?」
返事はない。
周囲を確認してから路地へ入ると、ひとりの女性が倒れていた。
長い髪が顔にかかり、表情までは見えない。踊り子のような服は薄汚れ、呼吸も苦しそうだった。
「大丈夫ですか!?」
ティアナは荷物を置き、すぐに膝をついて女性の肩に手を添えた。
「しっかりしてください。今、誰かを呼んできますから!」
「……ま、待って……」
女性が弱々しくティアナの手を掴んだ。
「お願い……助けて……」
「もちろんです。安心してください」
ティアナは女性の身体を支えようとした。
その瞬間、女性の指先がティアナの頬に触れた。
そして、二人の目が合う。
「綺麗な青い瞳ね」
「――え?」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
何か冷たいものが、身体の奥へ入り込んでくる。
ピタリと身体が動かなくなった。
魔法を受けたときとは違う。
皮膚でも、血でも、筋肉でもない。
もっと深いところ。
自分の意識そのものに、何かが触れている。
「な……に……?」
ティアナは立ち上がろうとした。
だが、身体が動かない。
目の前の女性が、ゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでの弱々しい表情は、もうどこにもなかった。
そこにあったのは、妖艶な笑み。そして、獲物を見つけた捕食者の目だった。
「優しいのね、あなた」
「……っ!」
「こんな場所で、見ず知らずの相手を助けようとするなんて」
女性の指が、ティアナの頬をなぞる。
「調べた通り、とんだお人好しさん。……ふふ、わたし、そういう子は嫌いじゃないわ」
「あなたは……いったい……」
ティアナが声を絞り出す。
女性は答えず、ティアナの顔を覗き込んだ。
「怖がらなくてもいいわ。少しだけ、あなたの身体を借りるだけだから」
「……やめ……!」
その言葉を最後まで口にすることはできなかった。
女性はティアナの顔を両手で包み込み、その唇を重ねた。
「――んっ!」
求めるように、貪るように。
ティアナが拒もうにも身体が動かない。
初めての口づけ。
大好きな相手と夢憧れていたものでは無い、望んだものとは正反対のもの。
――助けて
身体を押し返したい。
声を上げて、誰かに助けを求めたい。
けれど、指先ひとつ動かせない。
初めての口づけは、愛する人に捧げたかった。
そのとき初めて、許された相手と交わしたかった。
それなのに。
見知らぬ女性に唇を奪われ、身体の自由まで奪われている。
心からの嫌悪と、どうしようもない羞恥。
ティアナの目から、涙がこぼれ落ちた。
「……ふふ。いい顔をするじゃない」
女性が唇を離す。
その口元から、黒紫色の魔力が流れ出した。
魔力はティアナの唇を通じて身体の中へ入り込み、意識の奥深くへと広がっていく。
「さあ、少し眠っていなさい」
女性の輪郭が揺らぎ、黒紫色の魔力がティアナを包み込んだ。
「ふふ……いい子ね」
その言葉を最後に、ティアナの意識は闇へ沈んだ。
◇
あの酒場での襲撃から一夜が明けた。
冒険者ギルドの仕事を終えたマリアたちは、いつものように連れ立って帰路についていた。
「マリア様、夕食は何になさいますか?」
「そうねえ。今日はお肉が食べたい気分ね!」
「ルナちゃんは何が食べたい?」
「わたしもお肉が食べたいです! でも、ママの作ったものでしたら何でも嬉しいです」
「もう! そんなこと言われたら、張り切っちゃうじゃない!」
マリアは嬉しそうにルナの頭を撫でた。
その隣では、リュシエラが買い物袋を持ちながら、楽しそうに話を聞いている。
「皆さんは、本当に仲がよろしいのですね」
「そうかしら? まあ、毎日一緒に暮らしているものねえ」
「ふふ。私も、皆さんと過ごす時間がとても楽しいです」
いつもの光景。
いつもの会話。
誰もが、いつもどおりの時間を過ごしていた。
「……あの、マリア様」
ティアナがマリアの隣へ歩み寄った。
「ん? どうしたの、ティアナちゃん?」
「少し、お話ししたいことがあるのですが……今夜、お時間をいただけませんか?」
「いいわよ。何か相談事?」
「……はい。できれば、二人きりで」
ティアナは頬をわずかに赤くした。
マリアは一瞬きょとんとしたものの、すぐに笑顔で頷いた。
「わかったわ。夕食のあとでいいかしら?」
「ありがとうございます、マリア様」
ティアナは深々と頭を下げた。
その表情を見て、マリアは微笑ましく思った。
真面目なティアナのことだ。
何か悩みでもあるのだろう。
自分にできることなら、いくらでも相談に乗ってあげたい。
そのまま、何事もなく帰宅した。
◇
夜。
夕食を終えたマリアは、自室で髪を整えていた。
「さて、と。ティアナちゃん、どうしたのかしらねえ」
鏡を覗き込み、髪の乱れを直す。
そこへ、控えめなノックの音が響いた。
「マリア様。入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞー!」
扉が開き、ティアナが入ってきた。
いつもの軽鎧姿でも、動きやすさを重視した寝巻き姿でもない。
胸元の開いた黒いレース地のネグリジェを身にまとい、金色の髪を下ろしている。薄い生地の向こうに肌が透ける、普段の彼女からは想像できない装いだった。
「……あら」
マリアは目を瞬かせた。
「ティアナちゃん、今日はずいぶん可愛らしい格好じゃない?」
「そ、そうでしょうか……?」
ティアナは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「マリア様に、お話ししたいことがありまして……」
「うん。座りなさいな」
マリアがソファを勧める。
しかし、ティアナは座らず、ゆっくりとマリアの前まで歩いてきた。
「……マリア様」
「なあに?」
「私は……ずっと、あなたのことを見てきました」
その声は、いつもよりも甘かった。
「誰に対しても優しくて、困っている人を放っておけなくて……どんな相手にも、臆することなく向き合う」
「……ティアナちゃん?」
「最初は、ただ憧れているだけだと思っていました」
ティアナの指先が、マリアの頬に触れた。
ひんやりとした指先だった。
「あなたの強さに惹かれて、あなたの優しさに救われて……気がつけば、あなたの姿を目で追うようになっていたんです」
マリアは驚いたように目を見開く。
「……大好きです」
その言葉は、ティアナが心の奥底にしまい込んできた想いそのものだった。
「マリア様は、私のことをどう思っていますか?」
「えっ? そりゃあ、大切な家族だと思ってるわよ」
「……それだけ、ですか?」
ティアナが隣に座り、距離を詰める。
「私は、それだけでは嫌なんです」
「ティアナちゃん……」
「あなたの隣にいたい。あなたに触れたい。あなたに、私だけを見てほしい……」
ティアナの手が、マリアの肩に伸びた。
「朝、目が覚めたときに、あなたがいてくれたらいいのにと思います。食事のときも、出かけるときも、何をしていても……あなたの隣にいるのが私だったらいいのにって」
「……そうだったの」
「マリア様に名前を呼んでもらえるだけで嬉しいんです。頭を撫でてもらえたら、一日中幸せでいられる。褒めてもらえたら、もっと頑張ろうと思える」
ティアナの声が、少しずつ熱を帯びていく。
「でも、私はいつも遠慮してしまう。あなたに迷惑をかけたくなくて、騎士として恥ずかしくないようにと思って……本当は、もっと甘えたいのに」
その言葉に、マリアは何も返せなかった。
ティアナの胸の内に、そんな想いがあったとは思っていなかったからだ。
「ルナは、素直にあなたに甘えられますよね」
ティアナの視線が、わずかに揺れた。
「ママ、と呼んで、手をつないで、抱きしめてもらって……羨ましいと思うことがあります」
「ティアナちゃん……?」
「リュシエラさんもそうです。あなたと自然に話して、楽しそうに笑って……あなたに近づくことを、少しもためらわない」
ティアナの指が、マリアの肩をなぞる。
「私は、そんなふうにできません。あなたの前では、いつも立派でいようとしてしまう」
「……そんなこと、気にしなくていいのに」
「わかっています。でも、できないんです」
ティアナは小さく笑った。
「だから、今夜だけは……騎士ではなく、ひとりの女として、あなたに向き合いたい」
その言葉は、ティアナの本心に違いなかった。
だからこそ、マリアはすぐに突き放すことができなかった。
彼女がどれほど真剣に自分を想ってくれているのか、知っていたからだ。
「……ティアナちゃん」
マリアは困ったように笑った。
「その気持ちは嬉しいわ。でも、少し落ち着いて――」
「嫌です」
ティアナの声が、静かに重なった。
「今夜は、逃げないでください」
「……え?」
「私のことを、ちゃんと見てください。私だけを見てほしいんです」
ティアナの右手が、マリアの頬へそっと当てられる。
もう片方の手が、するりとマリアの背中へ回った。
その動きに、マリアは小さな違和感を覚えた。
いつものティアナなら、こんなふうに強引に距離を詰めたりはしない。
想いを告げるだけでも、きっと何度もためらい、言葉を探すはずだ。
それなのに今は、まるで相手の反応を確かめる必要などないかのように、迷いなく近づいてくる。
「……ティアナ、ちゃん?」
マリアは、彼女の肩にそっと手を添えた。
「ちょっと、近すぎないかしら?」
「マリア様……わたしじゃ、駄目、ですか……?」
ティアナが顔を近づける。
潤んだ瞳。見慣れた彼女の顔。
間違いなく、そこにいるのはティアナだった。
だが、その瞳の奥で、どこか暗い光が揺らめいた。
マリアの脳裏に、昨夜の酒場でスカーレットが語った言葉が蘇る。
――襲撃者たちは、我に返ると自分が何をしていたのか覚えておらぬ。
――まるで、身体だけが勝手に動いていたかのように。
――精神操作の魔法とは何か違う。
「……まさか」
マリアが息を呑んだ、その瞬間だった。
ティアナが瞳を閉じ、マリアの顔へと迫る。
「――っ!」
唇が重なった。
突然の口づけに、マリアの目が大きく見開かれる。
「んっ……!」
マリアはすぐに顔を離そうとした。
だが、ティアナは離さなかった。
頬に触れていた腕が首に回り、背中に回された腕とともにマリアを強く引き寄せる。
マリアは下手に力を出せば、ティアナを傷つけてしまうと考え、慎重に身をよじった。
しかし、ティアナの唇は追いすがり、強引に口づけを深めていく。
唇の間から、柔らかな舌が入り込んでくる。
「……っ、ティアナちゃん……!」
マリアは彼女の肩を掴んだ。
その身体が、小さく震えている。
抵抗しているようにも見えた。
それなのに、マリアを抱き締める腕は、さらに強く回されていく。
まるで、彼女自身の意思と身体の動きが食い違っているかのようだった。
(やっぱり……!)
そのとき、ティアナの唇から黒紫色の魔力が、マリアへと流れ込んだ。
(さあ……その精神をいただくわ)
マリアの唇に触れていたティアナの身体から、何かが抜け出した。
黒紫色の影が、マリアの意識へと流れ込んでくる。
◇
踊り子の様な服装、魔将ヴェルヴェインは、果てしなく広がる空間に立っていた。
何もない。
壁も、天井も、床の境界さえも見当たらない。
ただ、どこまでも続く白い空間。
その中央に、木製の扉がポツンとあった。
多くの人の心に入り込んできてこんなことは初めてだった。
恐る恐る扉を開くと酒場というにはこじんまりとしたカウンターと酒棚、その間に腕を組んで立つマリアの姿があった。
「……え?」
ヴェルヴェインは、呆然と立ち尽くした。
他者の精神へ入り込み、意識の隙間から身体を奪う。
それが、彼女の得意とする能力だった。
相手が抵抗しようとも、精神の奥深くまで侵入してしまえば、いずれは支配できる。
そのはずだった。
「……ちょっと、アンタ」
マリアが、ゆっくりと顔を上げた。
「人の身体に、勝手に入ってくるんじゃないわよ」
「な……何なの、ここは……?」
「何なのって、見ての通りウチのバーよ」
「そんなことを聞いているんじゃないわ!」
「じゃあ、何を聞きたいのよ。お名前? 年齢? 好きな食べ物?」
「ふざけないで!」
魔将の声が響く。
しかし、マリアはまるで気にした様子もなく、首を傾げた。
「ふざけてないわよ。人の心に土足で入ってきたんだから、まずは挨拶くらいしなさいって話でしょ?」
「……っ!」
ヴェルヴェインの全身に、言いようのない恐怖が走った。
マリアの背後に、巨大な影が立ち上がったように見えた。
いや、違う。
それは影ではない。
自分が相手にしている存在の、あまりにも圧倒的な何かだった。
「な……何なの、あなた……!」
「だから、ただのバーのママだってば」
「そういうことじゃない!」
「もう、注文が多いわねえ」
マリアは腰に手を当てた。
「そもそも、アンタねえ。お店に来たなら飲み物の一杯でも注文しなさい!」
「何を言って……」
魔将は困惑した。
何を言っているのか理解できない。
いや、理解できないというより、話が噛み合わない。
こちらは相手の精神を支配するために侵入したはずなのに、なぜ説教を受けているのか。
「……もういいわ」
魔将は黒紫色の魔力を放った。
「あなたの精神を支配して、身体を奪う。それだけよ!」
「ちょっと、待ちなさい」
マリアが片手を上げた。
「その前に、ひとつ聞きたいんだけど」
「何よ!」
「アンタ、ティアナちゃんの身体を使って、わたしに何をするつもりだったの?」
「決まっているでしょう。魔王を倒す為、あなたを支配して、私の駒にするのよ!」
「あら、そう。じゃあ、わたしがアンタをここで更生させるわ!」
「は……?」
ヴェルヴェインの表情が固まった。
マリアはにっこりと笑う。
「そうねえ。まずは、スカーレットにも謝罪。もちろん、被害に遭った人たち全員にもね」
「な、何を言っているの……?」
「それが終わったら、今度はお料理の練習よ。人の心を操る暇があるなら、誰かのために美味しいご飯でも作りなさい」
「いや、本当に意味が分からない」
「あと、部屋の掃除もね。あら、そういえば洗濯物も溜まっているんじゃない? まったく、生活習慣から立て直さないと駄目ねえ」
「黙りなさい!」
魔将の魔力が激しく揺らぐ。
マリアは一歩、前へ進んだ。
「それから、ティアナちゃんの身体を勝手に使ったこと。あの子の大切な気持ちを利用したこと。全部、きっちり謝ってもらうわよ」
「来ないで……!」
「どうして? アンタから入ってきたんでしょ?」
「違う……! あなたは、何なの……!」
マリアの背後に、再び巨大な圧力が立ち上がる。
ヴェルヴェインの本能が警鐘を鳴らしていた。
ここにいてはいけない。
これ以上、深入りしてはいけない。
このままでは、自分の精神そのものが壊される。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
マリアがさらに一歩踏み出す。
「まだ話は終わってないわよ!」
「いやああああっ!」
ヴェルヴェインは悲鳴を上げた。
自分が相手を支配するはずだった。
それなのに、いつの間にか自分が追い詰められている。
これ以上は無理だ。
とにかく、ここから逃げなければ。
魔将は自らの意思で、強制的に憑依を解除した。
その瞬間、黒紫色の魔力が弾け飛ぶ。
◇
「……っ、はぁ……!」
暗殺者を取りまとめる魔将ヴェルヴェインは、弾き飛ばされた意識が自身の身体に戻り、よろめいた。
今までに経験したことのない恐怖だった。
精神の深部にまで侵入したはずなのに、逆に自分の存在そのものを圧し潰されるような感覚。
それだけではない。
相手は自分を支配するどころか、掃除や洗濯、謝罪まで命じてきた。
「……冗談じゃないわ」
ヴェルヴェインは震える手を握りしめた。
あんなものを相手にしていたら、自分のほうが壊れてしまう。
とにかく、今は逃げ、時機をうかがうしかない。
◇
「……ティアナちゃん、しっかりして。ティアナちゃん!」
目の前から、マリアの声が聞こえた。
「……あ、れ……?」
ティアナは、ぼんやりとマリアを見つめた。
「私……いったい……?」
まるで夢を見ていたような、妙な感覚だった。
なぜ自分がマリアの部屋にいるのだろう。
目の前には、自分を心配そうに見下ろすマリアの顔。
そして、自分の身体を見下ろすと、普段なら恥ずかしくて着ることのできないネグリジェに身を包んでいた。
「……っ」
記憶が、断片的に蘇る。
――大好きです。
自分の想いを伝えたこと。
マリアの頬に触れたこと。
そして――唇を重ねたこと。
「……え?」
ティアナの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「ま、マリア様……わ、わたしは……!」
「ティアナちゃん、落ち着いて。大丈夫?」
「で、でも、私……あぁ……! わたしは……!」
ティアナは口元を押さえた。
自分の意思ではない何かが、身体を動かしていた。
それでも、マリアに口づけた感触だけは、妙に鮮明に残っている。
唇の感触。
逃げようとしても離れられなかったこと。
自分の身体が、まるで自分のものではないように動いていたこと。
「……っ、申し訳ありません……!」
ティアナの目に涙が浮かんだ。
「私……私、マリア様に……あんなことを……!」
「ティアナちゃん」
「ごめんなさい……! ごめんなさい、マリア様……!」
ティアナは顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
涙が、次々と頬を伝っていく。
「私、そんなつもりじゃ……! 私は……私は……!」
「……うん」
マリアは、そっとティアナの肩を抱いた。
「わかってるわ。ティアナちゃんの大事な想い、ちゃんと分かってるから……」
「でも、でも、わたしは……自分が何をしたのか、全部は覚えていなくて……!」
「大丈夫。無理に思い出さなくていいのよ」
「違うんです……! 私、マリア様に好きだと伝えたかったんです。いつか、自分の言葉で、ちゃんと……!」
ティアナはマリアの服を握りしめた。
「なのに……あんな形で……。あんなことをしてしまって……!」
「ティアナちゃん」
「初めてだったんです……。マリア様に、いつか……いつか、ちゃんと気持ちを伝えられたらって……ずっと思っていたのに……」
言葉が途切れた。
ティアナは、声を押し殺すように泣いた。
「それなのに、私……自分の意思ではないとわかっていても、マリア様にあんなことをした自分が……許せないんです……!」
「……そんなふうに思わなくていいのよ」
マリアはティアナの背中に腕を回した。
「ティアナちゃんが悪いんじゃない。アンタの身体を勝手に使った誰かが悪いの」
「でも……!」
「でも、じゃないわ」
マリアは、少しだけ強い声で告げた。
「ティアナちゃんは、ずっと頑張ってきたじゃない。騎士としても、家族としても。誰かを守ろうとして、いつも自分のことを後回しにして……そんな素敵な子が、自分を責める必要なんてないのよ」
「……っ!」
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて」
マリアは、ティアナの頭を優しく撫でた。
「だから、自分を責めなくていいのよ」
その言葉を聞いた瞬間、ティアナは堰を切ったように泣き出した。
マリアの服を握りしめ、声を上げて泣く。
「マリア様ぁ……っ!」
「大丈夫。大丈夫だからね」
マリアは、ティアナの背中を優しく撫で続けた。
しかし、マリアの中には、いまティアナには隠している、腸が煮えくり返るほどの怒りが湧き上がっていた。
大切な家族の身体を勝手に使い、心まで踏みにじった何者かへの怒り。
ティアナがどれほど傷ついたのか。
どれほど悔しく、悲しかったのか。
その涙を見ているだけで、胸の奥が焼けるようだった。
けれど、今はそれ以上に、ティアナを安心させてやりたかった。
やがて、ティアナが少し落ち着いた頃。
毛布を頭から被り、てるてる坊主のようになっているティアナに、マリアは静かに問いかけた。
「……ティアナちゃん。覚えている範囲でいいから、何があったのか教えてくれる?」
ティアナは涙を拭いながら、小さく頷いた。
倒れていた女性。
助けようとしたこと。
その女性に頬を触れられたこと。
そして、そこから意識がなくなったこと。
「……その女性の顔、覚えている?」
「はい……。はっきりと覚えています」
「そう。じゃあ、明日みんなにも相談しましょう。こんなことをした相手、放っては置けないもの」
マリアはティアナの手を握った。
しかし、ティアナは決してマリアと目を合わせようとはしなかった。
「今は、ゆっくり休みなさい。このままここで寝ていいから。ここはみんなの部屋からも離れているし、誰かに見られる心配もないわ」
「……ありがとうございます、マリア様」
「いいのよ。いまはゆっくり休みなさい」
マリアはティアナの小さな身体を抱きしめた。
やがてティアナの涙が が落ち着いたのを確かめると、そっと毛布を掛け直し、部屋を後にした。
◇
マリアがいなくなった部屋、ティアナは再び涙をこぼした。
自分の想いを伝えたかった。
マリアに触れてみたかった。
けれど、それはあんな形で叶えたかったわけではない。
大切な人を傷つけてしまったかもしれないという後悔が、胸の中で何度も繰り返される。
(……ごめんなさい、マリア様……)
その声は、誰にも聞こえなかった。
そして、廊下へ出たマリアは、静かに拳を握りしめていた。
(……絶対に、許さないわよ)
その声もまた、誰にも聞こえなかった。
ティアナは大好きです。全面的に酷い目に遭ってますけど、大好きです




