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3章29話 ヘレナ・エヴァルミラ・ルルイエの手記9

 事件が起こった集落へ到着すると、私はまず民家と集落の方向に向かい、ネクロノミコンと魔脳の叡智を利用した防護障壁を張った。

 これ以上、住民を巻き込むわけにはいかない。

 しかし、私の魔術は攻撃、防御――いずれにせよ、対象物を実際に認識して発動しなければ、魔術効果を行使できない。

 もし世界の全体を俯瞰するような瞳を手に入れれば、遠隔で全国民を守ることができるようなものを生成できるだろうが、そんなことは人間には不可能だ。

 だから現状は実際に足を運び、魔術の行使を行うほかは民を守る方法がない。

 しかし、化け物が現れたという泉に近づいていくと、空気が突然変わった。

 ぐにゃりと視界が一瞬だけ歪んだ気がする。

 空気が……体が重い……震えるようにひどく寒い……。

 気温まで変わった?

 いや、そんなはずはない。

 少し空は曇ったものの、さっきと目に見えている景色は何も変わってはいないはず……。

 しかし、私の心の奥に突然、どうしようもない穴がぽつりと穿たれて開いた気がした。

 全身の感覚が冷えて鈍くなるような、不思議な感じ……。

 あまりの心もとなさに自分の腕をさすった。

 重苦しく、寂しく……そして、脳内を乗っ取るかのような勢いで「恐ろしい」という感情が襲ってきた。

 ――嫌……怖い……。

 ――これ以上、この先に進みたくなんかない!!

 ひたすら、自分のその感情に呑まれてしまいそうになり、首を急いで横に振る。

 化け物がいると聞いたから? それにしても、脳を直接押さえつけられるような恐怖の感覚は突然でかつ、未知のものだった。

 ふと、道案内を頼んだ従僕も体を震わせながら、口元を手で押さえた。

「どうしたの? 具合が悪い?」

 そう尋ねると、従僕はさっきの私と同じように怯えた様子でもう片方の手でさすりながら言った。

「も、申し訳ありません……王妃様! 寒気と……吐き気が止まらなくて……でも、すぐ収まります……!」

 従僕の顔は真っ青などというものではなかった。ガタガタと指が震えているようだった。

 私自身も、わずかに自分の背が震えるのを感じた。

 理由のしれない恐怖。だが、そんなことで引き返してはいけない。

 私はルルイエの王妃だ。国民を守り、魔脳と亡神の宗教対立に揺れるこの国を中庸の統治者として導く必要がある。

 恐怖を抑え、ぎりっと拳を握り、できるだけ普段の自分らしく、凛とした様子で従僕に声をかける。

「ひどい顔色だわ。無理をしないで、戻っていなさい」

「しかし! 王妃様を一人で行かせるわけには行きません!」

 軽く鼻を鳴らし、私はあえて気丈に笑って言い放つ。

「あら? この魔女を見くびられたら困るわね。あなた、最近お子様が生まれたんでしょう? 赤ちゃんと奥様のためにも集落に戻っていなさい。これは命令よ。あなたに何かあっては、王妃の面子が立たないから」

 従僕は真っ青になりながら首を振る。

「でも……! お、王妃様は、恐ろしくないのですか?」

 恐ろしいに決まっている。だが、それをこの者に見せるわけには行かない。

 従僕は私の腕をつかみ、訴えかける。

「王妃様! お願いですから……絶対に一人でなど行ってはなりません! 恥ずかしながら……わ、私はこの先に行くのが、ひどく恐ろしいのです。そうとしか、形容できません……。あの化け物は執拗に人を嬲り殺したと聞いております! け、決して、この先には……人が足を踏み入れてはならない! 共に引き返しましょう!! ぐ、軍に助けを要請して……!」

 私は彼の提案を一蹴した。

「あなた、知っているでしょう? この国の軍は、七国大戦で多くの戦士たちが命を散らしたあとは、ほぼ機能しない、形だけの軍隊に成り代わってしまったと。今の軍は英雄アーサーの能力に甘えた、無能な貴族の天下り先でしかない。魔術の使える私しか、化け物は倒せないわ」

「しかし……!」

 彼は本気で私を心配しているようだった。

 中庸派の思想を持つ者は少ない。だが、戦争で両親を失い、平民から叩き上げで城の近衛兵にまで成り上がった彼は私の思想に理解を示し、役に立ちたいと言ってくれた。

 数少ない味方をこの状況で置いていくのは心細い。

 でも、今はやむを得ないだろう。

 私はばっと彼の手を振り払った。

「王妃の私に勝手に触れるなど、無礼な真似はやめてもらえる?」

「え……」

 そして、出来得る限りの冷酷な声を作って言った。

「早く集落に戻りなさい。戻らなければ、あなたの職を今ここで解くわ」

「え……? そんな……!」

「私は本気よ。十秒以内に、ここを離れなさい! 十、九、八……」

「お、王妃様……」

「行きなさい!!」

「も、申し訳ありません……王妃様!!」

 従僕は震えながらも、去って行った。

 私は肩で息をする。

 これでいい……。

 彼がいたところで、戦力にはどうせならないのだから。

 戦うのは、私一人で十分。

 そう言い聞かせ、恐怖で心を震わせながら、先へ進んだ。

 恐怖に支配された心は細かい感覚を失うのか、どうやって歩いてきたのかも、よく覚えていない。

 でも、気づくと私はアクセスポイントのある泉に辿り着いていた。

 青白く光る、水晶でできたペンデュラム型のアクセスポイントを格納した祠が泉のほとりにある。

 血の生臭い匂いが鼻をつき、顔をしかめる。

 祠の周りには、血まみれになった人の死体がいくつも転がっていた。

「ひ、ひどい……!」

 これまで数件起こった爆破事件でも、こんな凄惨な現場はなかった。

 私は足が震えるのを感じながら、祠へと近づく。

 すると、中央に格納されたアクセスポイントの本体には、見たこともない化け物が絡みついていた。

 全身がいくつものぱっくりと開いた口に覆われた、触手の怪物。

 無数の口からは、うねうねとした蛇のようなものがあふれ出ている。

 いや……あれは蛇じゃない。触手だ!!

 それは魔脳データベースで閲覧したヨグ・ソトースの姿にも似ていたが、もっと恐ろしく、禍々しさを感じる。

 数体転がった死体の傷口からはその触手がうねうねといくつも這い出ていた。

「い、い……」

 叫び出したいほどに恐ろしかった。

 だが、私は叫びを呑みこんでしまった。

 王妃としての誇りでもなんでもない。

 恐怖のあまり、喉が絞られたようになって声が出なかったからだ。

 よく見ると、口だらけの化け物の頭部には、一つだけ瞳があった。

 その瞳がぎろりとこちらを見た。

 ああ……気づかれてしまった!!

 急ぎ、魔導書の呪文をありったけ頭を動かして思い出そうとし、詠唱を行う。

「                      」

「                      」

「                      」

 だが、何も起こらない……。私の手からは炎も雷も風も生まれない。

 どうして?

 触手の化け物は私を視認したのか、こちらへずりずりと唇から出た触手をはいずらせながら寄ってくる。

「                      」

 ふと、気づいた。

 私はただ口をパクパクと動かしているだけ……。

 恐怖で声が一切出ていないのだ。混乱して、そのことにさえ気づけなかった。

 詠唱ができなくては、魔法は発動できない。

 ――どうしよう。

 ――だれか、だれか……!!

 長い黒髪に赤い三つ編みを垂らした、煙管をくゆらせる男……頭の中に炎龍の顔が一瞬頭に浮かびそうになるが、すぐに目をぎゅっと閉じて、その像を無理やり追い払った。

 今は決して、彼に助けを求めてはいけない!

 竜玉公国の維持が、彼の命そのものだ。

 私が「助けて」と願えば、彼はどこからか現れて、あっという間に私を助けに来てくれるだろう。一体なぜそんなことが可能なのかはわからないが……。

 相手はこんな危険な化け物。いくら煙の龍を操る炎龍が強いとはいえ、敵うかどうかはわからない。

 そして……龍神皇帝が国を富ませられなくなった炎龍を見限れば、終わりだ。

 彼と龍神皇帝を繋ぐ『嘆きの残滓』(ラメント)の契約の糸は切れてしまう。

 幾度も助けてくれた炎龍も彼に何も返すことができないのなら、私が今できることは「彼を頼らない」こと以外にない。

 私は目の前の化け物を見据えた。

 炎龍を頼らないと決めた瞬間に、不思議と声帯がゆるむのを感じた。

 そうか……。

 炎龍に期待していたから、甘えで声が出なかったのか。

 期待と甘えさえ抱かなければ、私の魔術は決して衰えず、唯一の武器として、友として私の味方でいてくれる!

 孤独な私にとって、唯一の……。

「謌代?霑?峭縺ョ蛻??縺斐→縺丈ク九j縺苓???ょ、ア繧上l縺溽・槭ず繝・繝斐ユ繝ォ縺ォ莉」繧上j縲∫ヲ阪▽逾槭↓螟ゥ蝠薙r荳九??シ?シ?シ(我は迅雷の刃のごとく下りし者。失われた神ジュピテルに代わり、禍つ神に天啓を下す!!!!)」

 詠唱と共に空が曇っていった。

 ビリビリ………!!

 ドゴォォォォォン!!!!

 轟音と雷光がほとばしりながら、周囲を包み、触手の化け物を襲った。

 どんな化け物であれ、失われた神、ジュピテルの雷を再現した魔術に撃たれれば、焼け焦げてしまうはず……!!

 だが、その想像はいとも簡単に裏切られる。

 魔術の効果終了を示すように、曇り空が晴れ、雷光が弱弱しく途切れていく。

 そして、そこには――。

「な、なんで……?」

 触手を口から吐き出す化け物は一切のダメージを受けずに居座り、こちらをにらんでいた。

 私はなかば発狂しながら、あらゆる詠唱を唱える。

「轤弱h縲∝?縺ヲ繧貞桁縺ソ辟シ縺榊ース縺上E!!(炎よ、全てを包み焼き尽くせ!)」

「鬚ィ縺ョ諱ッ蜷ケ繧医?√°縺ョ閠?r迢ゅ∴繧区垓蠏舌〒蛻?j蛻サ繧?シ!!(風の息吹よ、かの者を狂える暴嵐で切り刻め!)」

 だが、発動した全ての魔術がこの化け物にとっては無効だった。

 ついに私の目の前に化け物は肉薄し、刃のような触手が襲い掛かる。

「い、いやああああ!!」

 そんな……? ここで、終わり……。

 恐れてはいけないのに、怖い。怖くてたまらない。

 でも、助けてなんて言えない……。

 散々に痛めつけられて転がった死体を見ながら、絶命の瞬間を想像する。

 早めに喉か心臓を貫かれ、一瞬で死ぬことができれば幸運と思うしかないだろう。

 覚悟して、思わず目を閉じる。

 ザシュッ……!!

 鈍い音が響く。

 だが、その音は……私の肉を切り裂くものではなかった。

 目を開けると、黒茶の髪に白の軍服に紺の外套を纏い、そして白い手袋に覆われた手で剣を握った若き英雄……アーサー・ルルイエの後ろ姿が私の目の前にあった。

 剣聖とうたわれる彼の愛剣は銀に輝きながらも、生々しい血をまとわりつかせている。

 そして……あの化け物は彼の刃に切り裂かれ、地面に倒れて完全に絶命していた。

「アーサー……様……」

 アーサーはゆっくりと振り返り、赤い蛇を思わせる瞳を妖しく光らせて微笑んだ。

「ヘレナ、君は本当にいけない子だね。勝手に抜け出して、こんな不埒な遊びをしてるだなんて」

 そして剣を携えたまま……衝撃に立ち尽くして身動きを失った私の顎をしなやかな指でゆっくりと掴み、私に顔を近づけて囁いた。

「さあ、お仕置きは何がいい?」

ご閲覧いただきまして、まことにありがとうございます。

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