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3章27話 ヘレナ・エヴァルミラ・ルルイエの手記7

 苦しい、苦しい……。

 真っ暗な闇が、足元から這い寄って私を飲み込もうとしている。

 いや、来ないで……。

 なのに、体がこわばって動けない。

『本当に、そう思う?』

 苦しい、やめて……。

『寂しくって、しょうがないくせに?』

 耐えられるわ。

 愛する英雄の役に立ち、国内の争いを平定する。

 愛なんていらない。

 ただ、心を決めて、争いなき、中庸思想への憧れを具現化するためにひたすら尽くせばいい。

 身を粉にして、苦しんで、寂しくても、いい。

 自分の存在など、どうなってもいい。報われなくてもいい。

  一生、憧れる貴方に振り返ってもらえなくていいから……

『君が言えないなら、代わりに叶えてあげるよ。本当の望みを』

 いいえ……。

 一人ぼっちでもいい。

 努力して、心を押し殺して、懸命に努力すれば。

 そうすれば、いつかきっと……。

『嘘つき。ねえ、君って本当は……』

 気づくと、にじり寄る闇は人の手のような形になって、私の足を掴んでいた。

 だが、その闇の手の感触は決して冷たくはなかった。


「ヘレナ!!!」

 目を開けると、私の英雄であり、白い婚姻をした形式上の夫……アーサー・ルルイエが私を覗き込んでいた。私の肩には汗の滲んだ大きな手がかけられている。

 なぜか一瞬、ぞくりとする。食い入るように私を見つめる彼の赤い瞳の奥が、まるで蛇のようだったからだ。

 昔、アーサー・ルルイエの写真を憧れながら魔脳端末で見ていた頃はこんな風だと思ったことはなかったのに。

 同じ顔のはずなのに、なぜ……?

  ひどく、違和感がある。

  アーサーのテノールの声が、優しく頭に響く。

「平気かい? ヘレナ。随分とうなされていたよ」

「アーサー様? なぜ、ここへ?」

「君が、朝食の時間になっても来ないから呼びに来たんだ」

「寝坊をしてしまったのですか。私としたことが、申し訳ありません。でも、寝室に入るのは……契約違反かと」

 だが、アーサーは私の頬を片手で撫で、優しく甘えるような声で言った。

「そんなにダメ? かわいそうに……冷や汗をかいてるよ」

 私はぴくりと身を震わせ、できる限りアーサーからやんわりと身を振り払い、近くにあったガウンを手に取る。

「ダメです。白い婚姻である以上は当然でしょう」

 この白いレースの夜着を男性に見られることはひどく、憚られる。

 薄い生地であるだけでなく、小柄な体型のせいで、胸元や、手を全部隠すほどに余った袖にあしらわれたヒラヒラとした白いフリルが子どものように見えるのが余計に恥ずかしくてしょうがない。

 なのにアーサーはガウンを羽織るところまでを食い入るように見つめてくる。

「そんなに、見ないでください」

「ん? ひどい言い草だな。せっかく起こしてあげたのに」

「それに関しては感謝いたしますが……視線を送ることとは別ですわ」

 最近ずっと、妙な夢を見続けている。

 階段から落ちる夢や、見知らぬ闇に飲まれる夢。

 議会の設立に向けての活動や、エラーを吐いてうまく動かない魔脳端末の調査に向かっては、原因を突き止められずに終わる不完全燃焼で疲れすぎているせいかもしれない。

「頑張りすぎたよ、ヘレナ。少し休んだら? また痩せたし」

 咎めた意味が一切ないのか、アーサーは私を見つめたまま言った。

「いいえ、立ち止まるわけにはいきません。では、着替えてきますので」

 だが、アーサーがドアの前に立ち塞がった。

「おどきになって」

「どかない。君が休むと言うまでね」

 英雄アーサー・ルルイエに、こんな子供のような部分があるとは思わなかった。

 だが、こういったことがよくあるせいで、もう慣れてしまった。

 私を夢の中で救ってくれた英雄アーサー・ルルイエは、もっと余裕のある態度で、男らしくて、落ち着いていて、逞しくて、不遜で、どこか皮肉な笑みを浮かべていて……わずか数語しか会話していないというのに、あの日の彼の残像は異常なまでに頭に焦げ付いていて、未だに離れないというのに。

「今日は、絶対に休めませんので。それでは……」

 アーサーは私の腕を掴む。

「アーサー様?」

「もう少し、私に馴れ馴れしくしたっていいんじゃないかな? 様付けで、いつまでも敬語を使ってるのも変だ。一応形式上は夫なんだし。その方がみんなに怪しまれずに済むよ」

「逆に誤解を生みますわ。英雄は、形式上の妻よりも長年愛を育んだルルド様を大切にしてこそでしょう」

 アーサーは質問には答えず、どこか苛立ったように言う。

「君は俺……いや、私と話す時と炎龍と話すときでは態度が随分違う、違いすぎる。あれはさすがに良くないんじゃないかな?」

 確かに、白い婚姻の相手であり、長年の尊敬や憧れの対象であるアーサーとは意図的に距離を置こうとしているかもしれない。

 いつも気づけば、助けに来てくれる炎龍には甘えもあって、いつしか友人のように話していたが……。

 そんなことよりも、ふと気になった。

「炎龍陛下とは婚姻の儀の日にダンスを踊っただけ。ラストダンスは夫の貴方と踊りましたし、最初は誰か違う人と踊るものなのでしょう? そんなに馴れ馴れしかったでしょうか?」

 炎龍とあれから、よく会っていることをアーサーは知らないはずだ。

 なのに彼はまるで見てきたかのように話す。

「……ああ、そう感じたね。君も彼を心から信頼して、委ねているように見えた」

「だとすれば、あの場だったからでしょう。誰だって、ダンスを踊る時は多少、物理的・精神的に距離が近くなるものです。私のように踊る相手が誰もいない不幸な王妃ならば尚更ですわ」

「君が言うと冗談にならないよ。あいつは男前だし、君が本当に不貞を働こうとしているのかと思ってしまう」

「不貞……何を言っておられるのです。貴方まで私が淫らな悪女だと言うの? 私がそんな女ならば、なぜ白い婚姻を申し込んだとお思い?」

 アーサーは私の早口の理詰めに面食らったように黙る。

 炎龍なら、こんなときにきちんと自分の論理を展開して私を言い負かせるのに。

 ――今のは、心の不貞かしら? アーサー様とは本当の夫婦ではないけれど。

 だが、意外にもアーサーはボソボソと具合が悪そうに口を開いた。

「悪かったって思ってる。出遅れたのは事実だから」

「……え?」

「もう一歩早く、君の前に出るべきだった」

「ルルド様ではなく、私と踊っていればよかった? ご冗談を。貴方はそんな軽薄な方なのですか。ルルド様と国家を守るために私とは白い婚姻を結んだのでしょう」

 アーサーは呆れたように肩をすくめる。

「ほら、そう言うだろ。本当は、違うくせに」

「違う? なにが」

 アーサーはただ、黙って私を見つめる。その赤い瞳の中には、不思議な光が灯っている。

 まるで何かを感じて欲しい、いや、気づいて欲しいと言いたげだった。

 私があのとき、どうして欲しかったか?

 そんなの……決まっている。

 だが、愛する英雄にそんなことを求めてはいけない。

 それに、あのときは炎龍が困り果てた私の手を取ってくれた。

 姿形も何もかも違う。だが、あの懐かしい香りはまるで私を昔助けてくれた英雄のようだった。

 だが、その思考を遮るようにアーサーがひどく甘い声で言った。

「ねえ。欲しいものは欲しいって、ちゃんと言わなきゃいけないよ、ヘレナ」

「何を仰りたいのか、よくわかりませんが……話は終わり? では通してください」

 アーサーは断固としてドアの前をどくつもりがない。それどころか、私の腕を掴む。

「どかないって言っただろ?」

「……私を困らせないでください」

「困らせてるのは君の方だろう。夫の言うことが聞けないの?」

 夫? 何を言っているのか。

 白い婚姻で結ばれ、互いに政治的メリットのために共にあるだけなのに、彼には愛している人が他にいるというのに、権利まで主張されることに違和感を覚える。

 まず、なぜ妻が夫に従う必要があるのか意味がわからない。

 憧れていた英雄アーサーは、こんなにも低俗で、古臭くて、頭の悪い人だったのかと思うと腹が立ってきて、我慢ができなくなる。

  無理やり、アーサーの手を振り払って告げた。

「あら、億の命を救った英雄アーサー様が、そんなにも女を下に見ているとは思いませんでした。失望してしまいます」

 すると、アーサーは目を見開き、少ししょげた顔をする。まるで叱られた子どものようだった。

  19になったばかりの私より、3つも年上なのに。

「見下してるのは君の方じゃないか」

「そう感じたならば失礼。あなたの態度をそっくりそのままお返ししただけですわ」

 だが、アーサーはそれでもドアの前からどかない。そしてしょげた顔を元の不遜な顔に戻して言った。

「いいよ? じゃあ、君の意思を尊重する。でも、今日は私が君に同行する」

「は?」

  アーサーは突然私の腕を引っ張り、抱き寄せて耳元で囁いた。

「きゃっ……急に、何を……!!」

「君に倒れられると困る。私は君の寝室に入ったところを見られているし、可愛い妻に朝から一体どんなひどい虐め方をしたのかと疑われてしまうよ」

 虐め方? 意味がわからず、思わず聞き返す。

「虐める……あなたが妻を痛めつけるなんて誰も思いませんわ」

「ふふ、わざと言ってる? 痛いことなんかするわけないじゃないか」

「じゃあ、どういうことですの?」

 ふう、と耳に息をふきかけられる。

「ひゃあっ!!」

「もっと、楽しくて素敵なこと。ねえ、試してみたい? 意地悪はしちゃうかもしれないけど」

 耳にじっとりした吐息がまとわりつき、初めて、アーサーが何を言おうとしていたのか理解した私の顔は自然と真っ赤になる。

「か、か、か……勝手に入ってきておいて、冗談はやめてください!! しかも、そんな俗っぽくて品がないことを……みなから慕われる英雄が、恥ずかしくありませんの!?」

「英雄だって人間だよ。神様なんかじゃない。君の方がずっと勝手なことを押し付けていない?」

 私は思わず、黙ってしまった。

 その言葉が間違いであれ、わずかな一部は正しくあれ、心を見抜かれた気がしたからだ。

 アーサーはしばらく私を見つめ、ニヤリと笑う。

「というわけで、いいね? 私の可愛いお妃様」

 気づくとアーサーはそう言って、私の手を掴んでいた。


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